小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

タイトル。

f:id:kugunarihama:20150712002501j:plain  私は作品を仕上げてからタイトルを考えるタイプだが、みなさんはどうなのだろう。
この「タイトル」。私にとってはプロット同様、とても厄介な作業となる。
 ありきたりでは面白味に欠けるし、かといって奇想天外なのも如何なものか、と思うと、ついつい数日を費やしてしまう。
 何日時間をかけてもいいが、そうして考えたものが陳腐だと、こんなことさえ出来ないのか、といじけてしまうことも結構ある。
 おそらくプロでも多少は悩むのではないだろうか。
 最近は長いタイトルも見受けられるが、個人的には馴染めない。少し長いけど、(いいな)と思ったのが、五木寛之の「蒼褪めた馬を見よ」ぐらいかな。
 逆に極端に短い一字でのタイトル、北方謙三の「檻」は上手いなぁ、と思った。半村良の「雨やどり」も普通っぽいけど、よく内容を表していると感心した覚えがある。
 いずれにしろ、いつまで経っても、私には難しい。

 これまでの私の作品のタイトル。けっこう数はあり、殆ど押し入れの奥に仕舞ってあるので、手元にある幾つかを並べてみよう。

「天国への土産」「狸と双眸」「緑色の異邦人」「日射病」「身勝手な憂鬱」「青春ごっこ」「流人島の王」「谷底の屑」「男の天使」「双眸の疵」「裏の顔」「西から昇る陽」「ナルシストの憂鬱」

 いずれもパッとしない。

 本編もそうだろうが、タイトルはセンスかも知れないね。ほんと、悩ましい。一日中、考えているときもあり、無能さになげやりになっているときに、フッと思い浮かぶことがあるけれど、それさえも数日経過して見直すと、陳腐以外のなにものでもなく、あきらめてそのまま投函することが殆ど。

 センスだとしたなら、これはもう、どうしようもないね。

 因みに、北日本文学賞で選奨を獲った作品のタイトルは、「春蘭」と「猫か花火のような人」だった。自分で唯一気に入っているのが、この「猫か――」のタイトル。
 でも、これだって、自己満足に過ぎないのかな。