小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

主に短中超編の、埃をかぶっている小説を発表しようと思ってのブログです。よろしくお願いします。

背中合わせ。(北日本文学賞一次玉砕作品)

f:id:kugunarihama:20150701083714j:plainf:id:kugunarihama:20150609182035j:plain  普段は穏やかな太平洋を見馴れている眼に、車窓越しの牙剥き出しの海は、まるで行く手を阻んでいるようにも見えた。
 窓側に坐る頼子は、走る電車に体当たりするように、あちこちで白く砕ける大波を見て、異次元の光景を眼にした子供のように、はしゃいだり、絶句したりと表情が忙しない。
 乗り継ぎに急かされての旅でいささか疲れ、それまでは背凭れに体をあずけ眠っていた私も、頼子に揺り動かされて眼にした海を、束の間食い入るように見つめていた。
「眼が醒めたでしょう」
「ああ、凄いな。何もかもが違う。見てると怖くなる」
「この海、あなたに似てるかも……」
 何気ないその一言に刃物の切っ先を感じ、私は車窓を流れる海から眼を逸らし、車内販売で買ったお茶に手をのばした。
「あ、ごめんなさい。私、そんな意味でーー」
 頼子は不機嫌な横顔のままお茶を呑む私を気にしたようだった。
 チャイムが鳴り、アナウンスが、あと十五分ほどで魚津に着くと伝えた。
「魚津だって。薬やさん、ここから来ているのね」
 無言の私を気遣い、頼子は何とか話題を紡ぎ出す。
「毎年二回も。それもこんなに遠くから」
 そう応じたことで、強張っていた頼子の笑顔がやわらかくなる。
 頼子の言うとおり、夏と冬、毎年二度、魚津から薬の行商に来る記憶に馴染んだ顔を思い出す。
 初老の人のよさそうな二人で、三陸の島に来れば、必ず私たちが営む食堂で昼飯をとる。
 日曜のテレビの喉自慢と魚津を語ることが大好きで、機会があれば遊びに来い、と顔を見るたびに言われていた。
 しかし、この旅は魚津の薬やに会いに行くのではなかった。
 暖冬ではあるが、車窓の外は雪だった。眼に入る殆どが真っ白なので、青黒く拡がる海の色が際立ち、砕ける波頭が岩に積もっている雪を舞わせていた。
 海の中に建つコンクリートの橋桁の上は高速道路だろうか。そのすぐ上方をどんよりと曇った空に溶けるような色の海鳥が二羽、風に流されるように飛んでいた。
 
「温泉にでも行きたいな」
 どこといって当てもなく、気まぐれのような一言が発端だった。
「わぁ、温泉、行きたいね」
 店の定休日毎に、連れて行って、と責められる長時間のドライブよりはいいような気がした。
 頼子は日常、ずっと私の言うがままに過ごし、唯一、週に一度のドライブを愉しみにしていたが、それとて私の顔色を窺いながらの薄い希みでしかなかった。
 五十五歳の私より五つも若いのに、頼子は夫とわかれ家を棄てて、独身だった私の傍に来たことを、殊の外気にしていた。
 島では頼子のような気遣いは当然とも言える。自分のことを噂されるのは極端に嫌うが、島の人々は他人を噂するのが大好きだった。
 家族を見限り、都会帰りのうだつのあがらない男のもとに身を寄せた女。
 すでに五年も経っているのに、島の人々はいまでもそう言って、頼子を蔑んだような眼で見る。私はそんなことが耳に聴こえても、何一つ反論しない頼子に次第に違和感を積もらせていた。事あるごとにもっと自分を主張しろと罵った。もとを質せば単に頼子が不倫をしたというのではなく、夫の長年に渡る理不尽な仕打ちに堪えかねての行動なのだ。
 それはもう大人になっている頼子の子どもたちも理解していることだった。
 この五年間、私たちは二人の関係を維持するために諍いをし続けていたようにも思える。諍いとはいえ、なにごとにもネガティブな思考しか持ち合わせていない頼子に苛立つ、私の一方的な言動でしかない。
 ただ、それは確実に頼子を脅かし、私の気持ちさえ蝕んでいた。
「温泉にでも行きたいな」は、そうした日常からの逃避のような、世迷言めいた一言だった。
 一月の島は島民ばかりで観光客は望めない。店を開けても開店休業のような状態が続く。寧ろ、すっぱりと閉めていたほうが無駄な経費もかからなくていい。
 それよりも尚、温泉にでも行きたいな、とつぶやくように口にしたことへの頼子の異様とも見える笑顔が、日ごろの閉塞感を打破するための一筋の光のように感じられ、ついその気になった。
 自分の一言から発生した思わぬ余波に、微かに戸惑いながらも、島をたまには離れて二人で過ごしてみるのもいいか。そう思っての旅立ちだった。
 温泉は近場にもあるが、どうせなら遠くへ足を伸ばしたかった。北陸を選んだのは、「もう少しで今年も薬やさんが来るね」と暦を見て言った、頼子に触発されてのものだった。ただ、行き先に温泉があるかどうかはわからない。
「遠いが、そこにするか。薬やには会えないだろうが、何度も聴かされた故郷自慢の街でも見て来よう」
「電話、してみましょうか」
「いや、いいよ。べつに薬やに会いに行くんじゃない」
「私、新幹線、まだ二度目なの」
 頼子はそれほどに島から出たことのない女だった。
 
 三陸の港町からローカル線で乗り換え駅まで行く。
 頼子はその駅のホームにある立ち食い蕎麦に感激し、美味しいと何度も言っていた。その駅は内陸に位置し、ホームは木枯らしが勢いよく吹いている。私は早く車両が入線して来ないかものかとコートの襟をたてて震えていたが、頼子は嬉々として私を呆れせていた。
 流線型の車両が入って来て乗り込む。朝早かったので、私は座席に腰を降ろすと眼を瞑り、すぐにうとうとしていた。頼子は私の想像以上にこの短い旅行に浮かれている。
 依然として眼を瞑ったままの私の耳に、訊きもしない昔のことを言い列ねてくる。
 一度目は離婚した夫との新婚当時、船乗りのその夫を出迎えるために三浦三崎に行ったときで、だから、新幹線にはどうしてもいい印象はないのだという。
 夫との結婚は親に押し付けられたもので、旧家を持続させるためだけに親が勝手に選んだ入り婿らしい。仕方がないとあきらめつつも、どうしても肌が合わず、頼子は本来なら何よりも愉しみなはずの、船乗りの妻としては最大イベントでもある港まで出迎える、という慣習にも離婚するその日まで馴染めなかった、と昨日のことのように言う。
 だが、今回の新幹線での小旅行は、待ち望んでいたことなので、とても嬉しい、とつぶやいた。頼子は眼を瞑って私の肩に額を押し当てたまま、大宮に着くまで何度も嬉しい、を繰り返していた。
 頼子の両親はすでに鬼籍に入っている。婿を押し付けたことを詫びていたとのことだ。私はそのように何事にも真摯な頼子に日々圧迫され続けてきた。このままでは私自身が頼子の生真面目さに押し潰されそうな日常からの逃避のような一面もある旅だった。だから、いつもはすべてに堪えているばかりの頼子の気持ちを変える意味では、珍しく羅列するわかれた夫への愚痴に対しても、私は好意的な意味を見出そうとしていた。相変わらず眼を瞑ったままに耳だけを貸してはいても。
 大宮で上越新幹線に乗り換えた。生憎一階席で、左右はガードレールばかりで何も見えない。どんよりとした空ばかりを見ながらの北上だった。景色が見えたのは長岡で特急に乗り換えてからだ。
「でも、結局は私、形としては夫を裏切った性悪女ってことになるのね、世間的には」
 頼子が手から言葉を零すようにそうつぶやいたのは、日本海の海沿いに金沢までの電車が差し掛かったころだった。
 私は言葉を探していた。
「きっと、あなたも迷惑なのでしょう。厄介な荷物でしょう、私って」
「もう少し、笑えるようなことは言えないのか」
 どこもかしこも禁煙ばかりで、数時間煙草を喫っていない苛立ちが、私の口調を尖らせた。
「ごめんなさい。私、旅行なんてしたことないから、いい歳として舞い上がっちゃって。自分の言ってることもわからないぐらい」
 それが本音だということはわかっていた。相手に対して嘘をつけない。それは店に来る客に対しても同様で、言動はあくまでも優しい。
 私が一人で店をしているころよりは格段に客数が増えているのも、頼子の誰にでも慈悲深い接客によるところが大きい。
「凄いね。こっちの海って、島のとは違う。冬だからかしら、私、台風の海より、怖い」
 私は瞑ったままの眼を再び開けた。
 見ると、ついさっき見た海よりさらに荒々しく、腰を据えて真っしぐらに立ち向かっても、たちまちその鋭い牙の餌食になりそうなほどに迫力ある海が、白い前足を高々と上げて、車窓を蹴散らそうとしているようだった。
「あなたみたいな海」
 海に見入る私に頼子はそう繰り返す。私は鼻先で嗤った。
「おまえは島の海に浮いている笹舟だな。いつも凪いだ海に浮かぼうとしながら、抱えたものの重さにすぐに沈んてしまう」
 私とはすべてに対極にいるような女だった。頼子にとっての私は、どうしても馴染めなかったという、わかれた夫以上に厄介な相手ではないだろうか。
「女って、というよりは、私はね、この海のように荒々しくても、体温が温かければいいの。夫はいつも竜巻のようで、それよりも何よりも、全身が冷たかった」
 電車の速度が落ち、駅に停まった。低い背丈の街並みが海の方まで拡がっていた。
「この街のどこかに、薬やの岡本さんが棲んでいるのね」
 電車が動き出す。ホームを離れると、街並みが舞う雪に同化し溶けていく。
 私は意味もなく、頼子が言った、この街に棲む薬やさんの家の方角を想像し、車窓の後方に無数の雪の線に押されるように流され去る街を眺めていた。
 怒ったような海は魚津の手前までで、電車は雪で田圃か草原なのか見分けがつかない平地を富山に向かって進んでいた。
 車内に客は少なく、私は反対側の車窓に視線を移した。何も見えなかった。降りしきる雪のせいで、視界は数百メートルぐらいしかない。
 仕方なく、私は尚も車窓に顔をくっつけるようにして雪景色に見入っている、頼子の横顔を見つめていた。
 すると、これまでは気持ちが重すぎて鬱陶しい、としか感じられなかった頼子に、愛しさのような感情が不意に湧いてうろたえた。
 普段は荒々しくても、体温さえ温かければいい。頼子はそう言った。果たして私の体温は温かいのだろうか。
 振り返るまでもなく、言動のすべてが刺々しく、私は頼子をまるで押し込み強盗を見るような眼で接していたような気がしていた。頼子は魚津に棲む薬やのことをよく話題にするが、彼らはよそ者でありながら、何十年にも渡り島を訪れていて、島内のことは島民よりも熟知しているところがある。が、それを胸に仕舞い込み、他愛ない故郷自慢に終始する。
 頼子は彼らが紙風船とともに持ち込んでくる、知らない土地の土産話を愉しみにしていた。
 そうした長年の話題の蓄積に感化されたように、魚津という知らない街が頼子の中では理想の地となったのだろう。
 単に駅を通り過ぎただけなのに、頼子は「素敵な街ね」と窓から食い入るように街並みを見て、うっとりと言う。
「おまえにとっての薬だな、この街全体がーー」
 私にとってもそうなのだろうか。こうして普段よりもずっと会話が増えたことを思い、それ以上に愛しさをも感じたことによる昂揚感を思えば、私には薬やが棲むという街よりも、頼子というそろそろ老いつつあるバツ一の一人の女こそが、じわじわと効いてくる薬のように思われてくる。
「ううん、違うわよ。私にとっての一番の薬は、あなた……」
 私の思いと同じことを口にしたことに愕き、その顔をまじまじと見つめた。直後、車内のアナウンスが、富山駅に着くことを報せた。
 
 駅頭は少し風があり、雪が小さな竜巻のように、上空のところどころに渦巻いていた。
 はじめての街でもあり、タクシーでホテルまで行こうとしていながら、歩きたい、という頼子の願いを聴き入れて、南口から前方にのびる路を歩きはじめる。
 路面のあちこちが凍っていて、頼子は何度も足を取られ、私がためらいがちに差し伸べてくるその手をとると、ぴったりと密着し腕を絡める。これまで腕を組んで街を歩いたことなどなかった、とすれ違う人々が振り返るほどに昂ぶっていた。
 タクシーに乗り、適当なホテルに案内してもらおうと思っていたので、まだどこに泊まるのかも決めていなかった。
 歩き続けると前方に一際目立つ高層のホテルがあり、飛び込みでフロントに行き、空室の有無を確かめた。十階に空きがあり、そのホテルに宿泊することにした。頼子はここでもはしゃいでいた。ひとつひとつの言動が頼子の過去というものを浮き彫りにしている。夫はどこへも連れ歩かず、船を出迎えれば船員専用の施設に寝泊りするだけで、ホテルと称されるところに出入りした記憶はないという。
 話を聴いていると、私のほうが時代を錯覚しそうだった。
 十階の一室に通されてお茶を呑む。頼子は物珍しそうに室内を点検し、大きな窓から雪の降る外を覗き、歓声をあげている。その声と大きな手振りで、見て、とはしゃぐ頼子の傍に立ち、指差すほうを見ると、すぐ眼の前に公園があり、レプリカのようなお城があった。
 雪に煙り、視界は限定されていて、数百メートルぐらいしか街並みは見えない。日向で猫が寝そべるような穏やかな景色に馴れ親しんでいるせいか、どんよりと鉛色の雪に覆われた街並みが逆に新鮮に感じられた。午後三時を過ぎたばかりだった。空腹を感じ、外に出ることにした。短い旅なので、明日の午前中にはこの街を離れる。そのタイトな日程にも係わらず、頼子は自分に与えられたすべてを貪るように愉しんでいる。
 街を散策している間中、頼子は私の腕に縋ったまま、子犬のように歓喜したままだった。
 
 夜はホテル内の食事処を訪れ、小一時間ほど過ごし、部屋に戻った。三陸の島近辺では稀にしかしない、昆布じめの刺身を口にした頼子は、旅を実感するね、と料理の趣の違いを愉しんでいた。部屋に戻ると、疲れを感じ、早々にベッドに入った。温泉などはどうでもよくなっていた。
 頼子と知り合ってからこの日まで、色んな意味合いを含めて総括するような突発的な旅ではあった。しかしそれは私の中に燻っている、頼子との将来を模索する旅でもあった。同じベッドに寝るのははじめてではないけれど、まるで大木に縋る短い命の蝉のように私の体に密着して微かな寝息をたてている頼子を見つめていると、ついさっきホテルの窓から見下ろした、映画のセットのようなお城を思い、ガラス細工の古びた玩具を労わるように、そっと腕枕した手の指で頬を撫でてみる。
 そして、何故日ごろ、このように優しくすることが出来ないのか、とこれまでの自分を思う。
 頬を撫でる私の指に気づいたらしく、寝息がとまると同時に、
「眠れないの?」
 と頼子の指が私の指に絡んでくる。
「ああ。いろいろ考えていた」
 少し、間があった。
「余り、気にしないで。私は流れのままに生きるだけだから。流れに逆らわないの。だから、あなたはこれまで通りに過ごしてくれればいいの」
 これまでは生真面目な物言いが俺を苛立たせてきた、とはどうしても言えなかった。
 私はもとより、人はすべて、不幸よりは幸せを願う。底辺にいる者は何とか這い上がろうと藻掻き、上流にいる者はさらに上へ行こうと足掻くのが普通なのに、私は流れに逆らわないと、明日をあきらめたような頼子の一言は、私の気持ちに漣をたてていた。
 頼子ばかりではなく、私もバツ一だった。若いころ、命の数段上に位置づけていた一人の女が眼の前から消えて、自暴自棄のまま、新たにあらわれた女と結婚し、数年後、離婚した。
 そう。私は流れには逆らわないと言う頼子と瓜二つの女を、離婚により過去に一人つくり上げていた。その人はいまも独り身を貫いている。
 いや、時折体を震わしながら私の腕に縋り縮こまっている頼子のように、めぐり合った相手に縋りながらも、私は流れに逆らわないの、とつぶやいているかも知れないわかれた妻を思い描くと、途端に背筋にべっとりとした汗が滲むような圧迫感に包まれる。
 若いころに私から不意に去った女によるトラウマが、その後、結婚した妻でさえ直視することを赦さなかった。
 つねに背中合わせの時間を自ら演出してきた。背中と背中との間にはいつも分厚いコンクリートのような私の一方的な境界線があり、背中の熱でその境界線を少しでも溶かし、一体になろうと努める相手を悉く退けてきた。しかし、いまはわかれた妻に似た頼子ともずっと背中合わせでありながら、その間にある境界線は一枚の肌着のような薄さになっている。
 私が車中で感じた愛しさのようなものは、その薄い境を突き破って伝わった頼子の熱が齎した情の深さのような気もしていた。
「寝よう」
「うん」
 頼子との明日からを見つけたような気がした瞬間、私は意識を剥ぎ取られるような睡魔に襲われ、窓のカーテン越しに雪に反射した陽射しが部屋を斜めに切り取るまで熟睡していた。
 頼子はすでに起きていて、眼醒めた私に気づくとカーテンを一気に開け、
「見て! あの山、凄い」
 拳を握り締めて胸を抱き、遠くを見つめ、眼を瞠っていた。
 すっきりとした気分で窓辺に立つ。立山が陽を浴びて耀いていた。三陸の島から見える、子供が鉛筆で描いたような平凡な形ではなく、昨日眼にした日本海の海のような荒々しい肌に雪を纏った山が、稜線やいくつもの尾根の山肌を黒々と際立たせ、下界を睥睨するような神々しさで空に突き刺さっている。
 昨日からの雪は止み、陽射しが銀粉を撒き散らしたように立山連峰に弾けていた。
「コーヒーが欲しいな」
「そうね。私も」
 部屋に備え付けのポットからお湯を注ぎ、コーヒーを淹れる頼子の姿を眼の端に捉えながら、私は椅子に坐り、雪に覆われて列なる山々を見ていた。
 テーブルにコーヒーが置かれた。まだ洗顔もしていない。頼子はすでに薄く化粧を済ませていた。テーブルを挟んで向かい合い、コーヒーを呑んだことなどはなかった。
「天気はいいが、道路、テカテカだな」
「北国ね。島は凍らないもの」
 窓際近くにある椅子に坐っていると、遥か向こうの山のほうに続く道が見える。路面が陽を照り返していた。午前八時。この時間に眼醒めることは過去になく、コーヒーを受け入れた胃が愕いているのがよくわかる。
 私は相変わらず昂揚したままに、眼にして刺激を受けたことを延々と話す頼子に時折うなずいていた。風があるのか頂上付近に雪を舞い上げているように見える立山を見ていて、ふとあることに気づいた。当たり前すぎるほどにくだらないことなので、口に出すのも馬鹿馬鹿しく、思わず苦笑する。
「どうしたの? 私が程度の低いことばかり言うから、馬鹿にしてるんでしょう」
 いつもの頼子が言葉に出る。相手に対して引け目と言うか何一つ優れているところがないといつも嘆く頼子は、必要以上に自分を卑下する。
「いや、そうじゃない」
「それじゃ、どうして朝から変な笑い方するのよ」
「あの山の方角を言ってみな」
 不意に話題を変えた私を見る頼子の眼が訝しい。
「急に何かと思えば、やはり、私を馬鹿にしているのね。北に決まってるでしょう」
 たった一日変化を求めただけなのに、何となくあかるく饒舌な頼子が好ましく感じられた。
「俺もそう思ったから自分を笑ったんだ」
 意味が読み取れないような顔がおかしかった。
「島とは真反対なんだ。こっちは海が北で山が南にある」
「あっ!?」
 高度なクイズに正解した解答者のような顔をしていた。
「おまえは昨日、俺のことを荒れた日本海のような人だと言ってた」
「気にしてたの?」
「いや、そして俺は、おまえは島の海に浮かぶ笹舟だと言った。海は凪いでいても、おまえの周りだけはいつも時化ていたな。わかれた旦那や俺のせいで」
 私もたった一日でどこかが変化しているようだった。
「少し、違う。あなたの風は温かい。でも夫は梅雨みたいな人。いつもジメジメしてた」
 昨日は竜巻のような人だと言っていた。
「ずっと、背中合わせだったな」
 頼子は言葉を探しているようだった。海はすべて繋がっているのに、遮るものが横たわり、名前が変わる。
 頼子の言うとおり、たしかに私はいつも昨日見た海のように、怒りも顕わに頼子に接して来たように思える。頼子はしかし、島の海のようにいつも凪いではいるが、強靭でもあり、吹き荒れる私の起伏を丸く削ろうとする。
「ここの海と反対側にある島の海のように、間を分厚いものに阻まれたままに背中合わせしていた」
「そうかも知れないけど、私が感じる二つの背中の間にあるものは、とても薄いの。だから、いつも熱を感じていた。昨日今日は直に凄い熱を感じる。私、だから嬉しかったの。この街へ誘ってくれた。あなたが自分で二人の背中の間にある距離を縮めてくれた。それが嬉しい。夫は歩み寄ることさえ赦さなかったわ」
 肩が軽くなったような気分でいた。背中も軽い。私が思う二つの背中の間にある分厚いものの正体は、トラウマという亡霊だった。頼子は強引にさせられた背中合わせを受け入れ、少しずつ、私を窺いながら、何とか向かい合う形にと努めて来た。
 あれからすでに、三十年も経っている。好き好んで背負っているトラウマではなかった。それはまさしく亡霊だった。その亡霊が過去にもう一人の私のようなのをつくった。再びわかれた妻を思い出す。妻は私があなたが背負う亡霊を退治する、と言った。しかし、無理だった。離婚し、妻は私という亡霊を背負った。
 頼子によって軽くなった背中。分かれた妻はそんな私を、勝手な人、と詰るだろうか。
「島はどっちかしら。山が南側にあるなら、あっちね」
 頼子が指差すのは真南で、三陸の方角とは違う。
「あの連峰の向こうにもうひとつ太くて長い山脈がある。そのずっと向こうだ」
「遠いのね。でも、朝島を発てば、午後にはこの街に着くんだもの」
 もう、遠くない。頼子の口調にそう感じ、私は残っていたコーヒーを呑み干した。
「そろそろだな」
 往復で買った乗車券の出発時刻を確かめた。
「電車も駅も煙草喫えないから、ここでいっぱい喫ってね」
 私が銜えた煙草を見て、頼子は笑い、少し浴室やベッドを整頓するから、と言って立ち上がる。
「そんなこと、宿泊代に含まれているんだから」
「そうでしょうけど、乱したままに帰るのが厭なの」
 頼子らしい主張だった。私は煙草を深々と喫い込み、もう一度銀の光が跳ねる立山を見つめた。
 
 電車は魚津に停まった。ホテルからよりもさらに鮮明に、しかも間近に見える立山を車窓から眺め、携帯で写真を撮る頼子に、一昨日までの暗さを見出せなかった。
 私は流れに逆らわない。それが口癖だった。いまは私も頼子への思い、という流れに従おうとしている自分に気づく。
「急に店を休んだから、島の奴ら、俺たちを噂しているだろうな」
「あなたに迷惑になるね」
 そのときだけ、頼子の横顔に微かに寂寥が浮かぶ。
「言いたい奴には言わせておけばいい。人の噂は俺も嫌いじゃない」
「あなたがいいなら、私は平気。むしろ、嬉しい」
 そんなものだろうか。私は鷹揚さをみせながら、来店した客に冷やかされる自分を想像し、内心、どう対処していいものか、と思案しつつある。
「薬やさん、そろそろね」
「ああ。もう島に行ってるかも知れないな」
 大宮で乗り換えた。仙台を通過するあたりから雪が降り出した。新幹線を降りて島へ向かうディーゼルに乗り換えるころには大雪となっていた。北陸の雪より激しく降っている。
 帰ると島も雪だった。波もあり、船が揺れた。それでもあの北陸の海よりは大人しい。
「島に雪なんて、私、まだあの町にいるような感じ」
 頼子だけが依然としてはしゃいでいた。船を降りてそれぞれの家に帰る。明日からは普段どおりの日がはじまる。土曜日の深夜。雪がすべての音を吸い取っていた。
 
 朝、店に行くと、頼子はすでに来ていた。見馴れた光景ではあるが、頼子の笑顔だけがやわらかい。私は駐車場から店の玄関までの雪かきをはじめた。数分後、車が二台近づいてくる。グリーンとブルーのバン。薬やだった。駐車場に入ると、挨拶もそこそこに、
「何だよ、マスター、昨日来たからさっそく寄れば店閉めちゃっててよう、どこ行ってたんだよ」
「旅行だよ。立山ってのは魚津から見るのが一番だな」
「あ、マスター、行ったのかよ。何で電話しねえんだよ」
 薬やの二人が顔を見合わせていた。
「あっちよりもこっちのほうが降ってゃがる」
 私が空を見上げると、
「おう、そうよ。まさかこの島に雪はないだろうと思ってたから、体が寒さに悲鳴あげてるよ。俺んとこより寒いじゃねえか」
 肩に積もった雪を払いながら二人は店に入った。
「おう、頼ちゃん、立山見たんだってな」
「あら、岡本さん、行ってきたわよ。素敵だった」
「そうだろう。景色も魚もここに負けないよ。あ、そうだ、今日は日曜だろう。のど自慢見せてくれ」
「まだ早いでしょう」
 私は頼子と薬やの掛け合いを耳にしながら、島では大雪に入る十センチほど積もった雪かきに汗を掻いていた。
                 (了)