小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

北日本文学賞。

 第五十回を迎える「北日本文学賞」の締め切りが、今月末に迫っている。
応募する人はいままさに、三十枚を書き切ることに没頭していることだろう。

 この北日本文学賞。入賞者が一人と選奨が二人。合わせて三人の書き手が毎年選ばれる。
そう信じて疑わなかったが、いま、何気なく、北日本文学賞入賞作品集を眺めていて、一度だけ、入賞に該当する作品がなく、
選奨者二人だけが選ばれていることに気づき、その意外性に驚いた。
 
 それは昭和51年度に行われた、第11回「北日本文学賞」。当然、入賞作品集なので、この回に関しては井上靖さんの選評もない。
私が初めてこの賞に応募したのは、第23回。昭和の終わりである、63年のことだ。
 このときの入賞者は何度か記した記憶があるが、「電車」という作品で、井上靖さんに選評の中で3度も「見事な」と言わせた、原口さん。
 この方は数年後、芥川賞にもノミネートされた。そのとき私は「岬三郎」というペンネームで、「春蘭」というタイトルの作品を出し、幸運にも選奨をいただいた。お会いしたことは一度もないが、その縁で、原口さんとはいまだに賀状の交換を続けてもらっている。
 この年がまさしく、私がはじめて小説を書き始めた年で、その年は続けざまに、いま仕事としている「官能小説大賞」や、数社の公募で最終まで残ったり、佳作だったりした。
 
今日は少し書いては一服するごとに、書棚に手をのばし、過去に応募先から送られてきた本を眺めていたが、その中で「鳥羽マリン文学賞」というのがあり、
 それにも一度、最終に残っていた作品があった。最終手前の三次まで残ったのも三度ほどあり、(ああ、俺のマックスはこのころだったのかな?)などと感傷に耽っていたが、
しかし、もしそうだとしたなら、書き始めの年がピークということになるので、慌ててその思いを訂正した。

 横道に逸れた。本題に戻ろう。
 二十四回で「帰国」という作品で受賞した高嶋哲夫さんも凄い人だ。
その後、平成六年に「小説現代推理新人賞」を受賞し、平成十一年には「サントリーミステリー大賞」で読者賞を獲り、今なおプロとして活躍されている。

 まだある。もっと遡り見てみると、昭和四十年に「雁」という作品で「オール読物新人賞」を受賞した、なつめさん、という女性の書き手。
その人はオール受賞後に北日本文学賞に応募し、最初は最終候補作まで残るものの落選、次が選奨で、数年後に北日本文学賞を受賞されている。

 そんなことを思えば、オールの新人賞を受賞している作家が挑戦しても、三度挑戦しなければ受賞出来なかった北日本文学賞とは、かなり凄い賞なのではないか、と思わずにはいられない。f:id:kugunarihama:20150808010649j:plain

 因みに、第二十三回のころの副賞としての賞金は入賞者一人だけで、選奨者には表彰状と銅製の分厚い置物だけだった。足代も大変だったので、表彰式には出なかったが、後日、表彰状と記念品が送られて来て、一人歓びに浸ったものだった。
 最初が昭和六十三年。次に再びの選奨が第四十二回。そして今年で五十回。今も尚、この賞を追い続けたい、という思いがあり、この季節になると、妙に昂ぶる自分がいていつも戸惑う。
 二十三回のときの応募者は490。四十二回は1100を超していた。やく3倍に増えている。そして今回の五十回はいくつの作品が集まるのだろう。
 数年応募を控えていたが、今年またしても応募するつもりになっている。だが、ある理由で、おそらく、よくて二次、最悪の場合、一次にさえ残らないと思う。
 しかし、それでもまた、この賞に参加したという不思議な満足感はあるに違いない。

 これから十二月までの間、仲間たちと楽しみながら、地元選考委員と輝さんの選んだ作品を読める日を待とうと思う。
 余談ではあるが、地元選考委員のおひとりは、第三回北日本文学賞を二十一歳という若さで受賞した人である。