小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

随筆「庭の風景」(5、6年前のもの)

  先日、久しぶりに島に渡り、家に帰った。帰郷して二十年。仕事の都合で町にアパートを借りて暮らしているが、自宅は町から船で三十分ほどの洋上に浮かぶ島にある。
 この前帰ったのはいつだったろう。
 三月十一日の大津波以降、一度か二度、老いた義母の様子を見に、家に顔を出したものの、町の仕事場での復旧作業や雑用に追われて、ついつい疎遠になっていた。
 この数ヶ月、それなりに働いてはいた。
 だが、町を眺めれば、依然として不毛とも思える、コンクリートの塊が不恰好な姿に朽ち果て、並んでいるだけだった。
 そんな風景からたまには逃れてみようと思っての帰島だったが、島も過去の面影を所々に残しながらも、巨大なシャベルで掘り起されたように海岸線が抉られていて、町同様、荒れ果てたままだった。
 島の港から家までは、車で行くなら七、八分程度で着く。小春日和でもあり、タクシーは使わず、敢えて歩くことにした。
 港周辺は島一番賑やかなところで、民家が密集していたのだが、半年前の津波による被害は甚大だった。
 見渡すかぎり、根こそぎ倒された家の残骸が堆く散乱しているだけだった。
 人影も後片付けに追われている工事人しか見かけない。f:id:kugunarihama:20151008092613j:plain
 港の北側には里山が拡がり、その稜線の延長線上には二百メートルばかりの山がある。そこだけが形もそのままに、紅葉し切れない木々の色を纏っていた。
 その山が港の海面に微かに揺れながら、逆さに映されていた。
 幼いころに庭のように駆け回っていた想い出の山だった。
 木苺やあけび、それに栗や松茸までも生み出す豊潤な山を左手に見ながら、家までの道程をゆっくりと足を使い、辿りはじめた。
 
 自宅でありながら、たまにしか来ないと、他人の家を訪れているようで、妙に落ち着かなかった。
 何かと気遣う義母の動きは、どう見ても私より若く、心配して来たつもりが逆に心配されたのには苦笑を返すしかなかった。
 とても八十七歳とは思えない身のこなしに触れて、これじゃ、百歳まで大丈夫だろう、と一安心する。
 港周辺や海岸沿いとは違い、家から見える景色は少しも変わっていなかった。
 唯、幼いころには背丈ほどしかなかった家を囲む雑木が大木に成長し、昔は見えていた海が見えなくなっていることに、過ぎ去りし時間の長さを思う。
 義母が台所に立ち、昼ごはんの支度にかかろうとする。
 何もいらない、と言っても、せっかく来たのだから、うどんぐらい食べられるでしょうと譲らないので、仕方がないと妥協し、うどんが出来上がるまで、庭に出ていることにした。
 家の周囲が雑木林や松の木、それに山椛(もみじ)などが密生している。f:id:kugunarihama:20151008092750j:plain
 何もわざわざ庭を造ることもなかったが、数年前に鬼籍に入った父が、義母と二人で我流に木を植えたり花をつくったりと、気儘に拵えた。
 最初から纏まりのない庭だった。
 今は義母一人になって、手がさらに廻らなくなり、庭のあちこちに雑草が生えている。
 木々も無節操にのびているし、花々は時期をやり過ごし、萎れて変色した茎が折れて、地べたに寝転んでいた。
 気にすれば一つ一つが気になるが、しかし、見ようによっては手入れもなく、身勝手に育った植物たちの奔放さにも風情はあった。
 十月末なのに陽射しが温く、雑然とした庭を半分居眠り加減で、小春日和の気候にたゆたうようにゆっくりと歩いていた。
 田舎なので土地だけはふんだんにあるので、庭もそれなりに広い。
 縁側に腰を降ろすと、海は見えないが微かに聴こえてくる潮騒の音に耳を傾けながら、眼を細めて煙草を咥えた。
 見るとはなしに庭の端から端まで見回していた。
 視線をもっとも西側に移したとき、ふと気づいたことがあり、煙草を消して立ち上がる。十メートルばかり歩いた。
 西側には離れがある。そのぶん庭は狭まっているが、そこの片隅に繁茂するアケビの葉の緑(あお)さに束の間見入った。
 家の庭の片隅にアケビがあることに気づいたのは数年前だった。f:id:kugunarihama:20150918191633j:plain
 まだ父親が健在のころで、何故、アケビなど? と訊くと、どうせ根付きはしないだろう、と思いながら、山から獲ってきた一本を移植すると、いつの間にか殖えていた、と父は得意気だった。
 それが今、鬱陶しいほどの葉を茂らせ、いくつもの熟し過ぎた実が口を開けていた。旬から半月後の今は、口を開けたままに寂しそうにうなだれて、あの人工的にはつくり出せない特異な紫色が茶色に変色していた。
 この種により再び新芽を出ないものかと、垂れている種をとり土に埋めてみたが、叶わぬ試みではあるだろう。
 その場を離れ、母屋のほうに向かう。木々や花々には疎く、名前も知らないものが多いが、百日紅など数種類は判別出来た。
 眼に入るすべてのものが背丈をのばし、庭の土に影法師を映し出していた。
(あれもだいぶ大きくなったなぁ)
 不意に過去が蘇る。数年前、恩師からいただいた蝋梅が、すでに葉を落としてはいるものの、一メートルぐらいにのびていた。
 枝に触る。その感触が指先から体内にまで、あのころの光景を運んでくれる。
 枯れて尚、一枚だけ枝に留まっている葉を指先に挟み、土に戻した。
 葉が堕ちているせいか、顔を近づけても、蝋梅の、あの特有の香りはなかった。
 まだ一度も花をつけたことはないが、しっかりと成熟しなければ蝋梅らしさもあらわれないものか、と思いつつ、もう一つ、趣きの違う花をつける木を思い出し、視線を移した。
 それは庭にあるのではなく、家から東に二十メートルほど離れた雑木林の中にある。「おおっ、咲いてるじゃないか」
 思わず声が出る。それは五年前、造園を営む同窓生に贈られた桜の木だった。
 二度咲きの桜で、春と秋にきっちりと咲いてくれると、以前、義母が電話で言っていた。 こうして自分の眼で確かめたのははじめてだった。
 それにしても、ともう一度、眼の前の蝋梅に視線を戻す。
 するとあの日の光景が、降り注ぐ陽射しのように、脳裏に満ち溢れる。
 
 数年前、還暦を祝う同窓会が行われた。団塊世代で、この小さな島にも百六十人の同年生がいた。
 二十人以上がすでに鬼籍に入っていた。その供養も兼ねての催しだった。
 会は町のホテルの大ホールで催され、恙無く終えたが、招待された恩師の中に、最も世話になり、印象深い先生の姿がなかったことが気になっていた。
 当時、大学を卒業したばかりの初々しい中にも毅然とした言動に終始した先生で、教師としてはじめて島に赴任して来て、いきなりクラスを受け持たされた。
 洗練されたファッションと綺麗な標準語を話すだけで、すぐに男女を問わず生徒たちの人気者になった。
 黒板にすらすらと書くスペルや、生徒に向かって流暢に英語を話す先生に、私は異次元から、田舎特有のくすみを浄化するために使わされた特別な人、という印象を受けたものだった。
 先生には二年、三年と続けて担任として世話になった。
 その後先生は我々が卒業すると同時に島を離れ、生まれ故郷に程近い中学校に転任した。
 仲間を集めて、中学を卒業してすぐ、先生の家を訪ねたことがある。
 栗駒山に近い、もうすぐ町になるという村に家がある。
 父親が村長をしていた家は、歴史を実感させるほどに風格のある建物だった。
 道から庭まで石畳が敷かれた、ゆったりとしたスロープがあり、前を流れる小川のせせらぎの音が記憶に残った。
 仲間だった男女十人で先生の家の離れに一泊した。
 その夜、先生との語らいの中で、近々結婚すると聴き、男子よりもむしろ、女生徒のほうがショックを受けたようだった。
 先生は「近々結婚する」と言ったが、実はすでに嫁入りは済んでいて、しかし、十人もの教師としての初の教え子が泊まりに来るということで、嫁入りしたばかりの家、に招くことも出来ず、実家に案内したものらしい。だが、翌朝、先生は嫁ぎ先の家に私たちを案内してくれた。f:id:kugunarihama:20151008093010j:plain
 今は市になっているが、数十年前のあのころは小さな町で、国道四号線に架かる十メートルばかりの短い橋から見えるその家は、町の東の外れにあり、田圃が拡がるその真ん中辺りに、一軒だけ、まるで森のような鬱蒼とした木々に囲まれていた。
 由緒正しい旧家らしく、大きな門があり、まん前にその家所有の神社まである。
 私たちは門の前まで行き、中には入らずにバス停に引き返し、帰路に着いた。
 バス停から見た、遠くに霞む栗駒山と、田圃の真ん中にある鬱蒼とした森の中に建つ旧家とのコントラストを記憶に焼き付けた。
 月日が流れ、いつのころからか、年賀状だけの付き合いになり、数年後にはそれさえも途絶えがちになっていた。
 それだけに、同窓会での再会を心待ちにしていた。欠席の理由を、体調を崩し退院したばかりとのことで、と幹事が説明していたが、詳細は不明だった。
 九つ違いなので、そろそろ七十歳になるはずだった。
 数ヶ月後、どうにも気になり、中学を卒業したばかりのころたった一度、しかも数十分、門の前に佇んでいただけの先生の嫁ぎ先に行ってみようと思い立ち、出かけることにした。同窓会のときつくったアルバムに記されていた住所録から、電話番号は知っていたが、その番号を携帯電話の電話帳に記録しただけで、敢えて事前には連絡しなかった。
 不意に訪れて愕かせてみたかったのだ。先方の迷惑など少しも省みず、身勝手な子どもじみた発想ではあるけれど、先生はきつい性格ではあるが、そうした遊び心を許容してくれそうな印象が色濃く記憶されていた。
 
 出かける前夜は明日の遠足を待つ園児のように気持ちが昂ぶり、それは朝になっても治まらなかった。
 予定よりはだいぶ早くアパートを出て、仕事場へと車を走らせる。
 系列の鮮魚施設で鰹とアワビを先生への土産に買い求めた。
 それを発泡スチロールの箱に入れて氷詰めにし、車のトランクに納めると、いよいよ先生の家に向かった。
 順調に行けば、二時間足らずで着くはずだった。
 
 実は四十二歳を過ぎてから運転免許証を取得した。それには理由があった。
 十八歳から四十二歳までは都会で暮らしていたので、車は必要としなかった。
 免許証は田舎に帰る必要性に駆られて、慌てて取ったものだった。
 田舎は点から点までが一々遠く、とてもじゃないが車がなければその日の暮らしも成り立たない。
 しかし、免許を取り車を持ったものの、十五分も走れば肩が凝り、車内の窮屈さに閉口し、車には専ら、アパートと仕事場を往復するぐらいの価値しか見い出せなかった。
 そんなことから、休日でも精々二十キロぐらいの距離を走るぐらいで、一時間以上の走行など、私にとっては論外だった。
 それが思春期真っ只中に憧れを抱いていた恩師に会いに行くと決めた瞬間、往復で四時間弱の距離を走ろうと、異様に昂ぶっていることが不思議だった。
 カーナビも何もない軽自動車なので、道も判らず、国道を走るしか術がない。
 無事着けるかどうかも自信がないままに、しかし、何とか先生の棲む町の名前を道路の標識に見つけて、運転しながらどうにか辿り着けそうな自分に感心していた。
 目指す場所は、町の北側遠方に霞んで見えていた栗駒山と、短い橋を渡ってすぐに見えた、田圃の中に一軒だけある、先生の家を囲む森の存在だった。
 だが、その目論みはあっさりと覆された。一関方面から国道四号線を南に向かったのだが、先生の棲む町近くまで行くと、田圃はあるものの、そこには森のような木々を茂らせた風景は見当たらなかった。
 挙げ句、長短の橋がいくつもあり、知らない土地に迷い込んだ子どものような、はじめて車で遠出した、初老の男の迷子を一人つくりあげていた。
 何個目かの短い橋の上でウィンカーを点滅させ、駐車禁止の路肩に車を停め、外へ出て四方を見回す。
 勘ではこの辺りなのだ。けれど、そこは多少の田園があるものの、立派な町並みが国道を挟むように東西に伸びていて、田圃の中の森のような場所など、どこを探しても見当たらなかった。
 過去の記憶をもう一度呼び戻す。
(あのときは確か……、橋から山が一時の方向にくっきりと見えていた)
 橋の上に駐車し、あちこちを見回している私を、行き交う車の人々が胡散臭そうに見て通り過ぎて行く。
 気になるのは人々の眼よりも、トランクの中に積んだ、鰹とアワビだった。なるべく早く届けたい。
 北の方に視線を移した。山が見えた。馬の背のような山の頂上だった。
 記憶と重ねてみる。数十年を経て、記憶の画像もそれなりに狂っているのだろうか。
 何度見ても、過去に眼に焼き付けた山のはずだった。
 しかし、それはあの山の麓辺りから延々と、遠近法を巧みに駆使して、田圃が橋まで続いている風景でなければならなかった。
 それが今は町の建物に遮られ、田圃の半分が隠れ、山は馬の背のような頂上しか見えない。
 戸惑い、町と化した、かつて田圃があった町並みに眼を凝らした。
 先生が嫁いだ家がある森は、距離にして橋から数百メートルぐらいしかないはずだった。いつまでも橋の上でうろうろしていたのでは、いつ警察が通りかかるかも知れず、それにせっかく土産にと買って来た海の幸が傷む。
 そんなことを思いながら、もう一度山を眺めた。
 何十年経とうと山は変わるはずもなく、角度的にも一時方向なので、この橋に間違いない、と確信していた。
(仕方ないな。鰹やアワビのためにも電話しようか)
 そう思い、ポケットの携帯に手を触れた瞬間だった。
 橋と山とを結ぶ視線上に、町並みに囲まれている二本の木のてっぺんが見えていることに気づいた。
 だが、景色が激変しているせいだろうが、記憶にあるよりは橋からの距離が遠過ぎた。唯、行ってみる価値はある。
 そう思い車に乗ると、橋を渡り切ったところから北側に枝分かれしている細い道に入り、二本の木が見えた方向を目指し、車を数分走らせた。
 さらに細い道に入る。徐行しながら小さな十字路を左折した瞬間、ブレーキペダルを踏んでいた。
 橋からほんの少しだけ見えていたのは、二本の木のてっぺんだったが、眼の前にあるのは、広大な森だった。一瞬、自然公園かとも思った。
 だが、古めかしい門を眼にしたとき、記憶が鮮明に蘇る。
 朽ちかけた神社の佇まいが何よりも、その森のような一帯が、恩師が嫁いだ家だということを物語っていた。
 それにしても、そこはまさしく森のようだった。孟宗竹がみっしりと生え、風に葉を揺らしていた。
 橋からは二本の木しか見えなかったので半信半疑で近づいてみたのだが、その場に立ってみれば、周辺の激変にも動じることなく、あの当時のまま、いや、むしろ風景の密度をさらに濃くした森に囲まれた先生の家についに辿り着く。
 インターフォンを押す指が微かに震えた。
 十代後半に一度、しかも門の外で数十分過ごしたときに刻んだ記憶。それだけが頼りだった。
 十メートル程度の短い橋。そこから一時方向に見える栗駒山の姿。森のような敷地。それが記憶のすべてだった。
 だいぶ時間を費やしたが、辿り着いたことが無性に嬉しかった。
 
 病気が理由で同窓会への招待を断ってきた、と聴いていたので、鰹とアワビを届け、お見舞いが済めばすぐに帰るつもりだった。
 しかし、会ってみれば懐かし過ぎて、先生も帰ろうとする私の袖を引いて引き止めた。
 元気そうで、大学を卒業したばかりの初々しさをどこかに残したままの後姿で、門から敷地内へと導いてくれる。
 母屋までの二十メートルばかりの、すれ違うのも難しいほどに狭い幅の通路は、やはり、山や森の自然の散策路のような趣きに溢れていた。
「この庭、手を入れるには広すぎて、あきらめて放ったらかしにしてあるから、ごめんなさいね」
 と先生は全体を見回して庭と表現したが、中に入って改めて見回しても、そこはどう譲っても森でしかなかった。
 先生の実家に一晩お世話になってから、一度も会う機会はなかったのに、会う前はともかく、顔を見てからは格別はしゃぐこともなく、日々顔を合わしているように淡々としていた。
 それも当然だろう。私は還暦を迎え、先生は七十歳になろうとしているのだから。
 ただ、気持ちには多少、遥か昔の熱いものが残っているような気がした。
「この庭、狸が出るのよ」
 と笑う先生にうなずく。狸だろうが狐だろうが、いつ出ても何ら不思議ではないような森なのだから。
「狸ぐらいならいいけど、蛇には気をつけてくださいよ」
「蛇もたまには出るようね」
 屈託のない笑い声につられて私も笑った。そのまま母屋の茶の間に案内された。
 そこでご主人を紹介された。先生は相変わらず勝気でお茶目な雰囲気だったが、ご主人はとても温厚そうだった。
 お茶をいただき、再び庭に出る。先生は何か用意することがあるからと奥に消えて、それじゃ、私が、とご主人が一緒に庭に出て、あれこれと雑談する。
 門を入ってすぐ眼を惹きつけた竹林があり、その他にも、椛や枝垂れ桜、他にも何種類もの名も知らない木々が、隙間なく、それでいてのびのびと育っている。
 中でも、とりわけ背丈のある、橋から見えた木が、見上げると首が痛くなるほどに高々と、空に突き刺さっていた。
 茶の間に近い庭の一角には、面積にして十畳ほどの藤棚がある。
 見渡すかぎり、四季を通じて自然の移ろいが一目で判るような環境の一角に、旧い佇まいの家が二棟、周囲の自然に同化したようにある。
「ちょっといらっしゃい」
 玄関から先生の声がして近づいた。中に入り、先生に促されるままに廊下を歩く。
 窓越しに見える北側の庭には椛が鬱蒼としていた。その椛に覆われるように、小ぢんまりとした茶室があった。
 導かれて、中腰のままに茶室への潜り戸から室内に入った。
 庭側からご主人もあらわれた。
 茶の仕来りなどは知らない。ただ、正座が作法の基本だということだけは理解していて、大の苦手な膝をつこうとする。
 だが、無理しないで。あなたは胡坐でいいの、と言われ、厚意に甘えた。
 先生は流れるような手捌きで、緑色の茶を淹れてくれた。前に置かれた和菓子の甘みと少し苦い抹茶の味とがよく合った。
 茶をいただきながら、障子の雪見窓から見える、見事な椛を眺めていた。
 それに気づいた先生も、ご主人と一緒に背にしている庭を振り返る。
「この茶室からの秋がいいのよ。椛の赤が障子に映って、まるで外が燃えているように見えるのよ」f:id:kugunarihama:20151008093346j:plain
 教師の職を全うし、今は茶の湯の先生をしている、というその顔を見ていると、大病に罹ったという気配など微塵もない。
 なるほど、数十本はありそうな椛の葉すべてが紅葉したならば、確かに庭が燃えているように障子を染めることだろう。
 日中の陽射しでもそうだろうが、秋の夕陽を浴びた椛の燃え様を想像しただけで、その場にいるような錯覚に陥る。
 現実を忘れさせてくれる森のような庭に遮られて、周辺にぎっしりと建ち並んでいる町並みはまったく見えなかった。
 しばらく茶室で寛ぎ、廊下を渡り、玄関に廻る。
 訪れてすぐに気づいていたのだが、玄関を出てすぐに眼についたのが、いい匂いを漂わせている、人の背丈ほどある木の群れだった。
 はじめて見るものなので、束の間立ち止まって見ていた。先生のご主人が近づいて来て、それが蝋梅だと教えてくれた。
 地べたにその蝋梅の種実が無数に落ちていた。f:id:kugunarihama:20151008094331j:plain
「花が咲き、実が成り、種になって堕ちる。それを土に埋めて世話をすれば、一端の蝋梅に育つ」
 そうご主人に教えられ、二、三個ポケットに入れた。
 玄関に顔を出した先生に呼ばれ、茶の間に行って昼をいただく。
 帰る前にもう一度三人で庭を歩いた。改めて見ても、手を加えていない庭ではあった。
 最初の印象どおり、何度見回しても森のような庭だった。
 枝垂れ桜の傍に石のテーブルがあり、これもまた石造りの椅子が四つある。周囲の景色に馴染んでいた。
 それらを見ていると、まったく手を加えない森のようではあるが、あちこちにお二人の手が目立たないように加えられていることが判ってくる。
 ピクニックだろうが紅葉狩りだろうが、家にいながらにして可能なような庭に魅せられて、それからは年に二度ほど、図々しくも訪れる、私の癒しのスポットになっていた。
 先生は殆どを家で過ごし、茶をたて、庭を散策して一日を過ごしているとのことだった。ご主人が言うには、若いころに乳癌を患い、教師を辞めてから心臓の血管が細くなる病に罹り、同窓会を欠席したころは軽い脳梗塞に罹り、退院したばかりだったという。
 三つの病名を聴いただけで卒倒しそうになるが、先生は悟りきったように微笑を浮かべ、この前も浴室で胸が苦しくなって倒れたのよ、と他人事のように言う。
 言葉もなかった。
 帰るとき、先生とご主人が門まで送ってくれた。
「秋にもいらっしゃい。外に出ないから、ここ以外の四季の匂いを運んで来てちょうだい」
「俺が運ぶと、この庭の空気が濁りますよ」
 三人で笑った。
「鰹とアワビ、ありがとう。勿体ないから、私のぶんだけ造り、あとは冷凍しておこうかしら」
「おいおい、俺にも少し分けてよ」
 久しぶりに笑ったような気がした。長年連れ添ったお二人の仲のよさが感じられた。
 門を出て、車を走らせる前に振り返る。やはり、どう見ても森のようでしかなかった。
 
 自宅の庭で一メートルほどに育った蝋梅を見て、中学卒業以来、数十年ぶりに先生の家を訪れた日のことを思い出していた。
 あの日、お宅を去る間際、ご主人が蝋梅の切り株を持たせてくれた。
 それにポケットに入れた地面に落ちていた種実。
 そう。自宅の庭にある蝋梅は、その日にもらった小さな切り株が育ったものだった。
 種実のほうは自宅から少し離れた店の駐車場の隅に蒔いた。
 それも芽を出し、三十センチほどに育ったのだが、今度の大津波で店ごと流失していた。
「お昼、出来たよ」
 義母が呼ぶ。
 日ごろは意識していなくても、庭には私の歴史が息づいている。
 義母が待つ茶の間へと歩きながら、余り家と疎遠になってはいけないな、と恩師から受け継いだ一株から育った蝋梅と、友人から贈られた、二度咲きの桜の花を振り返り、思う。
 
                                  (了)