小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

疵(7枚ぐらい)。

  朝。出社してすぐ、祥子は富永雄一郎の額に貼られている絆創膏に気づき、一瞬、その場に佇んだ。
それは富永の左の眼と眉の間に、少し盛り上がった形で貼られていて、富永はその理由を突っ込む同僚たちの冷やかしを、苦笑しながら受け流していた。
 祥子はそんな富永の胸中を想像した。
(あんなところに疵なんて、いつどこで……)
 昨日、祥子が退社するまではなかったものだ。改めて見直すと、あきらかに医師の手で治療されたもののようだった。そうならば、かなりの疵であることは間違いないが、祥子はそれを自ら問い質すことが出来ない、今の自分という立場を再認識し、そのことが尚、富永の疵を慮る祥子の気持ちを増幅させた。
 様々なことに思いをめぐらす。自然に速くなる動悸が、皮膚の内側から鋭く祥子を刺激してくる。いつもそうだった。祥子は富永の日ごろの一挙手一投足に過敏過ぎるほどに左右されてきた。また、そうなる自分に至福を感じてもいた。
 かつては自分の思うがままに、富永と接することが出来たのだ。富永も同様だった、しかし、三年前のある夏の一日の一瞬に、祥子と富永との短い、焼け爛れるような熱い時間は消滅した。
 そのはずだった。だが、祥子の体内のどこかには、依然として富永との時間が熾火のよう燻り続けていた。そう。祥子は今でも、富永との当時の残像の中に浸り、日々を過ごし続けていた。
 祥子は富永の顔に貼られている絆創膏の痛々しさを眼にし、動揺する自分を愛しい、と感じた。可能なら、富永の周囲に群がる女たちのように、すくっと富永の前に立ち、その疵、どうしたの? と訊きたい。
 そう思いながら、祥子はその日の仕事である。伝票のチェックをし始めていた。それでも祥子の眼は、斜向かいのデスクに坐る富永の動向を窺い続けている。一言も言葉を交わせない苛立ちの中で、祥子は内心、その焦燥感に藻掻き苦しんでいた。

 休憩時間中、不意に祥子を襲うものがあった。それは富永の疵の痛みを共有したい、という強い願望だった。三十五歳にもなって子供じみたことを、と思わないでもなかったが、しかし、その思いは一気に肥大し、祥子を脅かした。
 交代での昼食後。休憩の一時間。普段なら仮眠ぐらいは出来るのに、その日の祥子は眼が冴え冴えとして、微睡み一つしなかった。気持ちが異様に昂ぶっていた。ハンドバッグの中を探る。ついさっき、祥子は休憩の入る間際、オフィスの薬箱の中から、何とはなしに絆創膏を持って来ていた。無意識に近かった。唯、意識の中に、富永の皮膚に貼りついているのと同じものを手にしたい、という思いが微かにあった。祥子は依然として昂ぶった気持ちでいながら、顔には物憂い表情を浮かべていた。数日前の富永の顔を思い浮かべたからだった。光景が鮮明に蘇る。
 その日、祥子の働くホテルの大ホールで、ディナーショーが催され、その責任者が富永だった。その場に携わるスタッフも富永が決めた。当然、その中に選ばれるものと自負していたが、富永は期待を裏切り、祥子が日ごろ、仕事に於いてはまったく認めていない女子社員だけで、スタッフ構成をした。祥子の衝撃は大きかった。それが言動に出て、周囲をたじろがせるほどだった。
 そのときの光景を呼び戻し、祥子は富永の疵を覆う絆創膏を見て、昂揚しながら、物憂い気分にも浸っていたのだった。
 休憩時間もそろそろ終わる。祥子はゆっくりと立ち上がり、御手洗に向かう。中に入り、鏡を見る。顔が少しむくんでいるように思えた。手を洗おうとして、蛇口辺りに視線を移す。そのとき、誰が使ったのかも知れない、Т字型の剃刀が棚に置かれているのに気づいた。いつもなら、眉を顰めてそれをオフィスに持ち帰り、そのようなだらしないことをした者を探し、糾弾しようとするはずだった。
従業員専用のトイレなので、それ以外は考えられない。だが、そのときの祥子はいつもの祥子ではなかった。剃刀を手にした瞬間、まるで宝物を見つけたように昂奮し、夢の中を彷徨っているような錯覚に陥っていた。
「痛っ!」
 鋭い痛みが祥子を覚醒させた。正気に戻った祥子の眼が、血を捉えていた。手にはまだ剃刀が握られていて、その刃には血がついていた。鏡を見る。額に一センチぐらいの疵があり、血が滴っている。祥子は束の間、鏡に映る額の疵を凝視していた。疵は富永と同じ個所だった。そこから血が盛り上がり、眼尻から頬に流れ落ちている。祥子は自分の胸裏を改めて知る思いだった。富永の疵の痛みを共有したいと念じていた。その強い思いが自分を衝き動かしたのだと。
 額の疵は祥子にとって、満足すべきものだった。バッグからティッシュを取り出し、疵口の血を拭いた。すっと気分が和むのを感じた。憑きものが落ちたような笑顔を、鏡の中に作り出す。
 もう一度疵口を拭き、そこに持って来ていた絆創膏を貼る。スキップするような足取りで廊下に出た。祥子は少し照れたような表情で、オフィスに戻った。
「どうしたのですか、それ?」
 隣の最も親しくしている後輩が、祥子の顔を見る。
「ううん、いま、そこで、ちょっと……」
 祥子はそれ以上を口にしなかった。富永を見る。富永はそんな祥子をちらっと一瞥しただけで、「飯にするか」と周囲に声をかけ、数人で連れだってオフィスを後にした。
 怪訝そうな視線が集まる中で、祥子は痛みに疼く箇所に手を添え、内心、富永も何かを感じたはず、と確信していた。
(きっと、気にしているはずたわ……)
 声に出さずにつぶやいた。目の前にはまだ、チェックしていない伝票が山積みされている。
(私の仕事は、すべての伝票を見直したり、見直させたりすること)
もう一度、無言のままにつぶやいた。
 周囲を窺う。まだ額に貼られた絆創膏を窺い見る、いつくかの視線を感じる。
(もしかしたら、この絆創膏、衣服のように、富永とのペアルックのように見ているのかしら……)
 噂になるかも知れない。祥子はそれを期待する。そうなってほしい。そう思っているとき、食事に出たはずの富永がオフィスに戻って来た。
 祥子はそのときの富永を見て、無意識に顔を引き攣らせていた。その額に、あの絆創膏がなかったからだった。そこには想像以上に大きな疵があり、富永の端正な顔の一部を歪めていた。
「どうしたんですか。絆創膏剥がして、大丈夫なんですか」
 周囲の女子社員が、疵口丸出しの富永に心配そうに訊ねる。
「鬱陶しいからな」
 富永はちらっと祥子を振り返り、吐き捨てるように言う。祥子は富永を見つめたままに、放心していた。
                          (了)
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