プロットについて。
プロの編集担当者(プロではなくてもそうかも知れないが)は、プロットを重要視している。
それにより、これは売れそうかどうか判断するのだから、当然と言えば当然ではあるのだが、
私はこのプロットは大の苦手。
本編を五百枚書くよりも、十枚のプロットを書くほうが難しく、提出を求められるたびに何度もため息をついている。
これまで官能文庫を十五冊刊行し、この八月に十六冊目が出るが、このすべてにプロットが存在し、頭を悩ませてきた。
とはいえ、悩ましいプロットをたてながら、一冊としてプロット通りの内容に仕上がったものはないのだから、結局は無くてもいいのではないか、と思ってしまう。
担当もプロットを提出させはしても、仕上がった原稿がそのプロットとはまったく別物であっても、書き直しを命じて来たことはこれまでにない。
プロットとは、これから創り上げる作品の設計図みたいなものだろうか。冒頭から最後まで設計図をひき、その通りに仕上げていく。
しかし、家を建てるときでもそうだろうが、なかなか設計図通りにはいかない。つくっていくうちに、ここはこうしたほうがもっとよくなる、ということが度々出て来る。そのことで仕上がった家が、当初の設計とはまったく違うものになっている、ということは建築に於いては稀だろうが、私の小説の場合、八十㌫以上が創りかえられている。
プロットが厭なのは、書くのは長編が多いのだが、プロットにより纏めると、短編の集合体のような仕上がりになりそうなこと。全体を通しての「うねり」だとか「面白み」がプロット通りに纏めることにより削がれるような気がしてならないからである。
それと、難しいのは登場人物の名前。
考えるのが面倒で、ついどうでもいいような名前をつけてしまうが、そんなことでは駄目、だと言われる。名前を見ただけでキャラが浮かぶようなのをつけないと、読者が混乱する。
たとえば、祥子だ幸子だ抄子だと、「子」ばかりが多いと、たしかに読んでいて、(あれ、この名前って?)と、読者は読み返すことになるので、似たような名前は避けることが鉄則のようだ。
そんなこんなで次々作に登場させるヒロインたちの名前づけに真剣に取り組んでいる、昨今の私なのです。
ま、何が難しいといって、タイトルほど難しいものはないかな。近々、タイトルについても自己流解釈を書いてみたい、と思う。