小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

 出発点。

 遅かった。書き始めたのが40歳。むろん、最初は作家になりたい、などという大それた、というか、無謀な野心はなかった。

 40歳のその日まで、私には何もなかった。金もないし、何か特別に技術があるわけでもない。むろん、名誉的なことなど一切なく、このまま歳をとり死を迎える時期が訪れても、生まれたことと死だけが戸籍に記録されるだけで、何十年かを生きた証のようなものは何一つないことに気づき、愕然とした。

 何か残したい。そう思った。それが小説を書く動機だった。当時一緒に棲んでいたパートナーは「無理よ。いきなりかけるわけないでしょう」と言った。だが、私は書ける、と信じた。

 思い立ったが吉日。さっそく原稿用紙を1000枚買い、書き始めた。パートナーも冷ややかな眼で見ながらも、毎晩呑み歩かれるよりはいいと思ったようで、以降、何も言わなかった。

 1か月半ぐらい費やしただろうか。555枚を書き上げた。タイトルは「快楽の落とし子」。当時、コインロッカーに棄てられる赤ん坊が多かった。そのニュースに材をとっての書き物だった。いま読み返せば赤面ものではあるが、あのころ、私は曲がりなりにも仕上げたことに有頂天だった。

 その勢いのままに自費で本にした。

 それが最初だった。

 

 以降、物を書く、ということに咬まれた。その年は短中長編を何作も書いた。

純文学もどきからエンタメもどきまで。

 そうなると色気が出てくる。(俺、作家になれるんじゃないのか)

自費でつくった本が新聞などで取り上げられ、300部の本が完売したことが私をその気にさせた。

 その年書いた短編のなかの一本を北日本文学賞に。80枚ぐらいのを、同時あった小説月刊誌小説CLuB新人賞に応募した。ついでに、これもやはり、いまはないが、新風小説という、官能小説専門の月刊誌の新人賞に一本応募した。

 驚いた。北日本文学賞が「選奨」受賞。小説CLuB」では最終選考。そして官能小説大賞ではその大賞を受賞した。

 有頂天にならないほうが可笑しいような結果を得て、私は益々のめり込み、天狗になっていた。小説CLuBはたしか、桃園書房という出版社だった。編集長に呼ばれた。行ってみると、もし一部分を書き直してくれれば掲載すると言われた。私は鼻で嗤った。

「いや、来年受賞しますので、結構です」

 そう、言い放ったのだ。いま思えば、あのとき書き直し、掲載されていれば、私の人生も変わっていたかも知れない。そう思わずにはいられない。そのときの作品が、ここにアップした「夢の番人」。

 官能小説大賞は平和出版というところだった。そこからは短編で数作依頼され、書いた。原稿料をはじめていただいた。嬉しかったが、私の思いは、普通の小説で認められること。傲慢にもそう決めていた。

 ちなみに、この官能小説大賞は3回までで終わりとなった。1回目の受賞者は「北原双治」さん。2回目が私。3回目が「北山悦史」さん。私以外はすでに、官能小説の分野では名を成している方々だ。

 それからも私の一般小説への応募が続いた。だが、結果は出なかった。救いは仕上がり状態はどうあれ、何作でも書ける、ということだった。

 

 書き始めてからすでに25年。野球で言えばすみ一のようなもので、最初の年こそ結構な数の賞にありつけたが、その後はまったく駄目だった。半ば、あきらめていた。そんなときだった。北日本文学賞。20年ぶりの選奨だった。でも、選奨でしかなかった。てっぺんには官能物以外には縁がない。

 それでも、最初は井上靖さんに、2度目は宮本輝さんに選奨をいただいた。てっぺんではないが、このお二人に読んでもらえたことは、私の気持ちの中では大きな宝となっている。

もう一つ大きな宝がある。

以前、長編を書いて、やはり自費出版した折、厚かましくも五木寛之さんに一冊送った。驚くことに葉書で感想をいただいた。その葉書。いまも私の眼の前に、お宝として飾られてある。

 

 そんなこんなでのこれまでだった。そして、これからもそんなこんなが続く。

官能小説家の「小鳥遊葵」として、一般小説での応募をし続ける「十八鳴浜鷗」として、さらには、三陸の洋上に浮かぶ小さな島にある、お食事処「漁師のせがれ」のオヤジとして、可能なかぎり、前に進もうと思う。

 

 上の写真は書店用。下はコンビニ用。

近々、新作が出る予定です。

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