小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

主に短中超編の、埃をかぶっている小説を発表しようと思ってのブログです。よろしくお願いします。

北日本、見事に一次で散りました。さっそく、落選作をアップ。タイトル「類似家族」。

一次落ち、ということは、これはまぎれもなく、小説の体を成していない、ということになります。
今後の参考になれば、幸いです。
http://webun.jp/pub/hensyu/bungaku/50_2016/result1.html
↑は当落情報です。








 瀬川祐一郎はいつもの朝のように、小鳥の囀りに目覚めた。
寝癖のついた頭髪を手櫛で撫でつけながら、二階の自室からの階段を降り、居間に義母の姿がないことに気づき、庭に出てみた。
父が亡くなってから義母一人では手に負えず、あちこち整理されていない五月末の庭には、瀬川には名も知らない、様々な花々が入り乱れて咲いていた。
その義母は九月を迎えると九十一歳になる。最近は、起きてすぐ、義母が変わりなく朝を迎えているのを確認することが、瀬川の日課になっていた。
花々の香りに、まだ微かに残っていた眠気も消え、家の敷地に隣接する、少しばかりの畑のほうに歩いた。義母が朝飯に使う食材を求めて、畑にでもいるのだろう、と思ったからだった。
「あっ、祐一郎さん」
 義母は畑ではなく、家の裏側から姿を現した。手に鶴嘴とスコップを重そうに持っていた。
「何だ、朝早くからそれは? それに、歳を考えろよ。九十歳の婆さんが、鶴嘴やスコップを持ち、長靴を履いているのを誰かに見られたら、この俺が年寄りを虐待しているように思われるだろう」
 耳が遠く、補聴器を入れている義母に声高にそう言う。
「アホが今朝死んでたからっさ、埋めねばと思って……」
 義母は悄然とした表情で、後方を振り返る。皺が刻まれた額に汗が浮いていた。
アホとは数か月前から隣の家の飼い主が高齢から餌を与えることを放棄したことにより、餓えに堪えかねて、我が家に移り住んでいた老猫だった。
「死んだか。昨日から蠅が顔に集って(たかって)も追い払うことも出来ず、餌も喰おうとしなかったから、長いことないとは思ってたが――」
 人の年齢なら何歳ぐらいになっていただろうか。声帯がつぶれているのか、毛を撫でても餌を与えても、お愛想で喉を鳴らそうとするのだが、短い擬音しか出せないほどに老衰している猫だった。
「それは俺がやる。あ、そのままではいくら何でも可哀想だな」
 老猫の亡骸はダンボール箱の中に入れられていた。覗いてみると、持ち主に飽きられて放置されている縫いぐるみのように、老猫は前足をきちんと折り畳み、眼を瞑ったまま横向きに硬直していた。
「タオルにでも包んで埋めてやろう」
 瀬川は義母の手から受け取った鶴嘴とスコップを一旦その場に置き、タオルを取りに裏口となる台所の出入りドアから家に入った。
未使用の大きめのタオルを手に裏庭に戻ると、義母はティッシュペーパーを丸めて、老猫の眼にこびり付いている目脂を拭き取りながら、独り言ちるように、最早もの言わぬ猫に語りかけていた。
「俺ぁとどっちが先さ逝くかと思ってたら、おめえが先にはぁ、逝ったなや」
 瀬川は苦笑しながら、再び、鶴嘴とスコップを手に取った。
「婆ちゃんは百まで大丈夫だよ。下手したら、俺のほうが先かも知れない」
「あらぁ、それだけははぁ、絶対に駄目だから。体ば気をつけてけらいん」
 そう言って手にしたタオルで猫の死骸を包みながら、義母は瀬川の顔を見上げ、「祐一郎さんだって、もう、若ぐはねえんだから」と眼を瞬かせる。
歯医者以外、知人の見舞いにも行かないほどの病院嫌いで、健康診断でさえ一度も受けたことのない瀬川に対し、義母は最近、検診を受けろ、もう少し痩せたほうがいい、と細々と世話をやきたがる。
「いまは元気でもはぁ、もう六十ば過ぎてるんだから」
「ああ、判ってる。俺が二十歳のころの六十代は、人が死ぬ年代だったからな」
「ほんだよ。俺ぁのいまの歳など、昔なら、もう一回生まれ変わっているような歳だもの」
瀬川は義母の恍けた言葉に思わず笑みを浮かべながら、以前に飼っていた雌猫を埋葬した、裏山のクルミの木の根元へと歩き始めた。
その後を、タオルに包んだ老猫の死骸を抱いた義母がついて来る。ほんの二十メートル余りの距離を、義母と二人だけでの葬列だった。

 夏のように暑い日が続き、桜も藤の花も、例年よりは半月以上も早く散り、毎年、休みごとにカメラを手に、花々の彩りを撮りに出かけていたのだが、今年は気まぐれな季節の移ろいの速さに翻弄され、庭に疎らに咲いた桜の花を数枚、カメラに収めただけだった。
 もうそれは二か月ほど前になるが、老猫はそのころから衰弱しているようだった。動きが極端に鈍くなり、瀬川が車で帰宅しても、駐車スペースに横たわり、義母が慌てて抱き上げて車を避けることも度々あった。
義母は隣家の飼い猫だったにも係らず、殊の外、その薄汚れた老猫を溺愛し、いつも傍に老猫を従えては、自給自足のもととなる、少しばかりの畑に入り、野菜などの手入れに明け暮れていた。
 ある朝、仕事に出かける時間となり、庭に出ると、義母は百日紅の木の根元に横たわり、日向ぼっこをしている猫の傍にしゃがみ、頭を撫でながら、猫と同じような顔をして、眼を細めていた。
「俺ぁとおめえとはぁ、どっちが先に逝くんだかなや」
 瀬川がその後、猫を相手に度々耳にした義母の口から漏れる、強ち冗談とも思えないつぶやきを耳にしたのは、そのときがはじめてだった。その老猫が死んで義母が最初に口にしたのは、
「アホに先にはぁ、逝かれてしまったなや」だった。
「婆ちゃんはまだまだ大丈夫だ。何度も俺が言ってるだろう。百まではいけるって。だけど、そうなると、俺のほうが先かもしれないな。頼むから婆ちゃん、俺より数年は先に逝ってくれよ」
 半ば冗談でそう言うと、義母は薄く微笑み、
「ほんだね。ほんだけど、祐一郎さんははぁ、車ば乗ってるし、今は歳の順番通りにはいかない世の中だから、自分のことははぁ、自分で気をつけねえと駄目だからね。検診ば受けねえし、そんなことでははぁ、長生き出来ねえんだからっさ。父ちゃんが祐一郎さんの歳には、もう年金暮らしで俺ぁと一緒に庭いじりしてたのに、祐一郎さんは若えころより長く、昼も夜も仕事ばしてる。無理が一番、体には駄目なのだから」
「ああ、判った判った」
 心底から心配している様子はよく読み取れるが、最後にはいつもの展開になるので、瀬川には多少煩わしい。
まだ何か言い足りなそうな義母を無視して、瀬川は新聞を手に、居間に向かった。義母がお茶を淹れてついてくる。薄っぺらで、世の中の動向など一行としてなく、狭い地域のことしか記されてない新聞の字面を、退屈しのぎに眼で追う。
もっとも紙面が割かれているのが、地域に係るあらゆる船の一日を伝える欄と、死亡記事だった。
生欠伸をしながら紙面を見ていた瀬川の眼が、小さな囲み記事のところで止まり、注視する。
「婆ちゃん、子猫を譲るという記事が出てるよ。トイレもちゃんと躾けられているようだ。アホが死んで寂しいだろうし、話し相手がいなくなり、惚けられても困るから、この子猫、貰おうか」
 義母は一瞬、興味があるようにその箇所に見入っていた。だがすぐに視線を逸らすと立ち上がり、
「いやぁ、もう、生き物は沢山だでば。可愛いけんと、死なれるのって、人の死とはぁ、同じぐれえに嫌(や)んたから」
 と表情を引き締め、姉さ被りをし直して、庭に出て行った。再び畑に向かったようだった。瀬川はもう一度可愛く撮られている子猫の写真に眼を向けながら、この猫を飼おう、と決め、携帯を手にすると、記事中に記されている、相手の番号に電話した。
すぐに電話が繋がり、話はとんとん拍子に進んだ。
翌日、町に渡り、子猫を譲りたい、という相手と喫茶店で会う。新聞に載せられていたのは一匹の子猫だったが、相手が持参したのは三匹だった。瀬川はそれをすべて引き取り、子猫が入れられた箱ごと車の助手席に積むと、島に向かうフェリーに乗った。
帰宅し、車を庭に停めてガラス窓越しに居間を覗く。義母は庭まではっきりと聴こえるテレビの音量を気にする様子もなく、専用の小さなソファの背に体をあずけたままに口を半開きにして、気持ち良さそうに舟を漕いでいた。
猫をそのまま車の助手席に置き、買って来た猫用のトイレを抱え、二階の自室に上がった。もしも猫を飼うことに義母が頑なに反対するようなら、自室で飼おうと決めていたからだった。トイレをセットし、再び庭に出る。義母はまだ寝入っていた。
猫の入った箱を持ち、そっと自室への階段を上がる。箱から出された子猫は、一瞬、見馴れない環境に置かれたせいか、怯んだような眼をし、しかし、数分後にはずっと棲んでいる家の中にいるように、珍しそうに周囲を見回し、ソファの下に隠れたりしながらも、ついには三匹とも競うように瀬川の足元に纏わりついてくる。
足に縋る子猫たちをどうにか剥がし、立ち上がる。歩き始めると、子猫は当然のようについてくる。階段を降りる。その急勾配な階段に、子猫は竦んだようだった。踏み出した一匹が足を滑らせ、必死に階段に敷かれたカーペットに生えたばかりの爪を喰い込ませ、血走ったような眼で、瀬川を見上げてくる。構わず階段を降りた。振り返って見上げると、あきらめず、初体験であろう恐怖感と闘いながら、少しずつ階段を降りようとする三匹の子猫の姿が微笑ましい。
瀬川は義母が昼寝している居間に入ると、新聞を広げた。その音に義母は目覚めたようだった。
「あらぁ、俺ぁ、いつの間にかはぁ、眠ってしまってはぁ」
「余り昼寝すると、夜、寝られなくなるぞ」
「そうだね。俺ぁも昼寝ばすると、そのまま眼が醒めないような気がするからはぁ、これまでは出来るだけ、夜以外は寝ねえようにしてたんだけれど、アホがいなくなってからはぁ、遊び相手に事欠いて――」
 義母はまだ眼を擦りながらソファから立ち上がると、お茶でも淹れっから、と言って、台所に向かう。お茶だけでなく、自慢の漬物でも出すつもりなのだろう。
そのとき、瀬川の眼は、入るときに閉めきっていなかった障子戸の隙間から、茶色い一匹の子猫が、どうにか階段を降り切り、束の間周囲を見回している姿を捉えていた。
見続けていると、他の二匹も姿を現した。台所へ行こうと、義母はその障子戸を全開にする。と同時に、しゃくり上げるような声をあげ、義母は猫のほうを指差しながら、瀬川を振り返る。
「ゆ、祐一郎さん、ね、猫が、まんまんまんま、さ、三匹も……」
心底驚いたときに発する義母の古すぎる方言が可笑し過ぎて大笑いする瀬川の声に、驚いた子猫たちが一瞬後退る。
「あ、その猫、可愛いだろう。何もしないでいると惚けるから、惚け防止にはいいと思って、貰ってきた」
「も、貰ってきたって、な、こ、こんな三匹も……。ああ、俺ぁ、もう、生き物ば、いらねえって言ったすぺ」
「そうか。それなら、俺が飼う。それで不満はないだろう」
「ああん、何(なに)ば語ってるんだべ。仕事ば持ってる祐一郎さんが、世話出来るわげねえっぺ。猫の世話、俺ぁの仕事さなるんでねえの。ああ、もう、何(な)して貰ってきたんだべ」
 義母は口から不満を垂れ流しながらも、その場にしゃがむと、足元に纏わりつく子猫たちの毛を指で梳いていた。
「トイレは階段の踊り場にある。あとでこっちに移そう。躾けられているから汚さないはずだ。あ、余り甘やかすんじゃないよ、婆ちゃん」
 瀬川は立ち上がると二階の自室への階段を上がり始める。子猫がついてくる。
「餌ぁ、残ってるのでは、無理だね。こいつら、まだ小っこいからはぁ、どうすんのっさ」
「牛乳でいい。それに子猫用の缶詰の餌も買ってきてあるから、少しすづ喰わせればいい」
「ほら、そんなことば言ってはぁ、やっぱり、俺ぁさ猫ば任せる算段でねえの、祐一郎さん」
 瀬川は苦笑しながら、階段をのぼった。振り向くと、まだ足が短すぎて階段の段差に手こずっている子猫たちの尻を、義母は汗を掻きながら、後方から押し上げていた。
「さ、三匹もだなんてはぁ、俺ぁ、猫の世話考えただけではぁ、頭痛くなりそうだもの」
 まだ恨めしそうに言う義母の足元に、階段を上るのをあきらめたような子猫が一匹、じゃれるように纏わりついていた。
「まだ一匹ならはぁ、……なや、おめえだけなら、何とかなっかもだけんともなぁ」
 もう完璧な独り言状態だった。
「牛乳、少しはぁ、温かくしたほうが、いいんだべか」
 歩くたびに足に戯れる一匹の子猫を引きずるような足取りで、義母は子猫に、祐一郎に言われた牛乳でも用意するつもりなのか、台所のほうへ向かっていた。

 義母は生き物を飼うことにはいつも反対していたが、いざ飼うことを余儀なくされると、まるで孫を世話するように可愛がる。
猫は人の気持ちを熟知していて、単に可愛がる瀬川には月並みな愛想を見せるに過ぎないが、義母に対しては終始纏わりつき、離れようとしない。
猫をはじめて飼うことになったのは、父が亡くなった年で、十年ほど前だった。瀬川が営む店の裏側で、梅雨に入ったばかりのころ、雌の野良猫が六匹の子猫を産み落とし、棄てることもままならずにいたところ、急遽、保健所の視察があるとの連絡が入り、慌てて、まだ生まれたばかりの子猫六匹を発泡スチロールの箱に入れ、自宅に持ち帰ったことが始まりだった。
 帰宅したのは夜十時過ぎて、義母はすでに寝ていた。トイレの躾けも何もしていない野良猫の子なので、発泡スチロールの蓋を開け、そのまま一晩庭に放置した。
「うわぁーーっ、何だべ、こ、この猫……、一、二、三、四ぃ、ありぁ、ろ、六匹も猫が……、どっから来たんだべ、ゆ、祐一郎さーん!」
 いつものように小鳥の囀りに目覚めた瀬川は、欠伸をしながら、義母の声を聴いていた。驚くのも無理はない。義母は常々、生き物は嫌い、と公言し、家に野良猫が近づくと大声で追い払っていた。
階下に降りて洗面所で顔を洗っていると、義母は息を弾ませて洗面所まで来て、額から噴き出した汗もそのままに、瀬川が洗顔をし終えるのを待っていた。
「どうした?」
 振り向いた瀬川の顔を、義母は言葉を発することも忘れたように仰ぎ見、まだ息弾む胸を押さえていた。
「ね、猫が、ろ、六匹も、庭さ居てはぁ、俺ぁ、びっくり、魂消てはぁ……、あの猫たち、祐一郎さんがー―」
「ああ、そうだ。店の裏に六匹産んで、衛生上よくないから持ち帰った。可愛いだろう」
「も、持ち帰ったってはぁ、可愛いだろうって……、あの猫ば、ど、どうするのっさ」
「飼うんだよ。心配するな。俺がちゃんと世話をする」
「う、嘘ばり語って……。世話ばするって、毎日仕事で家に居ねえ祐一郎さんが、どうやってはぁ、世話ばするのっさ」
「そんなものは何とかなる……。餌は店から持って来るから、それを喰わせればいい」
「ああ、何ぃ、言ってんだべ。そんなことばかりはぁ、言って、ほんで、餌運ぶだけで、世話ぁ、俺ぁがするってことになるすぺ」
 瀬川はおかしさを堪えられず、まだ呆気にとられたままの義母に背を向けて、庭に向かった。義母もついて来る。
 店の裏庭よりはずっと広い家の庭で、子猫たちはじゃれ合い、駆け回り、足を滑らせて転んでは数匹が折り重なったりして、無邪気に遊んでいた。それも瀬川の姿を認めると、無駄な動きをやめ、一斉に近づいて来る。
匂いなのか容姿を覚えているのかは判らない。一目散に瀬川の足元に駆け寄り、戯れる子猫はしかし、少し遅れて姿をあらわした義母の姿を認めると、あっさりと瀬川の足元から離れ、義母のほうへ向かう。
やはり、匂いが子猫の本能を刺激しているようだった。義母は手に牛乳を入れたアルミの容器を持っていた。義母がそれを地面に置くと、六匹の子猫は、等間隔に並ぶ時計の数字のようにアルミ容器を囲み、舌鼓をうつような音を立てて、牛乳を啜っていた。
「子猫のくせに、こいつら、牛乳で腹壊しそうだな」
「ほんだね。よっぽど腹ぁ減ってたんだべもの」
義母はそれまでの怒りも忘れて、子猫たちの傍にしゃがみ、一心に容器に顔を突っ込み、牛乳を漁る子猫たちの頭を撫でていた。ぶつぶつ言いながらも、それからの義母は子猫の世話に没頭していた。
猫の少しの動きにも反応し、瀬川が一日二食でいい、と言ったにも係らず、三食あてがわなければ可哀想だと譲らず、呆れることに、このままでは不憫だからと、家の裏側に設えてある棚に猫用の住居をつくったりと、義母はもう、猫を動物扱いはせず、孫のように接していた。
しかし、家に持ち帰ってから二か月ほど過ぎ去ったある日、だいぶ成長した子猫たちは、一匹の雌猫を残して忽然と消えた。夏真っ盛りで、お盆も中日を迎えたころだった。
「やはり、野らは野良なんだな。どんなに自由にさせていたところで、やつらにとっては野良でいたほうがよかったのだろう」
「それはそうだかも知れねえけんと、でも、どこさ行ったんだべ。こんな暑さの中、まだ小ぃっちゃこい猫、餌探しも出来ねえのにはぁ、大丈夫だべかや」
「忘れろ。あれほど嫌がっていた猫が消えたんだ。よかったじゃないか」
「そんなこと言うものでないから……。嫌でも飼ってしまえばめんこいし、居なぐなればはぁ、孫が居なぐなったのどはぁ、俺ぁの気持ちでは同じなんだからっさ」
 気にしながらも、恩知らずな奴らだ、と罵る瀬川を窘めながら、義母は何度もため息を繰り返していた。
瀬川も口では罵倒しながらも、内心はどうしたものか、と案じていた。凄まじい暑さが続いていた。テレビでは熱中症により命を失う人が多くなっている、というニュースが、連日報じられていた。
この猛暑の中、まだ生まれて二か月程度の子猫が生き延びる術はない。大方、餌にも水にもありつけず、三日も経過すれば干からびているはず、と信じて疑わなかった四日目の夜だった。
 お盆で島に帰省していた客で、その夜、店は珍しく賑わった。瀬川は棒になった足を擦りながら、客が退けた後の店内のカウンターで、帰宅する前のひとときを過ごしていた。
「ああ、可愛い。まだ、子猫よ。あっ、あれって、親猫でしょう。あらら、あの親猫、冷酷……」
 店の駐車場から若い女の声が聴こえた。言葉の感じから、観光客のようだった。
恋人と夜の散策でもしていて、野良猫でもからかっているのだろう、と思いながら、「子猫」という一言が気になり、瀬川は立ち上がると、厨房の裏口から駐車場に出て見た。
数軒ある民宿のほうに続く緩やかな坂道の外灯に、遠ざかる若いカップルの後姿が浮かび上がっていた。
耳を澄ますと、たしかに子猫の鳴き声が聴こえた。
(あれはアホの声だ)
 何匹子猫がいても、鳴き声はそれぞれに微妙に違う。耳が捉えたその声は、姿を消してからさらに強く記憶に刻まれている、子猫たちの中の一匹の鳴き声に間違いなかった。
瀬川は駐車場と海水浴場へと続く小道の境になっている檜葉の植え込みのほうへ近づき、しゃがむと、檜葉の向こう側を覗き込む。
瀬川は眼にした光景に衝撃を受けていた。その猫は家を脱走した子猫の中の一匹に紛れもない。子猫が母猫の姿に歓喜し、疲れ切ったような足取りながら、走って近づいた。だが、母猫は背を丸めて怒り、匂いを確かめるように鼻を体に押しつける子猫に対し、前足で鋭く撲り、テリトリーに足を踏み入れた敵に対するように、追い払ったのだ。
母猫はそれが当然のように、一度も子猫に振り返ろうともせず、一目散に海水浴場へと続く小道を走り去る。
 子猫は本能で、母猫を追っても最早無理、と判断したのだろう。視線は母猫の走り去ったほうへ向けたまま、その場に正座し、前足をきちんとそろえた美しい姿で、途方に暮れているようだった。
「アホ」
 瀬川の声に子猫の全身が固まったように見えた。しかし、それは一瞬だった。
子猫は瀬川に振り向くと、顔を認めた瞬間、ありったけの力を振り絞ったような走り方で近づき、抱き上げた瀬川の白衣に爪を甘く立てて、喉を鳴らし、か細い声で精一杯愛想を振り撒いて甘えた。
胸に抱いたまま、店に入り、座布団に子猫を座らせた。弱っているようだった。当然ただろう。家から消えて四日が経つ。その間、ずっと陽射しが強く、いくつもの山越えの、直線にして六キロはある道程を、生まれて二か月にしかならない子猫が走破したのだ。
母猫に駆け寄ったのも、瀬川の胸に抱かれて甘えたのも、子猫にとっては必死の思いだったに違いない。
瀬川は冷蔵庫からミルクと鮪の中落ちを出すと、カウンターの椅子の座布団の上ですでに寝息を掻いている子猫の前に置く。
匂いで目を開いた子猫は、再び激しく喉を鳴らすと、先ずはミルクに舌をのばし、次には鮪の中落ちが盛られたさらに顔を突っ込み、激しく身震いしながら、呑み込むのももどかしそうに貪っていた。
「バカだなぁ、おまえは……。あ、違うか。俺がおまえたちを家になど連れて行かなければ、あの母猫にいまでも甘えていられたか」
 瀬川はつぶやくようにそう口にしていた。
 喉をミルクで潤し、鮪の中落ちで空腹を満たした子猫は、そのお礼でもするように、瀬川の膝によじ登り、グルグルと喉を鳴らしながら、膝から白衣を這い上がる。
瀬川の顔に顔を擦りつけて、それまで貪っていた鮪の匂いを撒き散らしながら、何としてでも感情を伝えようとしているようだった。
「しかし、おまえ、凄いなぁ。どこをどのように歩き、ここまで戻って来た?」
 猫相手では訊き出す術もないが、瀬川は口に出してそう言わずにはいられなかった。
「他の兄弟はどうした?」
「くぅーん」
 言葉が通じたように反応してか細く鳴く子猫が無性に愛しくなり、瀬川は子猫が苦しさに藻掻くほどに強く、その小さな体を抱き締めていた。
おそらく、他の子猫たちはお盆の真っ只中に命を落としたのだろう。
「それにしても、おまえの母親は薄情だな。命を賭けてここまで辿り着いたのも、あの母親に会いたかったからだろうに」
 子猫は瀬川に抱かれたままに、前足を器用に動かし、貪り喰った鮪で汚れた口周りを拭うのに余念がない。
「また、家に連れ帰るからな。もう、逃げるなよ。おまえの妹だか姉だか知らんが、待ってるはずだから、仲良くしろよ」
 むろん偶然に他ならないが、言葉を理解したように鳴き声を発する子猫に、瀬川は柄にもなく感じ入っていた。
「おまえには俺の家が一番なんだよ。二か月前に産んでくれた母猫に見捨てられたおまえには、俺の家が一番なんだよ」
 両手で掴むと、手のひらの中にすっぽりと収まるような大きさだった。
この程度の体で、生まれた場所に戻ろうとする動物の帰趨本能を思うと、唯々、茫然とするばかりだった。
「婆ちゃんは四十二で家に来た。俺は十二で母親とは死に別れた。おまえは二か月で母猫に追い払われた。俺とおまえと婆ちゃん、まったく血の繋がりのない似た者同士が一緒に棲む。そんな家があってもいいだろう」
 馬鹿みたいなことを言っていると思いながら、瀬川はしかし、一人うなずき、
「あ、おまえにはまだ、同じ血が流れている雌猫が待っている」
 そう語りかけながら、子猫を抱いたまま、深夜近くに帰宅した。

 翌朝、眼覚めてすぐ、庭に出た。もう脱走はしないだろう、とは思ってはいても、気がかりではあった。
「ああ、祐一郎さん、い、一匹、帰って来たでば……」
 近づいてみると、戻った茶色の子猫と、一匹だけ家に留まっていた雌猫がじゃれ合っていた。瀬川は昨夜からの子猫との経緯を義母に説明した。義母は眼を丸くし、雌の子猫とじゃれ合っている茶色の子猫を胸に抱き、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
猫はそんな義母に頓着せず、腕の中から逃れようと全身を捩っていた。
「こいづは生かされたんだね。まだ死んでは駄目だと、自然の力ではぁ、生かされたのっさ」
 異論はなかった。他の子猫はおそらく息絶えているはずだった。一匹だけが生き残る。茶色の猫は選ばれたのだろう。
「母猫には邪険にされても、子猫同士は違うんだな」
「ほんだねぇ。それにしてもはぁ、母猫らしぐももねえ親猫だこと……。子っこが命がけで会いさ帰ったのにはぁ、そったら仕打ちするなんてねえ」
 義母は子猫を腕から解放すると、裏口から台所に入り、すぐに残っている缶詰の餌を手に戻って来た。匂いに子猫たちが反応する。
「ほら、一杯喰って、おまえら、俺ぁよりも長生きしろや」
 瀬川は猫のように背を丸めて、二匹の子猫に語り掛ける義母の声に背を向けて、自室に引き返した
 雌猫が車に轢かれ、死骸となって見つかったのは、それから数か月後のことだった。
一匹残った牡の仔猫は、文字通り、義母から猫っ可愛がられ、大人になった。しかし、大震災により、一か月以上も家を離れた瀬川と義母が戻ったとき、その猫の姿も消えていた。
少し前に老衰により死んだ二代目のアホという名の猫は、震災から消えた茶色の猫と、瓜二つだった。

「おめえたち三匹ならば、まだ小っちゃこいからはぁ、俺ぁよりは長生きすんべもの。今度ばかりは、俺ぁのほうがおめえたちより、先に逝くべもの」
「また始まったな。そう先に逝く逝く言うのに限って、長生きする。婆ちゃんはおそらく、この子猫たちを送るまでは死なねえよ」
「あらぁ、そんなこと……。俺ぁ、またぁ、生き物の死に顔なんて見たくねえからっさ……もう、懲り懲りだもの」
 義母はそれが日課であるかのように、眼の前の畑に向かった。その後を、まだ家に来て数日しか経っていない、三匹の子猫が追う。子猫たちはすでに、これから養われる相手を認識しているようだった。列の最後を歩いていた子猫が瀬川に振り返る。
 子猫たちにとっての義母は、すでに母猫そのものなのだろう。最後尾の子猫は、義母の背と瀬川の顔を交互に見ていた。近づき、抱き上げる。すると猫は身を捩り、瀬川に抱かれたままに義母と他の猫のほうに体をのばす。
瀬川は抱いていた猫を地面に戻した。解放された猫は二、三歩、義母がいる畑のほうに歩いて、再び、歩を停める。その仕草が愛らしく近づく瀬川を見ると、すぐに義母のほうに向き直り、歩き始める。他の猫はすでに畑で走り回り、義母に叱られていた。もう一度、一匹の猫が振り返る。その子猫の眼が、「おまえはついて来ないの?」と促しているようだった。              (了)