小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

あれから、八年。

生憎の雨。
八年目のついさっき、家の窓から海に向かい、黙祷した。
眼にしなかったのはむろん記憶にないが、この眼で見た当時の光景はほぼ、記憶の中にしっかりと刻み込まれているので、黙祷には自然と気持ちが入る。
あのときはまず地震で、店の奥の部屋で休憩していて、椅子から危うく転げ落ちるところだった。そのときに来店していたお客さんやスタッフ全員が隣接する魚市場二階の駐車場に逃げた。あの巨大で地上にどっしりと建っていた魚市場が、瞬く間に湾内のど真ん中に浮かんでいると錯覚するほど、町並みが荒れた海になり、あちこちから火の手があがり、それが海面に灯篭流しのように大島のほうにまで連なり、湾内に発生した巨大な渦に、大小の船が吸い寄せられ、キシキシと不気味な音をたてていた。
眼の前を大きな貯蔵タンクや夥しい数の家屋、そして車などが沖へと流されていく。陸のどこからか、機器が破壊されたのだろう。車のクラクションが鳴り響き、逆に、災害を報せ、避難を叫んでいた放送や、パトカー、救急車のサイレンの音が消えていた。...
外は雪で、魚市場の駐車場はアイスバーン状態だった。その魚市場内ではもっとも高いところにある会議室のような部屋には、近隣からの批難してきた人々を含め、およそ百人ほどが集まっていた。
私は当時、海の市にあったサンマリンホテル系列の三店舗を統括する立場にあった。ふかひれ・や、レストラン海の市、そして、一階にあった、回転ずしの「いちば寿司」の三店舗だ。
回転寿司は瞬く間に海に覆われた。二階の二店舗は膝上ぐらいまでヘドロに汚れていた。
スタッフはよく頑張った。店に戻り、普段よりは小さいが、おにぎりを百個つくり、避難していた人々に配った。一夜で済めばいいが、いつ解放されるのか判らなかった。幸か不幸か、とても寒く、冷蔵庫や冷凍庫は使えなくても、保管されていた食材は数日は腐敗する心配はなかった。
在庫量を計算し、少しずつなら、数日間なら過ごせると判断していたが、幸いにも一夜でその場から逃れることが出来た。
今思えば、魚市場の二階だから生き延びられた。市場の一階部分は広大でしかも水揚げ場なのでがらんどう。だから津波は素通り出来たのだ。それがもし、普通の建物なら、津波は簡単に避難場所まで到達し、私たちはどうなっていたのか。
そう思うと今でもぞっとする。
そんな中、自然界に棲息する鳥たちは賢かった。地震から大津波、そしてどうにかそれらがおさまるまで、ウミネコをはじめとする鳥たちの姿を一羽たりとも見なかった。

 そんなことこんなことが、ほんの一分間の黙祷の中、鮮明に蘇った。
 もう少しで島と町とを繋ぐ橋が開通する。眼に見える風景が激変している。しかし、当時を見た眼はしっかりと、二時四十六分から、一か月後ぐらいまでの景色を、鮮烈な画像として記憶している。
もう一度、亡くなった人々に手を合わせたい。黙祷。