小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

主に短中超編の、埃をかぶっている小説を発表しようと思ってのブログです。よろしくお願いします。

夜明けを探して。

 秋は不意にストンとあらわれた。その勢いに夏の名残が一変に蹴散らされることに触れ、移ろいの速さに愕くばかりだった。
 午後、施設に父を見舞った。少しずつ悪化していることは理解していた。が、その日眼にした父は、一見温和ではあるが、昨日までとはあきらかに別人だった。一週間という時間がそうさせたとはとても信じられない父の言葉を耳にして、頼子は愕然として、その場に束の間、立ち尽くしたままだった。「お父さん、元気そうね」とサロンで寛いでいた父の肩にいつものように手を触れた頼子を、怪訝そうな顔で振り返った父が、「どなた様でしょうか」と本心から困惑しているような表情を浮かべたのだ。
直後にはさっさと同じ病に罹っている老人たちのほうに向き直り、何の疑問も抱かないようにその輪の中に入り、なにごとかに笑い声をあげている光景を見ながら、頼子は虚しくなるとともに、しかし、これでいいのかも知れない、と無理にでも思い込もうとして、まだ同年齢ぐらいの老人たちと笑い合っている父の肩にもう一度手を置き、病室を出た。いよいよ父の記憶から、娘である自分をも消されてしまった。f:id:kugunarihama:20150722202409j:plain
 父がアルツハイマーと告知されたのは一年前だった。すぐに専門病院に入院させ、半年ほど様子をみていたが、病院が遠いとの親族からの圧力に、やむなく家から程近い一般病院に転院させた。
父の症状が急激に悪化したのはそれからだった。頼子の姉冴子が神奈川から見舞いに来ても、その顔を判別することさえ難しくなっていた。親戚の人々に対してはむろんのこと、頼子の子である孫たちの顔さえわからず周囲を困惑させていたが、それでも日々、病室に泊り込み、寝食をともにする頼子の顔だけは認識出来て、それだけが頼子に看病し続ける力を与えていた。しかし、時折ではあるが、二十年前に亡くなった頼子の母親と頼子とを混同した言動などがあり、その都度不安に苛まれていたものだったが、施設に移ってからも、今日のように、どなた様でしょうか、などと言われたことはなかった。父が父ではなくなることに愕然としながらも、ついさっきも感じたように、むしろ、いまのすべてを忘れたほうが父にとってはよかったのかも知れない、と改めて思うことにより、頼子は受けたショックを自ら和らげようとしていた。
 父はあの夜から激変しはじめた。それは入院していたころだった。その夜を思い出すと、亡くなった自分の妻――頼子の母親の顔も何もかもを忘れて、その日その日を院内の老人同士の人数分の話題で笑い合い、なにごともなく生き永らえてもらえれば、父のためにも自分のためにも、さらには周囲のためにもいいのかも知れない、と再び思いながらも、頼子は一抹の寂しさを感じていた。
父の病室に泊まり込んでの介護は、婿養子である夫との離婚調停の真っ只中にある頼子にとっては、好都合なことでもあった。二十六年もの長い年月を夫の理不尽な暴力に耐えながら過ごし、次男が二十歳になった直後に受けた夫からの暴力により離婚を決意して、その覚悟を夫に伝えた。
するとはじめて夫は驚愕し、離婚すれば常識的には家から出て行かなければならない立場にあるからか、当然のように納得せず、結局は裁判所での調停にまで事は拗れていた。元々、姉が先に好きな男と結婚し家を出たことにより、残った頼子が家を守るという、田舎に蔓延る仕来たりのような理由から、親に嫌々押し付けられての婿取りだった。
それだけならまだ我慢も出来た。しかし、初対面から、頼子はどうしても夫の全体を包んでいるような得体の知れない不気味さを感じ、結婚はしたくないと親に泣き縋った。その願いは受け入れられることはなく、頼子は狼に差し出される生贄のような気持ちで、結婚したのだった。夫には一度も愛情というものを感じることはなかった。家は所謂資産家で古くから伝わる名家だった。所有地の広さもさることながら、何代も続いた海や山の権利を持っていて、狭い地域ながら名が端々にまで通っていた。
このままいけば、夫は婿とはいえ、養子縁組をしているだけに家を継ぐことになる。それが父が病気になったことで、すぐ眼の前に近づいているとほくそ笑んでいた夫は、頼子が突きつけた離婚要求を頑なに撥ねつけて、何が何でも居座る決意でいた。そうした家の中に夫と暮らすことは苦痛でしかない頼子にとって、父親の介護を理由に病院に泊まるということは、初体験ではあっても夫の顔を見ないで済むというメリットがあり、決して辛いことではなかった。しかし、離婚問題は代理人である弁護士に任せて、誠心誠意、父親の介護をすることに徹していたある夜、不意に状況が一変し、うろたえ、直後には凄まじい恐怖心とともに生じた嫌悪感に襲われて得た結果が、父親を病院ではなく、介護施設にあずける、というものだった。
 急速に、しかも確実に以前の父とは違ってきていた。頼子はその夜を迎えるまでにも、父の変化に気づき、落ち着きを失う日々を過ごしていた。まず、眼が異様に耀きはじめていた。これは一日中見守っている頼子にしかわからないことだった。毎日のように見舞い客が訪れた。
アルツハイマーに罹っていることを信じないままに見舞い客は訪れる。父はその人々の顔も名前も覚えてはいないが、不思議なことに来客に対する顔は持っていて、笑顔を向け、見舞いの言葉に対しても無言のままではあるけれど、何度もうなずきを繰り返す。
そうした仕種を眼にして、人々は普通の病気で、しかもだいぶ回復していると無理にでも思い込み、頼子に対して、そろそろ家に帰すことも考えなければ、と諭すように言う。それに対して頼子は、曖昧な受け応えに終始した。
実状はまったく違うのだ。父は確実に悪化している。頼子は夕食をとらせ、お風呂に入れる準備をしながら、あなたが何でもやり過ぎるから、相手に誤解を与えるのよ、と言った親友の顔を思い出していた。言われてみればそのとおりなのかも知れないと思う。が、まだかなり正常が残っていた時期には、身の回りのことなど可能なかぎり自分でやろうとしていた父も、症状が進むにつれて、三度の食事さえも一々、頼子がスプーンで口元まで運ばなければ喰べなくなった。
入浴も全身を頼子の手に任せて、完全に一人では何も出来ないようになっていた。しかし、そのときにはまだ、頼子を自分の娘だという自覚はあった。時折、分厚い雲の切れ目から顔を出した陽のように、おまえには苦労ばかりかけて済まない、などと、思わず頼子が泪ぐむような優しい言葉をくれることもあった。
だが、日々が重なるにつれて父は頼子を死んだ妻と錯覚しているような言動が顕著になった。そのことを知っているのは、親友の悠子だけだった。窮状を訴えるたびに、悠子にそれはあなたの世話のし過ぎなのだと戒められた。わかってはいた。けれど、性格が災いして、頼子はおそらく先の短い父を思うたび、自分がいま、出来るだけのことをしてやるのが子の勤めなのだと頑なに信じ、看護師たちでさえため息をつくほど、昼夜を問わず、父親に集中し続けていた。
たとえ記憶の一切を失ったとしても、血の繋がった親子である以上、常識では測りきれない絆のようなものが存在しているはずだとも信じていた。少なくとも、自分はそうだった。子供のように甘える父の口元にスプーンで食事を運ぶのも、入浴のとき全身を洗い清めてやることも、夜中に失禁してはオシメを取り替えてやることも、それらのすべてが親子としての絆なくして出来るものではない。
ただ、全裸で仁王立ちする父親の性器を眼の前にする辛さだけは、喩えようもなかった。それでも父親なのだ、という意識が増すにつれて、そうすることが当然なのだという意識が強くなる。その父親の萎びた物体を眼にしても、然程気にならなくなった自分に、苦笑したりしていた。
その父の様子が急変したのだ。申し合わせたように夥しい数の見舞い客が訪れた日の夜だった。その日頼子は見舞い客の帰った後、担当の看護師に父を頼み、日用品などを求めて町に出た。病室に戻ったのは夕方だった。とてもお行儀よく過ごしていましたよ。頼子の顔を見た看護師が微笑んでいた。その言葉に安堵し、頼子は買って来た下着などを取り出し、入浴後に着替えさせようと、一式を揃え、父を促して浴室に向かった。看護師の言う通り、父はとても素直に頼子に頼りきり、眠るまでのひとときを過ごしていた。
そろそろ眠りにつく時間帯だった。頼子もうとうとしていた。疲労が蓄積していた。一度父の寝息を確認した後、つい病室内のソファに身体を横たえたまま、すぅっと意識を失うように眠りに引き込まれていた。八十歳過ぎの父と、もうすぐ五十歳になろうとしている自分。振り返ってみるまでもなく、とくに夫と結婚してからの自分には、何一ついい想い出はなかった。
夢の中に十年以上前に死んだ母があらわれた。夫との結婚を希んだのは父よりも母のほうが強かった。だが、その母も夫を間近に見ることにより、次第に強制的に結婚させたことを頼子に詫び、ある日、頼子と夫との諍いの間で崩れ落ち、そのまま息をひきとった。夢の中の母は、やはり、頼子に詫びていた。
 何時間眠っていたのだろう。何十分かも知れない。母の顔が夢の中から消えるのと同時に、誰かがその母の名を呼んでいる声が耳を打ち、頼子は目覚め、薄目を開けて周囲を窺った。そのとき、「芳江」と再び母の名を呼ぶ声に、頼子は飛び起きていた。父だった。夢でも見ているのだろうか。そう思い、父の姿を病室の薄闇の中に捉えた瞬間、頼子は愕然として、束の間、言葉を失った。父が自分を見つめて母を呼んでいる。これまでにも何度かあったことなので、それだけなら宥めて寝るようにと労わるのだが、そのとき眼に映った父は、すでに眠りにつく前までの父ではなかった。頼子は緊張したまま、尚も様子を窺っていた。父は布団の上掛けを床にすべて落とし、芳江と母の名を繰り返しては、頼子を盛んに手招きしていた。f:id:kugunarihama:20150722202533j:plain
寒気がした。日ごろ頼子の手を借りてしか何も出来なかったのにも係わらず、自ら下着をも脱ぎ棄て、下半身を曝け出し、「久しぶりに二人で寝よう」と卑猥に笑うのだ。うわ言のように母の名前を言い、何度も頼子を手招きしている。唖然としながらも、頼子は気を取り直し、灯を点けた。
「お父さん、何してるの。私はお母さんじゃないの。娘の頼子よ。わからないの」
無意識に声には怒気が含まれていた。夢にも思わなかったことだった。父は自分の年齢も忘れているのだろう。八十歳を過ぎたのに、下半身だけを脱ぎ、痩せて骨と皮だけになった尻を恥かしげもなく晒しながら、実の娘に向かって、夜を共にしようと訴えている。それがたとえ亡くなった母と思い込んでのことだとしても、頼子にはおぞまし過ぎた。
いまさらのように、父が男であることを知った。そう思わずにはいられない。頼子の眼が捉えているのは、父ではなく、すでに老いて獣にまで成り下がった一匹の牡だった。
「お父さん、いつまでもそんな恰好でいちゃ駄目でしょう。早く下着を穿かないと風邪ひくから」
全身に鳥肌をたてながら、頼子は辛うじて平静さを保っていた。それでも口調からは怒りが消えない。
「寝られないんだ、芳江。久しぶりじゃないか。早くこっちに来い」
父は起きたまま、夢を見ているとしか思えなかった。狭いベッドの片側に身体を寄せ、もう一人分のスペースまで示し、父は執拗に頼子に向かって母の名を呼び、一緒に寝ようと急かしてくる。近づかない頼子を見て、父は苛立っているようだった。
「何故来ないんだ。俺が来いと言ったらさっさと来い」
記憶を失いつつも、名家の主としての威厳のようなものだけはそのままだった。母が健在のころ、見る限り、父は母に優しかった。頼子はこのとき、周囲の眼の届かない父と母との寝室での実態を、はじめて覗いたような思いだった。
「お父さん、いい加減にして。しっかりして。まだそんなこと言うなら、私、もう帰って、ここへは来ないから」
そう言った瞬間、父から急に、勢いが消えた。まだ妻と信じたままなのか、それとも娘と気づいての狼狽があったのか、剥がしていた布団を引き上げ、頭から被ると、中で何やらもぞもぞと動いている。おそらく、下着を穿いているのだろう。頼子は尚も身体を強張らせたまま、じっと時をやり過ごしていた。
小一時間ほどが過ぎて、どうやら父の寝息が聴こえてきたころ、頼子はいつもはパジャマに着替えてから眠りにつくのに、どうしても消えない恐怖心に堪えかねて、きっちりと衣服を着込み、ソファに坐ったまま、朝までを過ごした。
翌日も見舞い客は多かった。父は相変わらず訪れた人々に対しては愛想がよかった。昨夜の言動が嘘のようだった。日向の猫のような温和な顔で、見舞いを口にする人々の顔を見上げて、微笑んでいた。真夜中に何度も名を呼んだ母のことは一言も口に出さず、頼子の名前を間違うことなく呼び、人々の微笑を誘っていた。
午後になり、見舞い客が帰ったころ、悠子が顔を出した。その顔を見るなり、頼子はドッと溢れる泪を堪えることが出来なかった。どうしたの? と心配顔の悠子を促して病室を出た。廊下の一角にある待合室風のスペースにある椅子に坐ると、一睡もしていないことと、昨夜の父のことを思い出し、一変に気を失いそうだった。
「何があったの?」
悠子が顔を覗き込む。昨夜の一件を告白することはとても勇気のいることだった。通りすがりの他人のことならば怒りに任せてすべてを吐露していたことだろう。だが、相手は実の父だった。むろん、一人で歩くこともままならないので、離れていれば未然に防げる。しかし、父としてしか見てこなかった頼子には、父の一つ一つの言動が深い疵となって残っていて、恥とは思いながらも吐き出さずにはいられなかった。
重い口を開き、その一部始終を打ち明けた。悠子もさすがに愕いたようだった。一瞬、全身を震わせていた。老いた両親を抱えているだけに、他人事ではないのだろう。
「私、どうすればいいのか、わからない」
悠子はそう言った頼子の肩に手を置いて、
「すべてが病気がさせていることなのよね」と言った。うなずくしかなかった。悠子の言う通り、記憶の喪失は理性をも父から奪い取り、本能的な欲望だけしか残さなかった。唯、そうは理解しながらも、頼子にとってはそんな父の姿など、一瞬でも見たくはなかった。
「お金はかかるけど、付き添いのプロを頼んだほうがいいんじゃない」
常々考えていたことだった。それが昨夜の父を見て、現実的な問題として急激に膨らんできた。けれど、いま家で実権を握っているのは夫だった。離婚調停を間近に控えながら、家娘である自分が家を出て病気の父を介護し、婿養子の夫は子供たちも独立して誰一人いない大きな家で、金庫を抱き締めるようにして管理している。さすがに病院にかかる費用は出したが、それも渋々だった。以前に付き添いを雇うことを相談したときには、おまえという娘がいるのに無駄なことだと一蹴された。それらを思い出し、無言を強いられる。
「いずれにしても、早く離婚問題を解決しないと、頼子のほうが先に参っちゃうわよ」と悠子は胸中を見透かしたように言った。f:id:kugunarihama:20150722202746j:plain
父が健康でいるころは、唯一、夫との生活だけが苦痛だった。今更どうにもならないとは思いながら、何故、姉だけが好きな人と結婚して、自分ははじめて会った瞬間から生理的に合わないと感じた男と、強引に結婚させられたのかと、毎日のように悩み、その積み重ねによる疲弊感から離婚を決心し、ある日、些細なことで暴力をふるった夫の顔を見た瞬間、それまでの張り詰めたものが切れて離婚を決意した。
それで苦痛から解放されるはずだった。しかし、丁度そのころ、父は入院を余儀なくされたのだ。頼子は自分の境遇を呪った。何故こうまで薄幸なのだろう。夫の性格を思えば、離婚も簡単にはいかない。そうは覚悟していたけれど、父の症状が悪化し、殆んどの記憶が父から消えていくスピードに合わせるように、夫は父親名義であるもの一切を懐に抱き込み、離婚ならおまえが出て行け、と開き直った。
まるで籠城するように家の門を閉めたままだった。そんなことが鮮明に蘇る。頼子は宙を睨んで途方にくれるばかりだった。
「夜はこれからも毎日来るのよ。付き添いの人を雇い、あなたは離婚が解決するまでアパートを借りて仕事をして、自立を考えないと。このままではあなたも爺ちゃんも駄目になるわよ。いつも言ってるでしょう。余り世話をやき過ぎると際限がなくなるって。とくに記憶を失いつつある爺ちやんが下の世話もしてくれるあなたを死んだ婆ちゃんと勘違いするのだって、ある意味仕方のないことかも知れないのだから。頼子は亡くなったお母さんに容姿がそっくりなんだから」そう言って立ち上がった。
「ごめんね。私にはあなたの愚痴や悩みを聴いてあげるぐらいしか出来ないの」
悠子は再び頼子の肩に手を触れてきた。

 その夜も同様だった。父は昼に見舞い客に対するような父ではなく、薄闇の中に瞳を耀かせて頼子を見据えてくる。
「芳江、さ、こっちへ来い。何故おまえは俺の言うことを聴こうとしないんだ」
と苛立ち、立ち上がろうとしてよろけ、忌々しそうに、こっちへ来い、と繰り返していた。やはり下半身だけを露わにし、同衾を強要するのだ。頼子は込み上げる嘔吐感を堪えた。
「お父さん、私はお母さんじゃないの。娘の頼子なの。何故なの。あんなにこの私を可愛がり、誰からも人格者だと尊敬されていたのに、何でそうなったのよ。お父さん、お父さんはいま何をしようとしているのかわかってるの? 実の娘の前でパンツを脱いで一緒に寝ようと言っているのよ。恥かしくないの? 私、それ以上変なことをするなら、本当にここから出て行きますからね」
圧し殺した声で訴えた。父の動きが止まった。正気に戻り、自分の姿を見て愕然としているのだろうか。一縷の希みを抱き父を窺う。すると、
「小便がしたい。トイレに連れて行け」
頼子はその言葉に力を失くした。まだトイレに行ってから二十分も経っていない。トイレから戻ってすぐ、父はパンツを降ろし、これ見よがしに股間を誇示し、手招きしたのだ。たしかに年齢的な頻尿ではあるけれど、それでも昨日までは三時間ぐらいの間隔はあった。本当に記憶を失っているのだろうか。自力では歩行もままならないのを知り、自らは近づけないのを逆手にとって、トイレに行きたい、との理由で近づくのを待っているような気がした。
頼子は父のような特異な病気でも、そうした駆け引きだけは本能的に出来るのかも知れない、と疑いはじめていた。だが、認知症の専門病院での検査で、脳の左側がスポンジ状になっていることを知らされた。右脳もかなり進行していて、いつある日突然、完璧に記憶を失うかわからない状態だと医師から告げられていた。
そう振り返ると、いまが記憶のすべてを失った瞬間なのだろうか。そう思えば、本能だけになった動物としての欲求が父を動かしているとしか思えなかった。頼子はさらに恐怖感に苛まれていた。明日は思い切って、担当の医師に隠さず伝え、相談してみようと決め、様子を窺うと、つい数分前までの言動が嘘のように、父の寝息が耳を打つ。
 医師が言うには、痴呆症には様々なタイプがあるとのことだった。父のように色欲だけが浮き出る患者も少なくないという。女性でも昼夜を問わず、男の姿を見ては、動物のように発情して、周囲を困惑させる人もいるという。
夜の一定時刻、まだこれからのほうがその症状が増す可能性があるとも言われた。頭では理解出来ても、頼子にはとても受け入れられることではなかった。他人ならまだしも、実の娘である自分に本能のままに迫ろうとする父は、最早父ではなかった。頼子には一秒でも堪えられることではない。
年齢的にも痴呆症に限らず、何らかの病魔に冒されるのは致し方ないけれど、何故娘さえ判別出来なくなるような病気に選ばれたのかと、頼子はそのめぐり合わせへの理不尽さを思わずにはいられなかった。と同時に、娘をも性の対象に見据えるほどに本能だけしか残されていない父を思うと、とても不憫だった。
欲求だけで、年齢的にも性的交渉はまず不可能には違いない。それでも不可能かどうかよりも、その行為を希む父を不憫に思いながらも、それ以上に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
悠子の言葉を思い出す。あなたが世話をやき過ぎるからじゃないのかしら。そう言っていた。その一言が何度も胸に突き刺さる。世話をやくのは当然のことと思っていた。親子とはそういうものだと自覚していた。トイレに付き添い、入浴させ、身体の隅々まできれいにし、一人では食事さえとれなくなった父の口元に、スプーンで食事を運ぶ。当初はさすがに全裸で浴室に立ち、羞恥心の欠片も失せた父を眼の前にしたときには、少なからず動揺したけれど、回数を重ねるごとに、それを一つの風景のように捉えはじめてもいた。
だが、日一日と確実に記憶を消していく父にとって、毎日当たり前のように自分の裸を見る娘、という意識が薄れて動物に近づくにつれ、相手を雌としてしか感じなくなっていたのだろうか。そう思うと、父をそのように変化させた責任の一端は、自分にもあるのかも知れないと気づき、頼子はさらに全身を濡れ雑巾で包まれたような暗澹とした気持ちになり、その不快感にこれからを想像し、呆然とするばかりだった。
 
 何気なく新聞を見ていた。この町だけに配られているものだった。介護に明け暮れて、新聞など読む機会もなく忙しない日々を送り続けていた。父がリハビリに行っているときだった。通りかかった病院内の売店で、その新聞が眼にとまり、買い求めて病室で眼を通していた。
一点の記事に釘付けになる。市内に民間の介護施設がオープンするという記事だった。これで二人とも救われるかも知れない。率直にそう思う。医師が言うには、入院し続けても現状維持もままならず、退院してもいまと変わりはないということだった。体のいい退院勧告だった。
ただ、そうしたくても夫しかいない家に帰ることは出来なかった。しかし、その施設が出来るのであれば、頼子にとっても父にとっても、ある意味現状を打破出きるような気がしてならなかった。何よりもまず、父の獣への変化に触れないで済む。それに施設は同じような老人ばかりなので、そうした仲間との日ごろの語らいの中に、父も色欲以外の何かを奇跡的にでも蘇らせるのではないか、という希みを託し、頼子は早速、記事の中にある番号に電話することにした。
痴呆症の症状は様々でも、父のような特徴をあらわす老人は他にもいるはずだった。家族で介護にあたっている家もあれば、頼子のようにどうしても家族構成上、他人の力を借りなければならない場合もある。そう推測すると、施設に入るのも激しい倍率競争が予想された。ためらってはいられなかった。可能ならば自分で介護し続けたいとは思う。が、このままでは頼子自身が崩壊するような重圧に耐え切れなかった。

 神奈川から姉が見舞いに訪れた。恋愛から結婚へと一直線に貫き、家からは勘当同然だったので、一時はまったく疎遠になっていた。母の死以降、姉は親不孝のまま母と死別したことを悔やみ、せめて残っている父には孝行の真似事でもしたいと、年に一度ぐらいは家に顔を見せていた。それでも無口で大人しい父はその分頑固で、いまだにはっきりとは、姉を赦すとは言わなかった。そんな折からの父の思いがけない入院は、頼子同様、姉もかなりショックを受けたようだった。が、都会での生活は頼子には想像もつかないほどに切羽詰ったものらしく、姉は四十歳を過ぎてからパートに出て、寝るのも惜しむように働き続けてきた。
長引く不景気に、気にはしながらも父の見舞いで何度も職場を休むことが出来ず、おいそれとは顔出せない事情は頼子も理解していた。それでも単に介護するだけならまだしも、最近の父を見るたび、何故自分だけが衣服もそのままに病室のソファでまどろみ、カップ麺やコンビニの弁当を口にし、あげく、父に雌として求められなければならないのかと、電話のたびに「お父さんを頼む」と繰り返す姉に対して、時折、憎悪のような感情を抱いたりもしていた。
自分もある程度そうだが、姉は世間体を重んじ、他の身内はそれ以上に周囲の眼を気にし、父の病名が外に漏れるのを異常に気にした。痴呆症と精神病を同一に考えているようだった。姉はどうしてこうなったのだろうと泪を浮かべ、血筋的にも考えられないことなのに、と田舎特有の概念をいまだに棄て切れていない。
都会にいるならそうでもないはずなのに、田舎では精神病の人をあからさまに差別する風習のような伝統があった。とくに父は地域の名士であるだけに、痴呆症認知症という病をそれらと同じに見て、身内は世間体ばかり気にした。だから、見舞いに来ても、夜以外は誰に対しても微笑を返す父を見て、ほら、爺ちゃんには精神病の気配など何もないからと、強引にでも退院させようとする。家に閉じ込め、世間の眼から遮断することを希むのだ。
頼子はそれらを悉く拒絶して来た。久しぶりに会った姉の顔を見ると、夜の父の姿を言わずにはいられなかった。姉は途中から顔を蒼白にし、
「信じられない。頼子、私、そんなこと聴きたくない」と言って耳を塞ぎ、頼子を唖然とさせた。
「姉ちゃん、これが現実なの。私だって信じられないの。姉ちゃんはそう言って帰れば済むでしょうけど、この私はどうなるの? お父さん、娘の私に迫ろうとしたのよ。股引もパンツも脱いで、こっちに来いってお母さんの名前を呼ぶのよ。私の気持ちもわかってよ」
「あのお父さんがそんな……」f:id:kugunarihama:20150722202959j:plain
自分自身、夫とのこと以外は苦労もなく、家娘として恵まれた環境にいただけに、友人などから、あなたは浮世離れしたとてもいい人だと揶揄されて来た。姉は都会で何十年も余裕のない暮らしをし続けているにも係わらず、言動はとても五十歳を過ぎた大人とは思えなかった。姉はいまでも日々、子供のころに純粋培養されたままに、夢の中に浮遊しているようだった。
「しっかりしてよ、姉ちゃん。お父さんはもう、正常じゃないのよ。そこをきっちりと認識してよ」
「わかってる。わかってるけど、父親が娘の顔もわからなくなるなんて……、娘にいやらしいことをしようとするなんて」
以前、見舞いに来て父の前に立ったとき、父は姉の顔も名前も覚えていなかった。姉が、冴子よ、長女の冴子、と叫んでも、父は抑揚のない声で、娘は頼子でそこにいる、とあの夜の父を想像も出来ないような温和な顔で頼子を指差し、この人はどこの人だ、と困惑したように眼をしょぼつかせ、姉を落胆させた。
「全部病気のせい。私だってお父さんが悪いんのはなく、病気がそうさせていると思えばお父さんに同情するしかないけど、でも、その病気がお父さんの本能を曝け出させたとも言えるの。人一倍温厚だったから、病気が理性を外したとたん、お父さんの本能だけがあからさまになったの。だけど、そんなこと理屈ではわかっても、傍にいる私にとっては娘としても女としても赦せることじゃないの」
頼子の迫力に姉はたじろいだ。ただ、おぼろげには理解したようだった。それでもまだ、眼を瞠ったままだった。
「嘘だと思うなら、姉ちゃん、一週間、いや、二日だけでもいいから病室に泊まって、お父さんのいまを確認して」
「ごめん。でも仕方ないでしょう、親子なんだから」
「そうよ。親子だから仕方がないの。しかし、親だから鳥肌が立つんでしょう。それに、言いたくないけど、姉ちゃんの親でもあるのよ」
言い過ぎているのかも知れない。そう思い姉の顔を窺った。
「わかるけど……、でもいまの私には、自分の家庭家族が一番なの」
そう言った。瞬間、姉の眼はそれまでとは違い、強かな耀きを放った。
「そうよね。私も好きな人と結婚したなら、きっと同じことを言ってると思う」
「そのことだけど、もう一度、考え直せないの?」
姉は夫と縒りを戻せと、と言葉に含ませる。怒りが込み上げて来た。身内はどこまでも世間体だけだった。
頼子はやはり、父を施設に入れよう、と再認識した。悠子の顔が蘇る。肉親よりも心が許せた。身内は誰一人として言わないのに、大変だろうからと、まとまった金を工面してくれたのも、他人である悠子だった。
父の病は、思いがけず、係わる人々の思惑をも浮かび上がらせていた。
「姉ちゃん、私はもう、決めたの。いいわ。私、離婚して一人なり、たとえどんなことがあっても、最期までお父さんの世話をする。だから、姉ちゃん、軽々しく、縒りを戻せなどと言わないでちょうだい」
「ごめん……、私だって、そんなつもりで……。ごめんね、頼子……」
「判ってる。でも姉ちゃん、もう、お父さんの実態を隠し通すことなど無理なのよ。病気なのだから、世間体も何も関係ないのよ。お父さんのいまの姿は、私たちの将来の姿でもあるのだから……」
蒼褪めたままの姉に近づき、頼子はそっと、その震える肩に両手を添えた。             (了)