小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

52歳の夜明け(北日本文学賞三次までしか残らなかった作品)

f:id:kugunarihama:20150629015107j:plain 日々、滅入っていた。何もかもが気に入らない。ただ、パートではあるが、島に一つしかないマーケットで働いているときだけ、様々に降りかかる煩わしさから逃れられた。
 狭い島の中での日常で、つねに周囲の評価を意識し、つくり上げた形を崩してはならないと、仕事にも没頭した。それが経営者にも認められ、一週間前の人事では、パートでありながら、副店長を命じられた。しかし、そのことが他のパートたちとの間に軋轢を生み、可南子は職場でも新たな苦悩を抱えることになる。
 ある日、出勤してすぐ、店の奥にある事務所に呼ばれた。そこには社長と夫人が待っていて、顔を見るなり、明日から二日間、小旅行に行くので、同行するようにと告げられた。誘われたのは可南子一人だけだった。殆どが同年代の女だけの職場なので、社長夫妻との旅行に一人だけ誘われたとなれば、妬まれるのは眼に見えている。そう思い、一度は辞退したものの、幹部研修の一環だと言われ、気乗りしないままにうなずくしかなかった。
 果たして、職場は騒然となる。五十二歳の可南子より歳上の者はあからさまに、歳下のパートたちは陰でこそこそと、形は抜け駆けに等しい可南子を詰った。それは旅行から戻るとさらに顕著になり、その日からずっと分厚い陰湿な空気に包まれているようで、時折、かな縛りにでもあったような息苦しさを覚えてもいた。
 
 仕事を終え、中学のときからずっと、親友として付き合っている佐和子の店に向かう。佐和子は昼は食堂で夜は居酒屋となる店を営んでいて、何かあると立ち寄ったり、逆に呼ばれたりして、お互いに愚痴をぶつけ合い、疵を舐め合うような間柄だった。
「また、心配事が出来たのね」
 佐和子は昼の仕事を終え、カウンターに坐り、のんびりとコーヒーを呑んでいた。顔を見た瞬間、探るような視線を向けてくる。
「わかるわよね」
「そりゃ、わかるわよ。世の中の不幸を一人で抱えているような顔してるんだもの」
 離婚で疲弊し、数年前までは見た目にもやつれていた佐和子に毒づかれ、苦笑するしかなかった。
 仕事場での経緯はすでに知られている。だが、佐和子はそのことには一言も触れて来なかった。
「恵一さんには相談してるんでしょう」
「少しだけ……」
 佐和子が口にしたのは、夫の名前ではなかった。
「私は純平さんにすべて話しているわよ」
「私だってそうしたいけど、余計な心配、させたくないし、話していい相手なのかどうか……」
 純平を語るときの佐和子の表情は生き生きしている。その顔を見ながら、いまはもう、自由な立場にいる佐和子に羨ましさを感じている。恵一とは、二年も付き合っているものの、佐和子のように夫との離婚を視野に入れての深みまでには到っていなかった。恵一も佐和子の相手である純平とは違い、妻と別れてまで、独占しようとの思いはないようで、佐和子の言葉を借りれば、「あなたたちは、夫婦間の倦怠期の埋め合いっこをしているだけなのね」ということになる。
「久しぶりに、砂浜を歩こうか。こんな狭い店の中より、そのほうがいいでしょう」
 立ち上がる佐和子に従った。裏口から外に出る。百メートルほど歩けば海が広がっている。白い砂が眩しい。沖のほうに波があるらしく、潮騒の音が大きかった。
 
「可南子は流れに逆らい過ぎるから、大変だし、疲れるのよ」
 砂を踏みしめながら、散策するようにゆっくりと歩いた。陽を浴びて煌く海を見つめる、佐和子の横顔がキリッとしていた。点在する小島の木々の緑と、拡がる海の蒼のコントラストが美しい。
「そんなつもりはないけど……」
「私も同じだったのよ。でも、自分の気持ちの流れに逆らうことは無理なの。逆らえば毀れる。そう思った瞬間、楽になった。誰が何を言おうと、自分の気持ちに逆らわないことで、何とか前を向けるものよ」
 佐和子は島の十分の一はある土地を持つ、旧家の跡取り娘だった。嫌々ながら親の勧めで婿をとり、しかし、どうしても相性が合わず、夫との諍いが絶えなかった。両親が他界したのを機に、自分なりの日々を過ごしたい、と三年前、広大な土地も財産もすべて棄てて、体一つで生家を出た。それは事件として島全体を揺るがせたが、どんな説得にも応じなかった。自分の気持ちには逆らわない、の一言が突き刺さる。逆に言えば、離婚までの長い年月は、気持ちに逆らい、苦悩し続けた過去ということなのだろう。
 可南子にはそこまでの決心は出来なかった。鮪船の船頭をしている夫とは、この十年余り、家に戻っても会話はなく、砂を咬むような味気ない空間に堪えられず、何度か離婚を考えたこともある。可南子も佐和子同様、一人娘だったので婿取りを余儀なくされ、今日に到る。違いは一つ、佐和子は離婚後に純平という気持ちを入れられる相手を得たが、可南子は人妻でありながら、他人には絶対に気づかれてはならない、夫以外の男と親密な関係にある、ということだった。
 その違いは、可南子にとって大きい。
「祐介くんはその後、どうなの?」
 不意に二十歳になった息子、祐介のことが話題になり、微かにうろたえる。
「まだ……。何も出来ない子だから、無理に働かせて、苦労させたくないの」
「二十歳よ、祐介くんは。あなた、子離れしないと、祐介くん、大人になれないじゃないの」
「祐介のことにだけは、佐和子にも口を挟まれたくないの」
 佐和子にも子どもが二人いる。すでに自立していた。一人息子である祐介は、結婚して間があっての出産だけに、家中で溺愛し、何不自由なく育ててきた。佐和子に言わせれば、あなたは未だに乳を呑ませているという。指摘されるたびに、たしかに甘やかし過ぎた、との自戒はあっても、いまとなっては厳しい環境に突き落とすことは忍びなかった。カンガルーのように、ずっと懐に抱いてきたので、年齢的には大人でも、親の眼にはひ弱い。どこからこうなったのか。振り返れば、夫との間に距離が出始めたころから、そろそろ手を放す年齢になっていた祐介を、幼いころよりさらに、胸の内に囲い込んだような気がしてならなかった。
 以降、祐介への接し方に対する双方の隔たりが、夫婦間により深い亀裂を齎したことに間違いはなかった。そのすべてを知る仲だけに、佐和子はいつも、痛烈に疵を衝いてくる。
「いいわ。言わない。でも、自然ではない。それは可南子が祐介くんの自然の流れというものを堰き止めているの。そんなことはわかっているでしょうけど」
 堪えられず、可南子は砂を蹴って走った。佐和子はマイペースのままについてくる。
 佐和子の言うように、流れに逆らわず、思い通りに過ごせたら、どんなにいいだろう、とは思う。たしかに佐和子は、両親の死を機に、一気に自分の思いのままに流れ、すべてを棄て去り、無数に寄せられたお為ごかしのような忠告にも、聴く耳持たず、いまの自由を手に入れた。
(私はどうだろう……)
 流れたのではない。水面を流される木の葉のように、四六時中向きを変えられながら、周囲に流されてばかりいた。それが祐介を過保護なまでに懐に抱き続けたもう一つの要因かも知れない。何も疑わずひたすら信じ、いつまでも纏わりついてくる祐介だけは、理不尽な力によって歪められたくなかった。
「さぁ、そろそろ帰りましょう。これから夜の支度しなきゃ」
 長い砂浜の端まで歩いた。砂についた足跡を逆向きに踏み締めながら、佐和子の店に向かう。海はまだ耀いていた。船外機をつけた小舟が沖に向かっている。陽光に包まれて、白いペンキの小舟が焦げたような黒い点になる。
「正三郎さんはいつ戻るの?」
「二ヶ月後、かな」
「恵一さんは?」
「一週間後……」
「恵一さんとも長いわね」
 佐和子の気持ちはよくわかる。夫以外の男を好きになったことを告白したとき、佐和子は「辛いね」と言って泣いた。しかし、いまは違う。夫とは修正不可能なほどに気持ちが放れているのに、佐和子は妻という立場と世間体に拘泥し、周囲にはひた隠し、二人の男たちの真ん中にいるような可南子の姿勢を嫌う。
「潮時、かもね」
 可南子自身、口を突いて出たその一言が、夫へなのか恵一に対するものなのか、よく理解出来ていなかった。
 
 気持ちは冷え切っていても、長年の習性が、地域の新聞に載る、「漁業通信」の欄を開かせる。そこには各船の近況が短く報じられている。夫が船頭の船は、昨日までは帰港間近なこともあり、「順調に操業中。縄入れもあと僅か」と記されていた。南太平洋を漁場としているので、数回操業して帰国となると、二ヵ月後には母港に戻るはずだった。その日を思うと気が重くなる。年々、憂鬱の度合いが強くなる。
 朝食を終え、仕事場に向かうまでの十数分、新聞に眼を通しながら、最後に通信欄に眼を通した。瞬間、背筋が凍った。
「事故発生。詳細調査中」。
 この異様な短さが事の重大さを物語っていた。
(まさか、夫の身に……)
 新聞を食い入るように見つめながら、夫を案じている自分が不思議だった。心臓の動悸が激しい。衝撃は想像以上に大きく、すぐには立ち上がれなかった。テーブルに両手をつき、辛うじて立ち上がる。ふらつく足取りで、椅子を引き摺り、電話の前まで辿り着く。船の事務所の番号をプッシュし、引き摺って来た椅子に腰を降ろした。船頭の妻です、と名乗ると、受話器の中から緊迫した声が応じてくる。事務所内が騒然としているのが感じられた。事故は船長が夜半に行方不明になったというものだった。船という限られたスペースでの行方不明は、落水、つまりは死を意味している。
「船長さんが……」
 絶句した。海に落ちる事故は珍しくはない。ただ、船長の落水は稀だった。というよりは聴いたことがない。放心したままに受話器を置いた。
 それにしても……。捜索や事後処理に奔走しているはずの夫の顔を思い浮かべた。もはや大きく乖離した気持ちとはべつに、頭が真っ白になるほどに激しく動揺している自分がここにいる。しかし、夫はこんなとき、果たしてほんの一瞬でも妻である自分の顔を思い浮かべているだろうか、などと、つい斜に構えて考えてしまう。
 パート先に向かう気は失せていた。電話で急用が出来、欠勤する、とだけ伝え、取り敢えず、夫の会社の事務所に行くことにした。
 船に事故はつきものだが、すべての責任は船頭である夫が担う。鮪船の場合は特異で、船長は操船の責任者でしかなく、人事や漁場を決めるすべての権限が、船頭に与えられている。船長は船頭の指示により操船する水先案内人でしかなく、船内では№2の地位に甘んじる存在だった。
 一切の責任が生じる船頭の妻。そのことが可南子の頭を何度も過ぎり、気が休まらなかった。詳しい状況を知ったところで術もないが、それでも足は町の事務所に向いていた。
 島からの連絡船に乗る。デッキから沖の方を見ていたが、観光客の投げ与える餌を漁るウミネコの声が、頭上から切り込んでくるようで、たまらず客室に駆け込んだ。
 鮪船の事故のニュースは瞬く間に地域に伝わる。客室に腰を降ろしても、顔を知る島の人々が近づき、慰めの言葉をかけてくるが、煩わしいだけだった。町へ着くまで、可南子は眼を瞑ったままに、近づく人々の気配を遮った。
 
 事務所には船主も来ていた。さすがに厳しい顔をしている。挨拶を交わした後、事故に遭った家族のところに顔を出す、という船主に、一緒に行きます、と申し出たが、いまはまだ、私だけでいい、という船主の判断により、可南子は後日、一人で行くことにした。
 事故の原因はむろんまだわからない。だが、事故だろうと人為的なものだろうと、責任は夫にある。事務所を出て、島までの船の中で、恵一にメールで事の顛末を報せようと思い、携帯を手にしたのだが、思い止まっていた。
 正三郎さんと恵一さんとのシーソーゲームの真ん中にあなたがいる。そう言った佐和子の厳しい顔を思い出したからだった。
 あくまでも誰かに頼ろうとしている。そうかも知れない。反発しながら携帯を閉じても、程なく全様が知れ渡れば、夫だけではなく、自分も批難されることを想像する。一気に涙が溢れた。観光客が数人、怪訝そうな眼を向けてくる。
 
 帰宅しても、何もする気にはなれなかった。主婦として子の親として、最低限の家事だけは何とか済ませたものの、後片付けを終えると、すぐに自室に籠もった。
 毎日定期便のようにくる、佐和子からのメールを見る。日に一度、必ず立ち寄っていたので、顔を見せないことを心配し、昨日は言いすぎてごめんね、とあった。明日からの色んなことに思いを巡らせ、返信する気にもなれなかった。
 手足を動かすのも億劫なほどの疲れを感じていながら、眼は冴え冴えとしていた。眠りについたのは朝方だった。小鳥の囀りに眼醒め、茶の間に行くと、何よりも先ず、漁業通信欄を見る両親が、新聞の一面を食い入るように見つめて、ため息を繰り返していた。可南子の顔を見ると、見ていた新聞の箇所を指で示し、連絡はあったのか、と訊く。昨日の夫の船の件が、地域の新聞のトップニュースとして扱われていたからだった。
 父親も鮪船に乗っていたので、それがどのようなことなのか、文面を見ただけで殆ど把握している。
「正三郎は、昨日から眠っていないだろう」
 夫を案じての父の絞り出すような声が、寝不足の頭に染み渡る。
「おまえは知っていたんだな」
「昨日、船の事務所に行って来た。船主さんと一緒に船長さんの家に行こうとしたけど、断られた」
「だが、一度は行かなければならないな。正三郎はしばらく帰れないんだから、それは船頭の妻である、おまえの役目だ。何なら、俺ぁが一緒に行ってやる」
「ううん。今日、私一人で行ってくる」
 父はうなずいて、はじめてお茶を啜った。母は仏壇の前に膝をつき、手を合わせていた。
やはり、新聞を見たようで、パート先の社長からも電話が入った。理由は知っているので、しばらく休むと伝えたことに、復帰を待っている、とだけ言われた。
 午前八時の船に乗る。町に着き、タクシーで船長の家に向かった。途中で心ばかりのものを買ったが、そんなものは何の足しにもならないことは知っていた。
 船長の家は朝からざわめいていた。ひっそりとしているのだが、開けられたドアから家の中に入った瞬間、逆毛立つようなざわめきを感じて居た堪れなかった。親戚の人々が集まり、船長によく似た顔の男が、電話で相手を詰っていた。話の内容から、船の事務所に電話し、対応の到らなさを激しく叱責しているようだった。
 はじめから妻の視線に怯えた。お茶さえ出て来ない。
「うちのは他に乗る船があったのです。しかも、船長としてではなく、船頭として誘われていたのに、あなたのご主人にどうしてもと請われて、仕方なしに行ったのです」
「何と言っていいのか……。申し訳ございません」
 ひたすら、頭を下げ続けるしかなかった。妻だけではなかった。安否を気遣う関係者が何人も訪れては、詫びる可南子が船の責任者である船頭の妻だと知ると、思い思いに辛辣な追及をし始める。いっときも早く逃げ帰りたい気持ちを、辛うじて抑えつけていた。
 およそ二時間余り、船長の家にいたことになる。帰り際、船会社の専務が顔を出し、状況から船長の生存は絶望視されている、との報告がなされた。号泣しながら恨みの籠もった眼で睨んでくる妻の眼に堪えられず、可南子は小走りに船長の家を出た。
 道に出てもタクシーは掴まらず、港に向かい歩いていると、何度も携帯の着信音が鳴る。夫の実家からだった。船長の家族とは逆に、夫の家族はこの先、部下を海に落とした船頭の生家として見られることになる。不可抗力ならば時が経てば見方も変わるが、いまは可南子同様、居た堪れない気持ちでいるはずだった。
 一度、船の事務所に顔を出す。一日経っての詳細を確認しようと思ってのことだが、昨日以上の情報は得られなかった。ただ、漁を切り上げて、母港であるこの港町に向かっている、ということだけが唯一の変化だった。
 帰宅しようと思いながら、足は自然に、夫の生家へと向いていた。港で客待ちのタクシーに乗り、夫の家に向かう。出港日の見送りのとき以来なので、一年ぶりになる。
 眼下に海が見渡せる丘陵に建つ夫の家は、すべての音を拭き取ったような静謐に包まれていた。玄関のチャイムを押す。直後に携帯が鳴る。事務所からで、船頭である夫だけは、空路、帰国するとのことだった。明日にはこの町に入ると言う。
 家の中に入り、沈痛な面持ちの夫の両親に、そのことを伝えた。両親は何も言わなかったが、一言、「こんなときこそ支えるのが妻の役目」と、最近の不仲を知っているだけに、暗に責任の一端を指摘されたようで、可南子には返す言葉もなかった。
 最終の船で島に戻った。何度も佐和子からメールが入っていたが、どうしても返信する気にはなれず、そのまま帰宅した。
 どうしてこんなにも責められるのだろう。その日一日のことを振り返り、そう思わずにはいられない。とくに事故に遭遇した船長の家族の眼は堪えた。
 もし、佐和子なら、どうするのだろう。ふとそう思う。こうして希みもしない激流に流されて、硬い岩にあちこち疵つけられ、それでも抗う術もない。佐和子は他人に流されるのを嫌い、思うままの流れに身を置く、と言っていた。そうは強くなれなかった。堪え、頭を下げ続けていれば、後々の評価に繋がる。どこかでそんな計算をしている自分がいる。再び、いつか言っていた佐和子の一言が蘇る。他人の眼など気にしないことよ。そうすれば、楽になるわよ。
 言われたのは遠い過去のことではない。しかし、佐和子も同様、夫と離婚するまでは、他人の眼ばかり気にしていた。離婚して、都会から帰った彼と知り合ってから、佐和子は変わった。そのせいか、厖大な財産を棄てて離婚し、婿である夫が家に残る、という捻れた結果に対し、周囲からの陰口はいまだに後を絶たない。
 佐和子は純平という彼が出来たことも隠さなかった。それにより、男に夢中になり、夫と家を棄てた、と口さがない人々の餌食になり続けている。佐和子はそれでも自分を貫こうとしていた。
(私はどうだろう)
 夫以外の男と付き合い、当然、それをひた隠しにしている。知っているのは佐和子一人だけだった。上手く立ち回り、佐和子のようには顔に出さず、パートの仕事場でも受けがよく、副店長にまで抜擢された。佐和子の店に遊んでも、居合わせた島の同年代の男たちの席に何度も呼ばれ、如才なく接し、人気を博していた。そうすることが、島で生涯を過ごす者の術なのだ。
 中学、高校と、アイドルのような人気者だった。結婚も、婿を迎えたとはいえ、熱烈にプロポーズを何度もされての、女冥利に尽きるものだった。夫は順調に出世し、豪勢な家も建てた。ここ数年の夫との不仲だけが誤算だったが、それ以外は敷いてもらったレールの上を快適に進んで来た。
 そう。係わる周囲にはいつも微笑を絶やさず、危害を及ぼすような相手は巧みに避けて、いまを築いた。それが間違っていたと言うのだろうか。
 夫があずかる船の事故はまったくの想定外だった。この先、どうすればいいのか。
 再び佐和子からメールがあった。ジタバタせず、明日からパートに行きなさい、とある。何を言うのだろう。可能なら、そうしたい。だが、出勤すれば、事情を知るすべての眼が集中する。堪えられるはずがなかった。
「おかあさん」
 いつの間に来たのか、祐介が近づく。
「どうしたの? 夕飯なら、すぐ支度するから」
「お父さんの船、事故があったんだろう。僕が何したわけでもないのに、道で会った人が変な眼で見てくる」
 可南子は祐介を凝視した。鏡を見ているようだった。背筋が震える。祐介の顔に自分の顔が重なった。
 
 夫が戻ったのは、翌日の夕方だった。帰宅はせず、船主や関係者との事後対策に余念がない。島に渡るまでには二、三日かかりそうだった。
 なにしろ一年以上も洋上で過ごす。帰港しても一ヶ月程度休めばすぐに出港する。留守の長いサイクルの中で、意志の疎通が失われ、言葉を交わす機会が減っても、然程気にならなかった。家に戻っても、パチンコに明け暮れるか、磯釣りをしているかで、夫婦としての触れ合いもないに等しい。可南子としても働き蜂と割り切るしかなく、情が薄れていくのはある意味仕方のないことではあった。ただ、今度は違った。
 船に乗れば、自分の都合以外では連絡して来なかった夫の、「いま帰った。家には二、三日、帰れない」の一言に、それまで乱れていた情緒が、ほんの少しではあるけれど、穏やかになる兆しを感じたことが不思議だった。
矢継ぎ早に現状を確かめようとする可南子に、夫は、心配するな、と言い、普段どおりに過ごせ、としか言わなかった。
 何故そのように落ち着いていられるのだろう。この数日の心配と、係わる人々の好奇な眼に取り乱した自分を振り返ると、夫の落ち着きぶりが理不尽に思えて怒りを覚えるほどだった。つい、私は仕事にも行かず、ずっと苦しんでいたのに、と受話器の中に不満を漏らす。
「パートは明日から行け。俺は犯罪を犯した訳じゃない」
 そう言うと、夫は一方的に電話を切っていた。そうは言われても、職場には行き辛かった。無様な姿を見せたくはない。
 家事を終え、気分転換をしようと、久しぶりに佐和子の店に行く。夕方の五時前で、店に入ると、夜の仕込をしていた佐和子が厨房から飛び出して来て、一言もなく見つめ、泪を溢れさせて泣き出した。身に何かあったのか、と思うほど、せっかくの化粧を台無しにして泣きじゃくる。その顔に触発されていた。事故を知ってから今日までのことのすべてを思い出し、可南子も大声で泣いていた。数分経ち、まだしゃくりあげながらコーヒーを淹れる佐和子に、泪の理由を訊く。瞬間、佐和子が訝しそうに凝視してくる。
「あなたが心配だったからじゃないの。ずっと心配してたから、顔を見たら、たまらなくなったんでしょう」
 可南子は他人事のようなことを口にした自分に赤面した。話を逸らそうと、
「うちの旦那、普段どおりパートにも行けなんて、あの人こそ他人事みたいなのよ」と親友に甘えて愚痴る。すると佐和子の顔が厳しくなる。
「可南子、あなた、いつも言ってたわね。パートでも給料もらってる以上、一日でもおろそかに出来ないって。それに、仕事場では男以上の仕事をすることが、あなたのプライドだったんじゃないの。誰にも後ろ指さされたくないって言ってたでしょう」
「それはそうだけど、いまは事情が事情だから」
「男の人は、そんなことぐらいでは仕事休まないわよ。げんにあなたの旦那は一番苦しみ、一番逃げ出したい立場にいるはずなのに、家にも帰らず、責任を全うしようと頑張っているじゃないの」
 ぐうの音も出なかった。気恥ずかしさだけが湧き起こる。職場でもどこでも、完璧を演じていた自分が蘇る。
「さあ、行くわよ。付き合うから」
「どこへ?」
 佐和子は聴く耳を持たないように立ち上がると、可南子の腕を引いて店を出る。車の助手席に乗ると、運転する佐和子は前方を見据えたままだった。車を停めたのは、可南子のパート先の駐車場だった。店の灯りは消えていたが、奥の事務所にはまだ灯があった。意図がわかり、怯んだ。内心の苦悩など見せたことなく、いつも華やかな顔を演じていた裏の顔を晒したくなかった。事務所の前で体を強張らせる可南子に、佐和子は、「不幸中の幸いだったんじゃないのかしら、今度のこと。自分の気持ちの中の旦那さんを思う気持ちの大きさに気づいただけでも」と言い、微笑を投げかけると、勢いよく事務所のドアを開けた。社長が伝票整理をしていた。
「明日からまた働きたいそうなんです。ご迷惑でしょうが、面倒みていただけますか」
 佐和子の伝法な口調に、可南子は俯いたままだった。
「明日からも何も、副店長がいないとこっちは大変なんだ。忙しいんだから、長く休まれちゃ困るよ」
 すっと肩の荷が降りたような気がした。昨夜見た一人息子祐介の怯えたような顔を思い出す。後退りさえしなければ、物事はこんなにも簡単なのに、と思わずにはいられない。
 
 夫が家に帰ったのは、それから三日後だった。可南子に対しては、珍しく、「済まなかったな、心配かけて」と殊勝な態度だった。食事を終え、自室に行く。夫とは別室で寝ていた。果たして今後どうなるのか。そんな不安の中、旦那に対する気持ちの大きさに気づいたことが収穫、と言う佐和子の言葉を思い出す。ふと、夫の部屋を覗いた。眼を瞠る。夫はドアを開けられたことにも気づかず、趣味のゲームに熱中していた。瞬間、心配していた自分に腹立たしさを覚えた。自室に入り、ぼんやりしていると、廊下に足音が響き、障子を開けて夫が入ってくる。
「心配損したわね。まさか、こんなときにゲームだなんて」
 夫は小さく苦笑を返しただけだった。
「船長の家に行ったらしいな」
 無言のままに夫の顔を見つめる。
「気の毒なことをした」
「それで、どうするの、今後……」
「決まってるじゃないか。俺には鮪を追うしかないんだよ。こんなことでリタイアしたら、死んだ船長に申し訳ない」
 こんなに強い人だったろうか。何十年も夫婦としていながら、物足りなさしか感じなかった。たったいまゲームに夢中だった夫のようではない。
「また、船頭として行けるのね」
「当然だ。俺ほど鮪をとる船頭はいない」
「そんな自信家のあなた、はじめて見るわね」夫は再び苦笑する。
「話は変わるが、祐介、少し大人になったじゃないか」
「そうかしら」祐介の怯えた顔が蘇る。
「あいつから話があると言ってきた。一緒に海へ連れて行ってくれ、と言われた」
 唖然とした。あの祐介が、まさか……。
「船が合うかも知れん。何があっても、港を出れば逃れられん。油断すれば命を失うほど過酷だからな。一航海で逞しくなる」
 可南子は取り残されたような気分に陥り、夫の顔を見つめているだけだった。
「勤まるのかしら」
「祐介が手を放れた後のおまえのほうが心配だな」
 夫の指摘に途方に暮れる自分が情けない。
「手のかかる二人がいなくなるんだもの、清々するわ」
 夫は煙草を銜え、そっぽを向いた。(了)