小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

憧れの人(北日本文学賞)玉砕作品。旧タイトル「恩師」

 もう、卒業してから四十数年過ぎ去った。中学二年の当時、その一年間だけ担任だった冴子先生とは、数年に一度ぐらいの、賀状で繋がっているだけだった。
 還暦の同窓会があり、その席で先生が病に倒れたと聴き、一度見舞いに行かなければ、とは思いながら、なかなかその機会もなく、どうにか時間のとれたその日、思い切って出かけることにした。
 朧(おぼろげ)な記憶だけが頼りだった。
 たしか国道から山麓に向かって拡がる田園の一画に、鬱蒼とした木々に囲まれてその家はあったはずだった。
 短い橋を渡ってすぐ、国道からの細い枝道を右に、二百メートルばかり入り込んだ辺りに。
 四十数年前に一度訪れたときに記憶した、頭の中に微かに残っている地図頼りだけに、当然、うろ覚えでしかない。
 しかし、辿り着いたそこは間違いなく記憶にある場所のはずだった。
 ウィンカーを点滅させて車を停め、太一は周辺を見回し途方にくれていた。記憶に刻まれている場所に降り立ったはずなのに、まるで覚えがない町に立っている。
 このまま時間を喰うだけでは車のトランクに積んである初鰹が心配になる。家を訪ねようと、早朝、先生へのお土産にと買い求めていたものだった。
 家の電話は知っているが、自力で玄関まで辿り着きたかった。些か子供じみてはいるけれど、不意に訪れての反応が愉しみなのだ。
国道には長く停車出来なかった。
 一先ず、どこかの駐車場を探すことにする。大きな町ではない。五分ほど走ると量販店があり、そこの駐車場に車を入れ、来た道を歩いて引き返すことにした。
 初鰹を確かめた。発砲スチロールの中の氷は溶けていなかった。
 単に愕く顔が見たいがためにだけ、こうした面倒なことをしている。そう思い、そんな自分を訝りながら苦笑した。
 ついさっき、車を停めた場所まで戻った。そこは橋の上だった。記憶にある橋を求めて、前方を注意深く見つめながら運転して来たのだ。
 だが、眼に入る他のいくつかの橋は、いずれも長すぎて記憶と合致しなかった。
 町は東に向かって細長くのびている。橋は町の外れにあり、その北側には田畑が拡がっていた。
 橋の欄干に肘をつき、改めて景色を見直した。遥か向こうに、県境に聳える栗駒山が頂きに薄く雪を残し、くっきりと浮かんでいた。
 景色が少しずつ記憶を濃くしていく。この橋に間違いない。あの山の形は鮮明に覚えていた。
 当時は田畑のずっと向こうに聳えていた山が、いまは背の低い町並みを睥睨しているように見えている。
 景色は変貌しているが、それは田畑が町並みに変わっただけで、脳裏に浮かんだ山の姿と、いま頂きに雪を載せて煌いている山は、少しも変わってはいなかった。
 この橋なのだ、と確信し前方に視線を移すと、東にのびる町並みの北側に、森のような一画があった。そこを目指し、橋のすぐ傍から北に向かう枝道に足を踏み入れた。
 歩きながら、これから訪ねる冴子先生に案内されて、はじめて家を訪れたころを思い出していた。
 一人ではなかった。当時、先生は大学を卒業してはじめて、教師として片田舎の中学に赴任し、二年の太一たちのクラスを受け持ち、たちまちアイドルのような人気者になった。だが、一年後、太一たちの卒業と同時に転任した。その先生が結婚したという噂が聴こえてきたのは、転任して数ヶ月後のことだった。
 そのことが会いに行こうとした理由だったのだろうか。いまとなっては思い出せない。当時太一は仲間とともに無謀にも先生の嫁ぎ先へと押しかけたのだ。高校一年のころだった。
 先生はあのとき、バス停まで迎えに来てくれた。そんなことを思い出しながら歩いていた。
 橋の上から見えた、鬱蒼とした木々が繁る一画の手前に朽ちかけた神社があった。確信した。神社が何よりの道標だった。
 森のようなそこは、大木が何本もあり、風に枝葉を揺らしていた。武家屋敷のような門がある。
 太一は地面に跳ねる無数の木洩れ日の下で、門にある表札を見上げていた。
 辿り着いたのだ。薄い記憶だけを頼りに、高校生のころ一度しか訪れたことのない冴子先生の家に。
                 
 森のようなすべてがその家の庭だった。地域では指折りの旧家だと聴いていた。塀などはない。広大な敷地の周囲は、空に突き刺さるような高さの様々な木々によって、他と区分されている。
 そこではじめて携帯電話を取り出した。少年のように胸がときめいている自分がいる。留守かも知れない。微かに無謀な行動を悔いた。
 町の発展から一区画だけ外されているような場所だけに、木々には小鳥たちが囀っていた。
 もう一度表札を確認して、電話した。自然に緊張を強いられた。呼び出し音が消え、一瞬、間があった。
「はい。高頭でございます」
 紛れもなく先生の声だった。大病を患ったと聴いている。それだけに、記憶しているままの声なのが不思議だった。
「あ、突然すみません。K町の酒井です」
「えっ!?」
 心底愕いているようだった。
「覚えていますか」
 不意の電話に唖然としている様子が手にとるようにわかる。
「あらあら、何十年ぶりかしら。ごめんなさいね。せっかく招待してもらったのに欠席して」
 先生は還暦の同窓会に欠席したことを詫びていた。
「いや、そんなことより、いま、先生の家の前まで来ているんですが」
「えっ!?」
「何度も愕かせてすみません」
「家の前って、あなた、えっ!? 本当に?」
「はい。ご迷惑だったかな」
「ちょっと待ってて。すぐ行くから」
 慌しい様子が伝わってくる。少し待つと、すぐに足音が聴こえた。庭の植え込みの向こう側から門のほうを窺う先生を眼にして近づいた。眼を瞠る顔がおかしかった。
「あなた、子供のころと同じね。私、あなたが中学のころも愕かされてばかりいたもの」
 まだ信じられないという顔をしながらも、中学時代の面影を探すように、先生は束の間太一の顔を見つめてくる。
 余り見つめないでください、と照れると、今度は急かすように敷地内に導いてくれる。
 庭に入って絶句した。外からでは窺い知れなかった風景に圧倒されていた。庭なのにまさしく風景だった。
 何かの工房のような家屋があり、どこまでも濃く繁っている木々の枝葉の中に調和した、一目で趣きを凝らしたと判る家屋が三棟あった。言葉を失っていると、
「そんなに珍しくはないでしょう。緑はあなたの田舎にだっていっぱいあるのに」
「そうですけど、ここは庭でしょう」
「昔からのものだから。手入れもしないし、いつの間にか自然の森のようになって」
 お互いに口調が砕けはじめていた。まだ何故急に訪ねたのかも訊かれてはいない。
 いまの顔を見ながらも、先生の脳裏には最後に会った高校生のころの教え子の姿があるはずだった。
 八つしか歳の差のない太一に対して、そう、出張で来た仙台で、生真面目に学生服であらわれた太一にポロシャツと流行りのズボンを買ってくれて、デパートのトイレで着替えさせて、未知の世界だったスナックに連れて行ってくれた夜と同じように接する先生の横顔を、太一は眩しそうに見つめていた。
「あなた、電車で来たのかしら」
「いや、車で来ました」
 その一言で忘れていたことに気づいた。腕時計を見る。
「あら、いま来たばかりで時計なんか気にして」
 頭を掻きながら、車に土産として持ってきた初鰹があることを伝えた。先生は呆れたような眼で睨んでくる。
 記憶に自信がなく、歩いて家を探したことを言うと、先生はさらに愕き、四十年以上も前にたった一度来ただけなのに、よくわかったわね、と眼を丸くしていた。
 車を置いた量販店の駐車場に走り、戻って来る。先生は門の外まで出ていて、車を誘導してくれた。幸い、氷はまだ半分ほど残っていて、鰹の鮮度は保たれていた。
 先生に導かれるままに裏庭に廻り、それを台所に運んだ。顔から汗が滲み出てくる。先生だけが涼しい顔をして、汗だくの太一にタオルを差し伸べてくれた。四月の風が肌を撫でていく。
「先生、この鰹、どうしましょうか。夕方にでも旦那さんに捌いてもらえばいいですね」
 ごく自然に出た心配だった。もし包丁が苦手なら、卸すつもりだった。
「ああ、知らなかったのね。主人は五年前に……」
 やはり、不意の行動は慎まねばならなかった。顔を見てはいないが、当然健在だと信じて疑わなかった。
 同窓会でも先生の病気に関する話題は出たが、誰一人として先生の夫のことには触れなかった。
「ごめんなさい。知らなかった。それじゃ先生、この広い家にたった一人で?」
「娘たちは嫁いだし、いまは息子夫婦と三人暮らし。もっとも若い夫婦は別棟だけど」
 大きくうなずくと、
「あなた、このお魚、卸して。二本も喰べきれないから、今晩息子たちといただいて、残りは冷凍しておくから」
 再びうなずきながら、太一は感心するばかりだった。夫を五年前に亡くし、自身は三度も大病に襲われている。
 それなのにこの淡々とした言動と凛とした姿勢はどこから生じるものなのだろう。
 こうして突然訪れたいま、まるで高校のとき仙台で会ったころのように接してくる自然さが不思議だった。
 容姿も七十歳間近には見えない。短髪で意思の強そうな切れ長の眼は充分に若いころの面影を残していて、同窓会で再会した同年の女たちと比較しても断然若い。
 そんな先生の全体を眼を細めて見つめながら、森のような庭に繁る木々に囀る小鳥たちの声を耳にしていると、これまでの一切が陽炎のように思われてくる。
「お腹、空いてるでしょう」
「少し」
 遠慮も消えていた。先生はクックッと笑った。
「筍ご飯でいいでしょう。今年は豊作なのよ」
 そう言って庭の一角を見上げた。敷地内に竹林がある。密度の濃い葉が鬩ぎあいながら風に擽られ、文字に書いたようにサワサワとざわめいていた。
                 
 筍ご飯をご馳走になり、縁側に出て寛いでいると、食器を洗い終えた先生が近づいて来た。
「久しぶりにのんびりしたような顔をしているわね」
 穏やかな笑顔だった。大病に苦しんだというのは本当なのだろうか。
「不思議ですね。四十年も前に会ったきりなのに、そんな感じがしない」
 実感だった。
 余りにも広大すぎて、言葉通り、手が回らないのだろう。自然に任せた庭全体の風情が、そう感じさせているのだろうか。
 それとも先生の樹木のような自然体に癒されているのだろうか。
「さっきも言ったけど、あなたは本当に人を愕かすわね。あなたの同級生たちもたまにだけど来るのよ。それで近況は聴いてはいたけれど、あなただけ全然音沙汰がないんだもの」
「離婚のことも何をしても駄目なことも聴きましたか」
「ええ。全部聴きました。でもよかった。元気そうで安心したわ」
「先生は大丈夫なんですか」
 視線は二人とも風に揺れる竹林に向けたままだった。
「大丈夫、じゃないわね」
 そう言うと先生は太一の袖を引き、
「いまからあなたに、お茶を立ててあげるから」
 そう言った。
 眼で促され、縁側を奥に向かって歩いた。縁側の突き当りからも庭に出られるようになっている。そこにあった古びた下駄を履いた。見ると大きくはないが、風情のある茶室がある。
 潜り戸の出入り口から中に入った。時折、テレビドラマなどで観たことはあるが、実際に本物の茶室に通されたのははじめてだった。
「そこに坐りなさい。あ、正座はしなくていいから」
 つねに用意されているのだろうか。積み重ねてあった分厚い座布団を一枚引き寄せ、胡坐をかいた。
 小さな炉がある。来るのが判っていたようにお湯が沸いていた。中は寒くも暑くもない。眼の前に和菓子が差し出された。
「先ず、それを召し上がれ」
 むろん、先生のお茶の腕などは知らない。作法通りなのか、馴れた手つきでお茶が立てられていく。
 出された和菓子を手掴みで口に入れていた。先生の顔が笑っていた。
「俺は作法も何も知らないから」
「いいのよ。お茶の生徒さんたちは学びに来るんだから厳しく躾けるけど、あなたはお客様だから。それも私がはじめて教師として受け持ったクラスの大事な教え子。だからあなたは自然体でいいのよ」
 お茶を習う生徒をとっているということは師範ということだろうか。すでに学校の教師の職を退いて十年近くになるはずだった。
 先生はその後も道は違っても、ずっと先生として通しているらしい。
「凄いね。もう茶道でも先生なんだ」
「そうね。でも、先生であると同時に、生徒でもあるのよ」
 無言のまま見つめると、
「この世界、序列があってね。厳しいの。私の先生はもちろんのこと、どんなに実力があっても先輩たちを追い越すことは難しいのよ。それはこうして生徒をとるようになっても同じ」
 興味深く聴いていた。料理人である太一の世界とも違うが、縦社会という点では同様だった。職場では先輩には逆らえない。
 しかし、独立して経営者ともなれば、先輩を使うこともある。そんなことを思いながら、太一の眼は先生を注意深く窺ったままだった。気疲れさせたのでは訪れた意味がない。
「先生、無理しないでください」
 お見舞いをしなければと思ったのも、同窓会で先生が大病を患い、欠席する旨の連絡があったことを知ったからだった。
「病気だと聴いて、今日来たのはそのことが気掛かりだったからなんです」
 十年以上も前に、乳癌に罹り、乳房を一つ切除したことは知っていた。
 先生は微笑を返し、竹製の泡立てのような茶道具で、お茶を掻き混ぜ、太一の前に置くと、
「どうぞ、召し上がれ」
 そう言って見つめ、束の間無言だった。
 どうすればいいのか迷っていると、茶の作法を教えてくれた。口にしたことはないが、苦いというイメージがあった。
 味わってみると、抵抗なく喉を通り過ぎていく。先に食べた和菓子の甘さが効いている。
 呑む姿をじっと見つめていた先生が、小首を傾げるようにして微笑む。
 無造作に呑み干して茶碗を置くと、お粗末様でした、とあくまで接待側の作法に忠実だった。
 小さいが落ち着ける茶室だった。陽に焼けたような畳の飴色も気持ちを落ち着かせた。赦されるなら、手足をのばして横たわり、昼寝でもしたい気分になる。
「あなたたちの同窓会があったころには退院していたけど、それまで入院していたのよ。軽い脳梗塞だった」
脳梗塞!?」
 病名が全身を硬直させる。同窓会は二ヶ月前だった。その少し前までは脳梗塞で入院していた、と涼しい顔で言う先生の顔を、しっかりと見直した。
「それで、いいんですか、もう」
「よくはないけど、毎日寝ていてもつまらないでしょう」
「それはそうでしょうけど」
 笑顔が絶えないのが不思議だった。その理由に興味が湧く。
 家のどこにも煙草の匂いのないことに気づき、喫いたいのを辛うじて堪えながら、太一は一メートルと離れていない先生の顔を見つめたままだった。
 こうして過ごしている間にも、倒れるのではないだろうか。先生はきっちりと正座し、普通の日本茶を呑んでいた。
 障子の真ん中あたりに雪見窓のような硝子の枠を額縁にして、庭が見えていた。
「日ごろせかせか生きているせいか、こうして見る自然の色はいいですね」
 考えていた感想ではなかった。先生は上半身だけで背後の窓を振り返ると、
「そうねぇ。いまはまだ緑一色だけど、秋になると紅葉が凄いのよ。この茶室にいると、障子の外側全体が大火事のように燃え盛って見えて、綺麗というよりは怖いくらい」
「ああ、なるほど」
 その光景を想像してみた。二、三度、ついさっき国道に架かる短い橋から見えていた山などに、紅葉狩りに出かけたことがある。
 道のない深い谷を挟んだ向こう側一帯が、紅色や黄色など原色を着飾りそれなりに眼を愉しませてくれた。
 だが、如何せん距離があり過ぎて、観光地で売っている風景写真を見るような感覚だった。
 先生の家のように、敷地全体に樹木が繁り、しかも自然に生えたりのびたりに任せている木々の葉が色づいて、陽光に照る鮮やかな紅葉が真っ赤に障子を染める様を想像してみた。
「今度は是非、秋にいらっしゃい」
「秋には栗ご飯をご馳走になれそうですね」
 先生はその一言に声を出して笑う。
「本当にあのころのあなたのままね」
 と、まだツボに嵌ったように笑い続けていた。太一も思わず吹き出した。
「離婚してから、だいぶ経つんでしょう」
 唐突に話題が変わった。
「ええ。三十になる前にわかれましたから」
「もう、誰かいるんでしょう、あなた。一緒に来ればよかったのに」
「秋に連れて来ようかな」
「必ず、そうなさい」
 一安心したような口調に再び吹き出した。恩師と教え子なのだ。それがまるで、不出来な子を心配する母親のような口調だった。
 笑いながら、微かに切ない思いに包まれた。
「先生、大変ですね。何十年も教師を続けて何千人もの教え子たちがいて、俺のように遠慮もなく急に押しかけて来る者もいるんですから」
「いいえ。来てくれるのはあなたたちの同級生だけなの。私もはじめての生徒だから、愛着も一入なのね。それに来てくれたって何ひとつ気も使わないから楽なの」
「今日はご飯をご馳走になり、お茶までいただきました」
 先生は、あら、あり合わせなのよ、と微笑んで、
「あなた、ちょっとだけ人恋しいときに来てくれたから。でも不思議ね。顔を見たら、あなたが高校生のころ仙台で会ったときのことがはっきりと浮かんで来たのよ」
 来る途中、太一も思い出していたことだった。ポロシャツとズボンを買ってくれた。そのことを言う。
「そうだったかしら」
 それについては忘れているらしい。着替えさせられて、はじめてスナックに連れて行かれたことも言う。補導されたらどうしよう、と心配顔になると、先生と一緒なのに、何をビクついているの! と一喝されたことも。
「不良教師だったのね、私」
「嬉しかったなぁ。後でみんなに話したら、囃し立てられて」
「あら、言ったんだ」
「ええ。仲間たちに言われましたよ。先生のこと好きなんだろうって」
 事実だった。男女を問わず、冴子先生に興味を抱かなかった者はいない。
「嬉しいわね。それで、あなた、そのとき先生を好きだったの?」
 と揶揄するように言う顔を見て、赤面しそうになり、視線を障子の小さな窓から見える庭に移した。
「ええ。大好きでしたよ。大好きです、いまも」
 先生のあかるい笑い声が茶室に弾けた。
「そのとき告白してくれれば愉しかったのにねぇ。いまからじゃ、あなたも私も少々歳をとりすぎているわね」
「そうか。あのとき言えばよかったんだ」
「そうよ。頬っぺたを思い切り叩いていたでしょうけど」
 表情はずっとあかるいままだった。腕時計を見た。
 訪れて三時間経つ。そろそろと思いながら立ち上がり、廊下に出た。この地域はまだ寒いはずなのに、陽射しはやわらかく、密度の濃い庭の緑色を耀かせていた。
「この庭、狸も蛇も出るのよ」
 歩きながら、その声に振り向いた。
「近ければ毎日でも邪魔しに来るんだけど」
「秋とは言わず、いつでもどうぞ。私はもう、あなたたちの町へ行く体力はないから、だから、いつでも顔を見せに来て」
 そのときだけ、先生の顔からあかるさが消え、横顔に微かにだが、寂寥が滲んだように見えた。
                   
 夜、仕事休みである明日のドライブに誘った加奈子が来た。
 暦はすでに六月になり、朝起きてすぐ、梅雨の合間に覗いた陽の光に誘われ、どこへ行こうかと話し合っていた。
 そのとき、激しい地震に襲われて、悲鳴をあげる加奈子を抱き締めて、揺れがおさまるのを待っていた。
 数分後、まだ余震は続いていたが、急いでテレビを点けてみた。どの局も臨時ニュースとして地震速報を流していた。
 画面を見て愕いた。震源地は先生の家を訪れたとき、国道に架かる短い橋の上から見えていたあの山近くで、そこから程近い先生の棲む地域にも大きな被害が出ているとのことだった。
 テレビを消し、家を飛び出し車に急いだ。ドライブの行き先は当然変更した。加奈子を促し、先生の家に向かった。以前に先生の家を訪れた顛末を伝えてある。
 太一同様、一度結婚に失敗している加奈子は、先生が連れて来るように言っていた、と伝えると異様に歓び、秋まで待てないから早く連れて行って、と急かされていたところだった。
 地震に怯えているかも知れない先生のことを思う。何度か電話してみた。地震の影響か、まったく繋がらない。
 行ってみるしかなかった。道は空いていた。一時間半後に町に入り、西から東に抜けて、あの橋に来た。
 山が見える。ついさっき地震があったことなど、どっしりとしたその山の姿からは、まったく想像もつかなかった。
 先生の棲む地域も見るかぎり平穏そのものだった。
 橋から枝道に入った。四月に来たばかりなのに、前方に見える森のような庭が懐かしく感じられた。古めかしい門の内側に車を進めた。降りてインターフォンを押す。
 加奈子は庭に繁る木々を見つめて、眼を丸くしていた。
 加奈子の家も旧家で大きかった。それでもこの屋敷と敷地の規模には眼を瞠って当然だろう。
 先生は在宅していて程なくあらわれた。加奈子を紹介すると、はじめてにも係わらず、旧知の間柄のように微笑み、加奈子を感激させていた。
 同居しているという息子はその日も留守で、妻の実家が震源地により近く、夫婦で見舞い方々出かけたということだった。
 庭を見て愕くばかりの加奈子を促し、奥に案内された。そのさらに奥まったところに、小さな葉を密生させた椛の大木が数本あり、その木々に囲まれるように小じんまりとあるのが茶室だった。
地震、大丈夫でしたか」
「大丈夫じゃないわよ。立っていられなくて、揺れがおさまるまでこの茶室に這いつくばっていたのよ。みっともないったらありゃしない。誰にも見られてないからいいけど」
「先生はいつも強いなぁ」
 みっともなかったという言葉の中に、まだ女としての美意識が色濃く残っているのを感じた。感心する太一に、加奈子もうなずいていた。
「あなた、何を畏まっているの? 彼が自分の家のように寛いでいるのだから、あなたも楽になさい」
 口調の優しさと内容の辛辣さが心地よかった。
 以前にも感じたが、ここは気持ちを和ませる。庭も何もかもが自然な装いだからだろうか。
 先生に促され、加奈子は少し膝を崩した。先生だけ正座のままだった。背筋がピンとのびていた。
 加奈子の視線はきっちりと揃えられた先生の膝のあたりにある。
「私のことは気にしないでいいのよ。正座しているほうが楽でこうしているのだから」
 加奈子の視線に気づいたようだった。
「後でこの前のように、苦いお茶を一服立てるわね。先ずは普通のお茶だけど、どうぞ」
 湯呑み茶碗も市販のものではないことがすぐわかる。先生は太一よりも加奈子を何度も見ていた。それに気づいたのか、加奈子が身を竦める。
「あら、ごめんなさいね。別に品定めをしているんじゃないのよ」
 太一は興味深く、二人の様子を見ていた。ゆったりとした空間に、茶の香りが漂う。美味かった。
「あなた、お子様は?」
「はい。二人、おります。もう、独立してますけど」
 加奈子は太一の五歳下だった。
「そう。それならもう、一安心ね。これからは自分のことだけを考えればいいわね。この私のように」
 加奈子は先生の顔を見つめたままだった。
「私は昔からそうだったけど、子供が社会人となり、主人が亡くなったころから、さらに物事を割り切ることにしたの」
 加奈子がうなずく。
「四十代のころ、乳癌で乳房を一つ切り取ったのよ」
 加奈子は再び大きくうなずいた。先生の病気については、予め告げてある。
「もうだいぶ経つので再発もないだろうと油断していたら、今度は心臓の血管が狭くなる病に罹り、そして今年になってすぐ、軽い脳梗塞。それで太一くんたちの還暦の同窓会にも出席出来なかった。こう大病を繰り返していると、女はさらに強くなるのね。もう、怖いものなどなくなってくる」
「凄い。私なら塞ぎこんでます」
「そうよね。でも、コツを覚えたのよ」
 先生は二人の顔を見回すと、
「それはねぇ、昨日までの過去を振り返らないことよ。太一くんが不意に顔を出したときには、つい自分の若いころを思い出したけど、そうした愉しい思い出はいいの。自分に不利益な過去は全部抹消するの。過去なんでどう足掻いたって、いまとなっては眼の前に持ってくることは出来ないんだもの。それなら今日明日という現実だけを愉しんだほうがいい。そう思ったら、もう、サバサバしちゃって」
「女は男よりもそれが可能かも知れないね」
 太一は無意識に遠くを見るような眼をしていた。座敷から見える蝋梅の枝振りを見つめていた。この前には実をつけていた。
「あなたもそうよ。前を見るしかないのよ」
「また昔のように叱られた」
 太一はこの時間の流れを気に入っていた。
「先生と太一さん、何となく似ています。まるで姉と弟みたいに」
 太一が吹きだすと、先生も笑う。
「いいけど、姉と弟ではないわね。兄と妹なら赦してあげる。太一くんは八つも歳下だけど、あちこちで鍛えられているぶん、この家と学校だけしか知らない私より、ある意味ずっと大人の部分があるもの」
 太一は苦笑しながら立ち上がった。
「ちょっと待って。お茶、立てるから」
 庭に出ようとして立ち上がったものの、再び坐り直した。私より若い。耳元で囁くように言う加奈子にうなずくと、
「人を誉めるときはもっと大きな声で誉めなさいよ」
 振り返りもしないで、お茶の用意をしている先生の肩先が笑っているようだった。
 数分後、流れるような手捌きで淹れてくれたお茶を呑み終え、太一は足を投げ出し、壁に背をあずけた。
「本当に自分の家のようね」
 加奈子は呆れていた。
「そうでしょう。図々しいでしょう。四十年ぶりにあらわれたとびっくりしていれば、二度目の今日は、この厚かましさだものね」
 先生の眼が甘く睨んでくる。
「安心しましたよ。震源地が近いから、心配していたんです」
 太一は投げ出した足もそのままに、地震の話題に触れた。
「倉の壁が崩れたのよ。不幸中の幸いね。この家、古いけど材料も造りも頑丈だから、揺れても倒れることはなさそうね」
「家もそうだけど、先生も変わりなくてよかった」
 過去を、とくに苦々しい過去は自ら抹消し、今日や明日だけを見ると先生は言った。
 しかし、太一はこの家や庭に先生の過去を探そうとしていた。
 今日や明日は現実。過去はすべて幻。そうかも知れない。
 それでも太一には過去を断ち切ることは難しい。茶室を出て、庭の中ほどにある石造りの椅子に腰を降ろした。石のテーブルもある。加奈子はその感触にはしゃいでいた。
「先生、私もまた、来ていいでしょうか」
「大歓迎よ。太一くんにも言ったけど、ここは秋がいいの」
「はい。先生が秋になると、まるで庭が火事のようだと仰っていたとか」
「そうよ。一度でいいから、あんなに真っ赤に燃えてみたかったわね」
 太一と加奈子は顔を見合わせた。過去を断ち切ると言い、現実だけを見る、と言っていたはずだった。先生の過去が一瞬、透けて見えたような気がした。
「いまの先生、真っ赤に燃えているようだけど」
 先生の眼が眩しそうに太一を見上げてくる。
「あ、先生、妬けます、その眼」
 子供のように手を叩く加奈子に、
「秘密を教えてあげるわね。太一くん、この前来たとき、私を好きだったと告白してくれたのよ」
 加奈子が興味を示す。
「その当時言えばよかったのにね。いまじゃ、いくら何でも遅すぎるわよ」
「先生と太一さん、やはり、普通の恩師と教え子とは違うようです」
 加奈子の表情が昂ぶっていた。何を想像しているのだろう。ただ、嫌悪しているのではないようだった。
「でも太一くんはそう言いながら、当時、私以外の誰かに恋していたようね」
 その誰かを知る加奈子がうなずいた。そろそろ帰る頃合いだった。
石の椅子から立ち上がり、鬱蒼とした木々や花々の中を玄関に向かう。
「煙草、私のためにずっと我慢していてくれたのね」
 先生は太一の胸ポケットの煙草を指で突っ突き、秋、必ず二人で来るのよ、と言い、あっさりと背を向けた。
 その後姿を見ていると、一度も振り返らずに、森のような庭の木々の枝葉に吸い込まれるように、母屋のほうへ歩いて行く。
「先生、寂しいのね。だから、振り返らないの」
 加奈子の一言が胸を抉った。
                           (了)