災害。被災。
台風の影響もまったくといっていいほどにないが、ニュースでその台風により被災された画像を観ては、3.11の大津波のときを思い出し、その大変さを自分のことのように受け止めている。
富津市に旧い友人がいる。千葉を直撃した台風による凄まじい被害の様子を眼にした、心配になり、すぐにメールしたのだが、いまだに返信がないので、心配している。
東日本大震災直後には、気仙沼に棲む私の安否を心配し、やはり、メールなどをたくさんの人がくれたらしいが、しばらくの間、私の携帯は音信不通になっていて、消息がわからなかったらしい。しかし、その後、ネットによる情報から私の無事が確認されて安心してくれた人々もいたようだ。
今回の場合はどうなのだろう。たとえば富津市の場合、ネット情報として、安否を確認するサイトはあるのだろうか。少し検索してみたけれど、見つけることはできなかった。
個人情報でもあるし、市役所でも公表はしていないんだろうね。けれど、8年前には手段があったことを思うと、何かがあってもよさそうにも思えるのだけれど。
大掃除。
掃除は滅多にしない。家が古く、成果が見えないからだ。
けれど今日、全体はともかく、各場所だけはすっきりしたいと思い立ち、涼しくもあったので、書斎の掃除に挑戦してみた。
だが、終わってみてもどこかすっきりしない。それもそのはず。整理整頓は自慢できるほどに下手で、前記したように、建物じたいがあばらや同然なのだから、どこをどう見ても雑然としていて、割の合わない労働をしたものだ、と今は後悔することしきり。
元来、狭いところが大嫌い。歩けば何かに足をぶつけて飛び上がるし、立てばぶつかりもしないのに、無意識に中腰になって歩いている。
仕事場もそう。狭くて便利なのは物をとるときだけで、他は狭いと何もする気がなくなる。物を片付けて総じてもすれば多少は広く使えると思っての行動だったのに、こうまで成果が上がらないとさすがにめげる。
話は変わるが、中秋の名月とはよくいったもので、真ん丸の少し大きく見える月がくっきりと浮かんでいた。
千葉やあちこちで台風の被害が大きく、被災した人々ゆ周辺の光景がテレビに移されるたびに、東日本の大津波のときを思い出し、沈痛な気持ちに包まれるが、一応、毎年のことでもあり、月に数品を供えて手を合わせた。
一日でも一時間でも早く、ライフラインが復活してほしいね。
当時は四十日、風呂に入れなかった。電気が通ったのもだいぶ経ったころだった。水道は一か月以上出なかった。
千葉の被害を見て、ついあのころを思い出し、束の間、呆然としていた。
写真のユリは、芯が緑色でとても清楚。似つかわしくないけれど、花は好きだ。
もう一枚は掃除したつもりのパソコン周り。真ん中に絵師である星先生の原画。素晴らしいのを頂いた。
平積み。
「とんぼ返り」の続きですが、
帰りに東京駅新幹線ホームにあがる手前の弁当専門店で、土産として、うなぎ弁当を必ず買います。
その前に時間があったので、駅構内に二つある、小さな本屋をのぞいたところ、二つ目の店の奥に、官能コーナーがあり、八月に出た拙著が平積みになっているのを見つけ、ちょっと嬉しかったですね。減り具合は三番目ぐらいだったかな。
ご承知の通り、あまり売れていないってのが現実ではあるけれど、目の当たりにすると嬉しいものですね。
田舎でもコンビニなどでは並んでますね。噂では、七月か八月にはエロ本はコンビニから撤収なんなて言われていたけれど、まだ、なんですかね。どうせなら、撤収なんてのは撤回してほしいですね。
さてその店に積まれていた本ですが、一人、見事に肥えたおじさんが、実に堂々とその平積みや棚にあるのを真剣な顔で物色していました。
それを見て、こちらも商売人の端くれとして黙って見過ごすわけもなく。自著を手に取り、「著者ですが、買ってください」と声掛けし、一冊買っていただきました。愕いていましたね。顔とペンネームのギャップに愕いたのでしょうか。
それでもよかった。確実にその日は、一冊は売れました。
とんぼ返り。
集まり、というか、呑み会があり上京。台風から逃れるように帰って来た。
それにしても都心の暑さはしんどいね。全身汗まみれでぐったりした。
ま、そんなことはともかく、呑み会じたいは面白かった。二度目なので、はじめてのときよりはだいぶ、色んな人たちと話し合えた。
一次会が五時過ぎからだったが、ホテルにチェックインしてすぐから近場で〇次会。
五人ほどで昼間から呑み始めた。それから二次会終了までノンストップで呑んでいたので、八時間以上、ぶっ通しだったことになる。
宴の中で感じたことは、みんな、ひたむきに真剣に仕事に取り組んでいる、ということ。感心するばかりだった。
こちらはといえば、切羽詰まっても一日最長で二時間ぐらいしかしないので、あ、これが差に繋がっているのかな、と思ったりもしたが、しかし、ただ思うだけで、これまでのペースは崩せそうにないところが最大の欠点だろう。
それにしても、まだ二度目の参加とはいえ、名前と顔が一致しない。一度目で殆どの方の名刺をいただいているのだが、今回の二度目でもまだ、初対面のような気がして、隣にいる人に出席者の名を一々確認していた。
店でだと一度来店してくれた客の顔はほぼ記憶し、たとえ百人入っても、客がオーダーしたものも、それを通したウェートレスの声まで記憶しているのに。そんなことを思うと、比較して真剣さが足りないのかな、とも思わずにはいられない。
だけど、愉しい時間ではあった。ただ、東京までが遠い。
気分転換。
二十年ぐらい、短いのでも長いのでも、ずっとパソコンで書いてきた。
それ以前は、一度原稿用紙に書き、ワープロで清書していた。書けば印刷して送っていたので、それが一番の方法だった。
前記した二十年ぐらい前からはメールに添付しての提出なので、そうなるとパソコンが便利で、原稿用紙に書いた汚い字を見てめげることもなくなり、疲労感も一気に減少し、とても気に入っていたが、しかし、八月の末に突然、初心にかえろうと思い立ち、
原稿用紙に一度書き、それをパソコンで推敲しながら清書しようとし、九月一日から、それを実行している。これを機に、万年筆も新調した。パーカーとパイロット。結構な値段だったが、だからこそ、原稿用紙に書く、のだ、という覚悟も出来る。
そうしたからといって何一つ変わるわけではないが、それでもずっと以前、原稿用紙で書いていたころのほうが、何となく充実していたような気がしたからだ。
書き始めは前にも記したような記憶があるが、とても遅かった。そのせいでもないだろうが、何かに憑かれたように書きなぐった。
書いては応募し続けた。結果も出た。いきなり「北日本文学賞」の選奨をとり、続けて、いまはないが「小説ciub新人賞」の最終に残った。それはしかし、編集に呼ばれ、数か所書き直してくれれば掲載すると言われたが、当時は気が滅法強かったので、
「来年応募してとるからいい」と断った。今思えば編集のいいなりになっていればよかった。翌年には最終に残ったのよりずっといい、と思っていたのが、一次にも掠らなかった。
次には、これもいまは潰れているが、「新風小説」というエロ本の月間雑誌が新人賞を募集していたので、それに応募し、大賞受賞となった。この賞は三回で打ち止めとなった。私は第二回。第一回が北原双治氏で、第三回が、北山悦史氏。受賞後、その雑誌に十数本、短編を載せてもらった。それが原稿料をもらったはじめてだった。
その年は当たり年だった。祥伝社のウェブで、やはり募集があり、そこでも最終に残った、普通、それで終わりだが、編集長から誘われ、そこでも二十本ぐらい短編を載せてもらった。ここの編集長にはお世話になった。八年前の大津波のときには、わざわざ三陸の離島までお見舞いに来ていただいた。
まだある。「週刊実話」という週刊誌がある。そこでもシニア官能? だったかの募集があり、応募すると二番手に入った。
なんとなく充実していたような気がする。原稿用紙に書き、ワープロで清書していたころであり、途中からパソコンに替えたころだった。
完全に原稿用紙を棄て、パソコン書きになり、原稿をメールで送り始めたのは、キルタイムあたりからだろうか。
興味のある方はいるだろうか。すぐにではないが、ツテも何もなく、キルタイムで書くことになった経緯など、ポロッポロッと書いていこうか、と思ったりしている。
もうすぐ、上京。とはいっても、半月後だけれど。
六月に上京したばかりだが、来月七日、またしても会合があり、上京することになった。会合とはいえ、仲間たちとの呑み会がメイン。
相変わらずの一晩泊りで、翌日の午後二時過ぎには帰りの新幹線に乗っている、という慌しさ。
疲れてへとへとになるけれど、田舎でぐ~たら生活している私にとっては、たとえほんの一日とはいえ、刺激を貰えるので、可能なかぎり、集まりには出席と決めている。
今回は三十人近く集まるようだ。はじめて二次会まで参加するけれど、ホテルが駅の真ん前なので、その点は楽。
あと約半月後。愉しみです。