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小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

主に短中超編の、埃をかぶっている小説を発表しようと思ってのブログです。よろしくお願いします。

白昼夢(82枚)

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「生きてたようだな」

 不意に姿をあらわした龍二の顔を見ての、父の第一声だった。

 八年ぶりの帰郷だった。その八年前が日帰りという慌しさだったので、いまこうして父が愕くのも無理はない。

 八年という時間は、家をも変えていた。老夫婦だけが棲むには贅沢な家に建て替えられている。

 近所の年寄りを集めて宴会でもするのか、スナックなどで見かけるものよりも、数段豪華なカラオケセットが応接室に置かれていた。龍二は苦笑しながらそれらを眼にし、挨拶もなしに、父の前に腰を降ろした。

 応接間ばかりでなく、居間にもソファセットが置いてある。年寄り二人が住むには不似合い過ぎる小瀟洒た家の中で、父はステテコ一枚に、もうすっかり毛のなくなった頭に手拭いで鉢巻をしていた。

 しかし、そのアンバランスな光景こそが、家を実感させるものではあった。

「おふくろはいないのか」

 自分のことを何一つ話さず、ずっと家で過ごしていたような龍二を見て、父は苦笑するばかりだった。

「婆さんは港まで行った。もう戻るころだ」

 父は立ち上がり、台所に歩くと、冷蔵庫からビールと肴を持って来て、一杯呑むか、と言った。うなずき、お互いにグラスに注ぎ合い、一息に呑んだ。渇ききっていた喉に染み込んだ。煙草を銜えると、

「それで、今度はいつまで家に居られるんだ?」

 父は龍二の顔と壁にぶら下げてある暦に視線を走らせた。

「明後日には帰る」

「明後日……。おまえらしい。八年ぶりで帰ったと思えば、明後日には帰るってか。普通なら一週間や十日は泊まるものだ」

 不服そうだった。一瞬、眼が寂しそうだった。

 

 高校を卒業すると同時に上京した。

 それから四十歳の今日まで、指で数えられるほどしか、島に帰っていない。

 その途方もなく長い時間は、良し悪しはべつにして、親子の関係も、会えば眼や全体の仕種だけで理解し合える、親しい友人のようなものにつくり変えたようだった。

 父の酒量は落ちたようだ。さすがに寄る年波には勝てないらしく、父は空いたグラスを差し出し、注いでくれ、と言いながら、眼を瞑り、舟を漕ぎ始めた。と思う間もなく、ソファに崩れるように横になり、眠り込む。

 開け放たれた窓から、涼しい風が入り込んでいた。

 外はまさに盛夏で、木々の陰さえも溶かすような勢いの陽が照りつけている。聴こえてくる夥しい数の蝉の声が夏を叫んでいた。

 父の寝顔に眼をやり、庭に出た。そのとき、母が帰って来た。母も龍二の顔を見て唖然としていた。

 近づいていく。眩しそうな視線を感じた。

「だいぶ変わったな」

 母の顔ばかりでなく、家の周辺の景色も変わっていた。木々がのびて、記憶には雑木林でしかなかった裏山が、成熟し、鬱蒼とした山に様変わりしていた。

「変わったと言えば――」

 何かを思い出したような母の顔を見た。

「さっき、港で室生先生に会った」

「ほう……」

 不意に耳にした名前に惹きつけられた。中学のときの担任だった。

室生冴子。むろん母からその名前を聴いたことは偶然に過ぎないけれど、龍二は家に来るまでの車中、何度となく室生冴子の顔を思い出していたのだった。

 当時、大学を出たばかりの、教壇に立つのははじめてという先生だった。龍二とは八つ違いのはずだから、いまは四十七、八歳になっている。

「あの先生、変わらないね。少し立ち話したんだけど、教え子の同窓会に招待されて、わざわざ島に来たんだね。ということは、おまえがこうして帰っていることも、もう島の隅々まで知れ渡っているだろうから、同級生から連絡があるかも知れないね」

 同窓会など、何度も行われているはずだが、離島して二十年余り、一度として出席したことはなかった。しかし、室生冴子が出るとなればべつだった。

 龍二はまだ自分は招かれてもいないのに、どうしても出席したいと思った。先生に会いたかった。

 冴子先生は龍二の初恋の人だった。

 そればかりではない。冴子は龍二が体験した、はじめての女でもあった。脳裏には、まだ中学三年の、夏のある一日に勃ったことが、生々しい記憶として残っている。

「綺麗な先生で、生徒だけじゃなく、父兄にもうんと人気があって、父ちゃんも、めんこい、綺麗だって、いい歳して舞い上がっていたっけね、あの当時は」

 焦点の定まらない眼を水平線あたりに向け、追憶に浸っていた龍二を、母の声が覚醒させた。

「先生、変わってないって?」

「うん。相変わらず、綺麗で。でも、気のせいか、何か眼に力が感じられなかったね。もっとも先生だって、もういい歳だから、仕方ないけど」

 母の眼は鋭い。昔から顔を見てはその人の心中をよく当てていた。龍二が言葉を噤むと、

「きっと気のせいだね。先生以上にこっちのほうが歳とって、もう婆ぁだから」

 龍二の不安そうな顔を気遣っているようだった。

 あのころ、室生冴子に恋焦がれていたことを、誰よりも知っていたのは母だった。

「それはそうと――」

 母は買って来たものを庭に置き、

「おまえ、佳子さんと何かあったんじゃないだろうね」

「そう見えるのか」

「いや、連絡もなしに急に帰って来るし、それなのにあの気が回る佳子さんから何にも連絡がない。それだけでも何かあったと思うのが自然だから」

 龍二は苦笑して、

「変に勘ぐるな。俺の気まぐれはいまはじまったことじゃないだろう」

「それはそうだけど」

 母は小首を傾げ、

「そうかい。それならいいんだけど」

 そう言い、強引に表情の奥に不安を押し込んだようだった。龍二は再び苦笑した。内心の動揺を隠すように。

「散歩でもしてくるよ」

 いくつになっても母親は怖い存在だった。父よりも母の眼のほうが鋭い。

 子供が大人になれば、父と子は友だちのようになるが、母にかかってはいつまで経っても子供としか見てくれない。龍二は母の視線から逃れるように、歩きはじめた。

 陽が蔭りはじめていた。暑苦しい油蝉の声がヒグラシに変わった。

海からの風にも力が加わっていた。龍二はあてもなくぶらぶら歩いた。

 母の言葉が蘇る。西陽のまぶしさに眼を閉じた。佳子の顔が浮かんでくる。ヒグラシの哭き声のように、どこか物哀しい顔だった。寂寥が走り、その画像を振り切って眼を開けた。

 見馴れない子供たちが遊んでいる。全員顔が真っ黒だった。近所の家の前を通る。窓が開き、懐かしい顔が声をかけてくる。

 しかし、その眼には龍二に対し、異邦人を見るような彩りがあった。

 もう、俺は島の人間とは見なされていないのだ。そう思わずにはいられなかった。

 来た路を戻りはじめる。自分はすでに、この島の者ではない。島への一人の客でしかない。

 そう思ったとき、頭に浮かんだのは、室生冴子の顔だった。あのころの、はち切れそうに若かった先生の顔。

 その冴子もまた、一人の客として、島を訪れている。龍二は無性に、冴子に逢いたいと思った。

 

 三陸のS市から、連絡船で二時間余りの洋上に浮かぶ島だった。

 春には島全体を覆う桜、秋には松茸と、島を訪れる客が途絶える季節はなかったが、夏の海に押し寄せる人の波は、他の季節を圧倒していた。

 S市への唯一の足は船だった。母の言う通り、龍二も客の中に紛れて下船した。それでも島の何人かの眼に触れたらしく、久しぶりに親子三人で夕飯を摂った直後に電話があった。

 中学のときの悪友だった。予想通り、それは三年ぶりに行われるという、同窓会への誘いの電話だった。

 男たちの殆んどが船に乗り、一年以上も島を留守にしている。それがこの夏、偶然にも数隻、船の入港が相次ぎ、滅多にない機会とばかりに、同窓会をすることにしたのだ、と悪友小野寺は言った。

 さらには、鉄砲玉のように上京したきり、まったく島を振り返らなかったおまえまで島に帰っているのだから、今回はきっと盛り上がる。そうも言う。小野寺の声は弾んでいた。一足飛びに昔に戻っているようだった。

 龍二は同窓会に行くことにした。

 明後日ということで、その日はちょうど帰京予定日になっていたが、一日ぐらいのズレなら何とかなる。それよりも、室生冴子と再会出来る、という期待で、龍二は思春期の少年のように昂ぶる自分に戸惑っていた。

 その心中を見透かしたわけでもないだろうが、電話を切る間際、

「今回は冴子先生と高橋先生を招待した。二人とも喜んで出席するとのことで、冴子先生はもう、島に入っている。しかし――」

 珍しく、小野寺が言いよどむ。

「どうかしたのか」

冴子先生、どうも体調がイマイチらしい。まだ俺は会ってないが、昨日綾子が偶然会ったらしく、そんなこと言ってた」

 母の一言を思い出す。母は冴子先生の眼に力がないように感じたと言っていた。

 島に来てから体調を崩したのなら、さほど心配はしないが、体調の悪さを押しての来島なら、多少気にかかる。

 ひょっとしたら、かなり悪い病気を抱えているのではないか。龍二の胸を過った不安感は、小さくはなかった。

 小野寺とは、それから数分話をして、電話を切った。

 どうあれ、明後日になれば、事実がわかる。窓越しの沖に漁火が浮かんでいた。三つ。夜が更けるにつれて、その数は増えていくのだろう。

 潮を含んだ微風が肌を撫でる。それなのに湿度は感じなかった。微かに犬の遠吠えが聴こえた。

 

 正直なところ、都会での日常に疲弊して帰島した龍二だったが、その夜はぐっすり眠れた。

 翌日、眼醒めたのは正午を過ぎていた。静かに自分なりの朝を迎えることが出来た。

 朝食とも昼食ともつかない食事を終えると、家の電話が鳴った。島の友人たちは携帯電話の番号を知らない。父も母も出かけているようだった。受話器をとると、昨夜とは違う友人からだった。やはり、帰って来ていることを知り、連絡してきたのだ。

 電話を切り、縁側に歩いた。籐椅子が庭に置かれている。縁側から庭に降り、松の枝で陽を遮る場所にある籐椅子に身体をあずけた。充分に寝たにも係わらず、体はまだ、満足していないようで気だるい。

 再び電話のコール音がした。畑から戻ったらしく、母の声が聴こえた。

 すっと眠りに引き込まれていく。耳の奥で電話のコール音が反響していた。夢の中のようだった。眠ったままに電話のある居間に引き寄せられる自分を感じた。

 夢を見ている。煙草を銜えている自分の姿がある。受話器を耳に当てようとしていた。そのとき、受話器の中から吹いてくる、風を感じた。それは冷気だけを含んだ、真冬の風に似ていた。

 

 これは夢なのだ。そう窘める、もう一人の自分がどこかにいた。わかってる。龍二はそいつにそう応え、しかし、夢に足をとられて動けなかった。

 龍二は電話の相手の声を聴き、危うく銜えていた煙草を落とすところだった。慌てて子機を持ち、灰皿のあるテーブルまで近づくと、煙草を揉み消し、その声の相手を確認するように、

「先生、ですか」

 と窺うように言っていた。

「そうよ。何年ぶりかしら」

 どうにか落ち着きを取り戻した。

「二十年以上になりますね。お元気ですか」

 冴子の声に紛れもなかった。

 冴子の「あなた」と言った一言が、龍二から再び落ち着きを奪っていた。その後、何を話したのか、さっぱり記憶になかった。

 突然の冴子の声は、龍二から平静さを奪うには充分すぎた。しばらく落ち着きを欠いたままにいた。

「ねぇ、これから逢えるかしら」

 その一言にホッとした。昔の冴子そのものだった。

「これからですか。……もちろん、構いませんが、しかし――」

「明日の夜、あなたたちの同窓会で逢えるのはわかってるの。でも、その前に逢って、一度じっくり顔を見ておきたいの」

「先生……」

「変、かしら。そうよ。あたし、変なの。今度だって、何故か東京にいるあなたに絶対に逢えると思い、思い切って来たのだから」

 一方的にそう言い、冴子はクックッと笑った。声を聴くかぎり、冴子には友人が言った体調の悪さや、母の感じた元気のなさのようなものは感じられなかった。

 声はあのころよりも艶を含み、むしろ、官能を刺激した。

 この誘いは龍二を歓ばせた。

 逢いたい、と言う。当時、すべての学生に熱愛された先生が、同窓会に先駆けて、二人きりで逢うことを希んでいる。その甘美な誘惑を断る理由など、龍二には何一つなかった。

「どこがいいですか。これから船に乗って町にでも行きますか」

「島の中がいいわ」

「言ってください。どこへでも行きますから」

「鳴り砂の浜に行きたいの。不思議ね。あたしったら、あの浜でのことだけは鮮明に覚えているの」

 束の間、沈黙した。その浜は龍二にとっても忘れられない思い出がある。冴子もそうなのだ。沈黙がそれを物語っている。

 浜に行くまでは、教師と生徒という関係に過ぎなかった。それが鳴り砂の浜に足を踏み入れ、砂浜の隅にある番屋のような建物の中で、生徒と教師が深い関係を結ぶに到った。

 龍二は冴子により、そのとき、はじめて女体を知った。

 教師という立場から、その行為が疵となり、いまでもそれが澱のように冴子の胸の底に沈殿しているのではないか、と心配していた。だが、意外にも冴子は、その浜に行きたい、と言う。

「でも、先生……」

「ううん、あたしがあの浜に行きたいのよ。連れてって」

「わかりました」

「嬉しい。あなた、あの浜でのことを覚えていてくれたのね」

「もちろんです」

「でもねぇ、あたし、あのころと違い、もうすっかりおばあさんなのよ。それでもいい?」

 深い意味を含んでいた。二人きりで逢いたい、と言う冴子に、当時の龍二は有頂天になり、欲望した。けれど、それが可能になるとは夢にも思っていなかった。終わってもずっと。

 それがいま、冴子の言葉の中に、はっきりと自分の意思でそうなった、と思わせる何かを感じたのは、男の狡賢いいやらしさだろうか。

 龍二は冴子の言葉のすべてを頭の中で繰り返しながら、思いもよらず、あのときのような昂ぶりを感じ、うろたえた。

 雲ひとつない空が、水平線に溶け込んでいた。やはり、蝉がロックを奏でていた。

 ――あの日も暑かった。電話を終え、龍二は短パンに穿き替えながら、過去の夏の一日のことを記憶の中から呼び戻していた。

 待ち合わせの場所に向かい、歩きながら、さらにその光景が鮮明になる。いまのように、心身のどこを探しても少しの疲弊もない、すべてが健康なときだった。

 

 あの夏の日、龍二と冴子は、島の北端にある鳴り砂の浜の番屋風の小屋の中にいた。

 観光客はむろんのこと、島民でさえ滅多に足を踏み入れることのない、島の聖域のような浜だった。

 浜を囲うように両側に小さな岬がのびている。その岬を覆う無数の松の木が、海上からの視界を遮断し、密会の場所としては理想的なところだった。

 浜は白砂が耀いていた。歩くと、キュッ、キュッと砂が鳴く。

 遠い昔には流人島でもあった島であり、その末裔でもある人々は鳴り砂を、流されて渡った人々の寂寥や悔恨が凝縮されて砂が鳴き、あるいは哭くようになったと信じて、聖域として大事にし続けてきた。

 一年に一度だけ、九月の彼岸日に、島の主だった人々がその浜に集まり、昔ながらの行事をする。それがその浜を訪れる人々のすべてと言っても、過言ではなかった。

 だからこそ、浜の隅にある小屋も、漁師が持つ番屋とは異なっている。それは神仏を奉る斎場、と言ったほうが正しいだろう。

 中には燭台があり、榊が生え、およそ神仏に係わるもののすべてが揃っている。

 夏の陽が白砂に照り、眼を焼いた。抜けるような青空があり、小鳥たちの姦しい啼き声が、浜の背に繁る木々に反響していた。

 龍二と冴子は、陸路からその浜に来た。獣路のようなもので、難所続きだった。途中の沢のあちこちには蝮が棲息していると、人々は言っていた。

 中学三年の子供ではあっても、女である冴子に、そうした危険なところを歩かせるという無謀は知っていた。しかし、それよりも、浜へ舟で行き、途中、誰かの眼に触れることのほうがはるかに怖かった。

 冴子は担任の教師なのだ。

 夏休みなのに、冴子は家族が待つ家に帰ろうとはしなかった。そのことに嬉々とした。生徒の誰もが、学校を離れて、冴子とともに過ごしたいと願っていた。それは男女を問わない。

 だが、龍二を含めた六人の教え子だけを、冴子は指名した。男女、それぞれに三人ずつだった。

 全員が龍二の親友で、それが単純に嬉しかった。

 真っ黒に陽焼けした生徒の真ん中で、冴子の白い肌が際立っていた。姿に軽いショックのようなものを受けて、歩きながら、龍二は冴子の全身を人知れず凝視した。

 妄想が一気に冴子を裸にし、その視線が左右に揺れる尻に移っていく。頭の中に冴子の裸の尻を思い描いた瞬間、龍二は一人、赤面するほどに昂ぶった。

 夏真っ盛りで、薄い短パンとTシャツだったので、昂ぶりを気づかれては、とうろたえた。幸いにも、スターを囲む熱狂的なファンのように、全員が冴子の話す口元や、顔の表情などに見とれながら歩いていたので救われた。

 愉しい一日だった。その日は冴子を真ん中にして、気の合う仲間たちと島の名勝地を散策した。島の中だけで過ごしたそれまでの時間を振り返るまでもなく、冴子のすべてが、龍二にとっては未知であり、新鮮過ぎた。

 東北地方で仙台は噂に聴くだけの大都会だったが、冴子はその大都会近郊に生まれ育ちながらも飽き足らず、東京という、想像も出来ないような、巨大な街の大学を卒業したのだという。龍二にとっても憧れの街だった。

 冴子はその大都会の匂いを纏い、島に来た。それだけでも、尊敬や恋慕の対象として充分だった。

 その冴子が龍二を再び誘ったのだ。仲間六人とともに島巡りをした、二、三日後のことだった。

 朝早くに電話があり、あの鳴り砂の浜に行きたい、と冴子は言った。鳴り砂の浜と聴き、落胆した。あの浜は足を踏み入れてはならない聖域。

 近づこうとさえ思ったことのないところだった。こともあろうに、その浜に行きたいと言う。

 逡巡した。けれど、龍二はそれを受け入れていた。

 冴子も鳴り砂の浜の歴史は人づてに聴いて知っていたようだった。だから、龍二くんにお願いしたいのよ。そう、声を潜めた。

 行ったことはないが、家から近いだけに、浜周辺の地理には精通していた。

 海から舟で行くなら簡単ではあるけれど、陸路となるとそうはいかない。その浜近辺の山で、秋には松茸が獲れるので、浜への路は熟知していた。ただ、路とは名ばかりだった。獣路でしかない。

 決行した。人の眼を避けて、出発した。

 蔦や名前も知らない雑木が密生していて、視界が利かなかった。蝮の棲家だという沢地には小川が流れていた。蝮はたしかにいた。龍二は持って来ていた竹の棒で、二匹を叩き殺した。そのたびに冴子の絶叫に近い悲鳴が耳を刺激した。

 蝮など怖いとは思わなかった。それよりも、絶叫するごとに、腰や胸に抱きついて来る冴子の熱が怖かった。

 触れることで震える全身と、硬度を増す股間の勢いのほうがもっと怖かった。冴子の手がそこに触れた。偶然だろう。緊張した。

 龍二は冴子の手を握りながら、勘だけを頼りに前に進んだ。

 相変わらず、冴子は笑ったり悲鳴をあげたりと、まるで遠足気分のようだった。湿り気をおびた土を踏む。不意に冴子が叫ぶ。足を滑らせて龍二に縋りついた。慌てて支えた。

 そのときだった。冴子の手が下方に移動した。股間に触れた。今度は偶然とは思えなかった。アッと思った。冴子の指に力が加わり、それが意思を持って蠢いたのだ。

 全身が棒になり、龍二は佇んだままだった。

 狼狽した。勃起は秘密だった。それを知られ、赤面した。冴子はごく自然にそこから手を放すと、龍二の手を求めて立ち上がった。頭を掻く龍二の顔を見上げて、一瞬ではあったが、冴子も顔を赤らめたようだった。

 落ち着かない龍二に、莫迦ねぇ。冴子は一言、囁くように声を潜めた。

 

 鳴り砂の浜は夏の陽を浴びながらも、ひっそりと息づいていた。小さな二つの岬に囲まれた海は、微かな漣を散らしていた。

 龍二はこの島で生まれ育っていながら、はじめて鳴り砂の浜周辺の景色を眼にした。砂が塩のように純白だった。他は島のどこを探しても、この浜のような真っ白な砂のところはない。その白さが不気味だった。

 神仏の集まる浜。神仏が棲む浜。両親や島の人々から聴いたことで、若い龍二には馬鹿馬鹿しく、とても信じられることではなかった。が、はじめて浜に来て、その砂の白さと、遠浅のエメラルドグリーンの海を眼にすることで、たしかに他の浜とは違う何かを感じないわけにはいかなかった。

 二百メートルほどの浜全体が、真っ白な砂で覆われているのだ。海はどこまでも、透き通ったグリーンだった。

 浜を等分するように、五十センチ幅ぐらいの小川が海に向かって流れている。おそらく、蝮の棲む沢から続いているせせらぎだろう。

 冴子は呆然として、佇んでいるだけだった。龍二はその後ろに立ち、冴子の姿に見とれていた。

 ジーンズに男物のワイシャツを着て、その裾を腰で絞って結んだ後姿は、吸い込まれるような青い空と、純白な砂との空間に見事に嵌っていた。

 しかし、一見清純にしか見えない冴子の後姿が、龍二の五感に凄まじいまでの妖気を伝えるのは何故だろう。

 眩暈にも似た感覚に捉われながら、龍二は辛うじて、冴子を抱き締めたい、という欲望を堪えていた。だが、昂ぶりは思いに反して、さらに充実していた。

 それは冴子に対するというよりは、むしろ、未知の女体に対する、男としての純粋な欲望だったのかも知れない。

 冴子を見つめた。小柄だが均整のとれた肢体。いつも見ては自慰に耽る、グラビアのヌード写真が色褪せる。

 冴子は浜の風景に溶け込んでいた。ため息が聴こえた。龍二は敢えて離れ、渚を歩いた。冴子の吐く息の温もりが届く距離にいるのが辛かった。

 眼の端に冴子を捉えていた。見ている。その胸はまだ、ため息を繰り返しているように波打っていた。

 冴子はいつも明るく、活発な男のような気性の教師だった。が、そのときの冴子は、まだ女体を知らない龍二の眼にさえ、淫らな雌のようにしか見えなかった。

 女の匂いが惹き付けて放さなかったし、眼はあきらかに誘っているようだった。

 ふと、疑問を感じた。

 何故、二、三日前に仲間を誘ったばかりなのに、今日、自分一人だけを誘ったのか。

 鳴り砂の浜への案内人としてはたしかに適任だった。

 島の聖地をどうしても見たい、と言った。そうなのだろうか。もし、自分以外の生徒でも、冴子は同様なムードを醸し出すのだろうか。そう思うことは苦痛だった。

 一つだけはっきりしているのは、数日前のように、六人の生徒を従えているならば、今日のように、女の妖しさを醸し出すことはないだろう、ということだった。魅力溢れる教師としての言動に終始するだろう。

 鳴り砂の浜が、いや、鳴り砂の浜へ、という昂ぶりが、冴子を変えたとしか思えなかった。妖艶さは浜に近づくことに増していたのだから。

 白砂の上で、冴子は教師というよりも女だった。両手を腰に当て、微かに顎を上向きにし、眼は大胆にも龍二を蕩かそうとしているようだった。

 砂を盛り上げ、その中央を突き破って、小さな蟹が姿をあらわした。渚まで横歩きし、束の間蹲っているような姿は、龍二そのものだった。

 どうしても近づいて行けなかった。教師と生徒。しかも、中学生。その意識が消えない。

 龍二は欲望を恥じた。けれど、自制するのは難しい。龍二も鳴り砂の浜ははじめてなのだ。景色の美に酔った。圧倒された。酔いにふらつき、浮かされたように、冴子に近づいていく。

 ぎこちない微笑が待っていた。肩に手をかけた。拒もうとはしなかった。小柄な冴子の全身が、龍二の胸にすっぽりと包み込まれる。

 髪は陽の香りがした。衝動が腕を動かし、龍二は冴子を強く抱き締めた。

 冴子は龍二を見上げてきて、獣路で足を滑らせたときのように、一言、莫迦ねぇ、と言った。

 笑おうとした。照れと、おそらくその行為のエスカレートが怖かったのだ。未知の女体に圧倒される。陽が一切を見ていた。その陽を跳ね返す、白砂が眩し過ぎた。

 ここで引き返せば、憧れの先生に少しだけ甘えすぎた生徒として、まだ赦されるかも知れない。しかし、龍二の唇は、二、三度引き攣っただけで、突然、歪むのだった。

 泪が込み上げてきた。怖さ以上に、女への期待感が溢れさせた泪。哀願も含まれていた。龍二は冴子を両腕に抱いたまま、崩れるように足元に蹲った。

 全身が内側から破れるのではないか、とも思えるほどの、激しい動悸に襲われた。

 冴子は再び、莫迦ねぇ、と言った。その手は子供をあやすように、静かに龍二の髪を撫でていた。

「さぁ、立ち上がって」

 手を引く冴子に甘えるように、龍二は立ち上がった。従順だった。まだ泪の乾いていない顔に、白砂が貼り付いていた。冴子はその顔を指差して笑うと、龍二を突き飛ばすように身体をぶつけ、小屋に向かって走り出した。

 誘惑的に揺れ動く尻を見て、龍二は後を追って走りはじめた。所々に狐か狸の足跡があるだけの砂浜に、冴子の踊るような足音だけが、鮮烈だった。

 夢を見ているようだった。瞬間、すーっと首筋を撫でていく風を感じた。夏には不似合いな、冷気、だった。

 

 一見すると小屋のようだが、中は社のようだった。中央に祭壇がある。線香をたてるような器もある。神仏を合体させたような、奇妙な光景だった。

 榊が両側にあり、合間に卒塔婆のようなものが立っている。判読し難い文字が見えた。呪文のようだった。

 真夏の陽が生ませた二人の汗が、いっときに退くような冷気が、小屋の中に沈殿していた。

 怯えのようなものが全身を蝕む。だが、冴子は少しも臆する様子を見せなかった。むしろ、挑むように、魅せられたように瞳を耀かせ、龍二を振り返ると、ためらいもなくジーンズと男物のワイシャツを金繰り棄てた。

 ブラジャーはしていなかった。薄い下着一枚だけの姿になった。冴子はそれさえも実に簡単に脱ぎ棄てた。腰に手を当てると、真正面から龍二を見据えてくる。

 発する熱が、龍二の全身にまとわりついていた冷気を追い払うような、強い視線だった。眼が燃え、五感が冴子の裸の見事さに焼けた。

 顔面が紅潮する。手足が勝手に動いた。龍二は着ているものを一気に脱いでいた。二つの肉体がぶつかった。真新しく噴き出た汗が、肌の触れ合う勢いに弾けて飛んだ。

 一瞬にして喜悦を得た。それは白い闇だった。冴子はいっときの猶予も赦さなかった。顔が狂っているようだった。淫らな視線が無数の甘い糸となり、龍二の全身に絡まり、やわらかく体の芯を貫いた。

 その淫らさの陰に、凶暴な耀きがあった。それらが龍二を圧した。完璧に冴子の主導だった。

 波間に浮かぶ小舟のように、龍二は翻弄されたままだった。冴子は際限なく求めて来た。何かに挑むように。

 唇が龍二の全身を這った。舌が龍二を捉えたとき、終わりを知った。

 冴子は尚も攻め続けた。喉の動きが行為を示していた。

 そこから唇を放し、顔を見上げて微笑んだときの、その唇から覗いた八重歯が、脳裏に鮮烈な印象を刻んだ。

 並んで横たわった。脱ぎ棄てた衣類の上だった。風が出て来たのだろうか、潮騒が大きくなった。

 渚に寄せ返す波は、一定のリズムを刻んでいる。砂の哭く音が聴こえた。風に舞った砂が、小屋の屋根を滑る。蝉の声が遥か遠くに聴こえた。

 そうした光景を思い描いているときだった。

 小屋の中の榊の葉が音をたてて揺れたような気がした。鈴のようにチリンと鳴った。音に誘われてそのほうを見た。何度見直しても、葉のどこにも揺れている形跡はなかった。

 再び冷気を感じた。震えが走る。霊気だろうか。幼いころから、鳴り砂の浜の謂われは擦り込まれていた。伝えた人々の顔が蘇る。父母の顔が哀しみに歪んでいた。

 信仰心は稀薄だった。けれど、龍二はそのとき、島の聖域を汚したと自覚していた。

 遠い過去から、たったいま亡くなった者までの魂が凝縮されたものが、鳴り砂なのだという。だから、砂が泣くのだとも言う。その砂の一粒一粒が自分を襲うような錯覚の中で、龍二は大きな恐怖感に戦いていた。

 冴子を見た。薄く眼を開けたその表情からは、恐怖感など微塵も見い出せなかった。もともと島の人間ではないので、鳴り砂の浜のことも、地方に現存する言い伝えの類という程度の認識しかなくても当然ではある。

 それでも、龍二は島の神仏が眠るという浜で、しかも、それらの魂を祀るというその社の中で、生徒と交わり、まだ愉悦の余韻に浸っているような表情で、杉皮葺きの天井を見ている冴子に愕いていた。

 再び、榊の揺れる音がした。やはり、鈴の音に似ていた。龍二はたまらず、冴子に抱きついた。

 冴子は大きく両腕を拡げて、包み込むように龍二を抱き締めた。冴子の耳の裏側に、砂が付いていた。それを指で振り払うと、龍二は恐怖感から逃れようと、乱暴に冴子の肉体を求めた。

 恐怖感が退いていく。蛇のように蠢く冴子の肉体は、そのときの龍二には、神仏そのものだった。熱中した。渇望した女体であり、憧れの教師だった。

 室生冴子と一つになっている。その事実は何にも優先して、龍二を無にする。二度目は多少の余裕があった。

 終え、三度目ともなれば、意識的に女体を制服したいという、願望が生まれる。だが、そのたくらみは、冴子にそれまでとはあきらかに違う、陶酔を与えたようだった。

 冴子は叫んだ。だらしなく開いた唇からは、教師としての威厳など、微塵もなかった。冴子の顔が生気を含んだ能面のようになったとき、

「あたしは自分の生徒とこうなったのね。あなたは恩師であるあたしとこういう淫らなことをしているのよ。しかも、この浜で……。でもこの浜だから、あたしには意義がある。罰が当たるかも知れない。いいえ、きっと天罰が当たるでしょう。あたしは自分を賭けて、怖ろしいものと戦っているの。必ず罰が当たるわ。でも、それでもいい。そんなことはどうだっていい。いまのあたしにはあなたが必要。いまのあなたが大好き」

 絶叫が続いた。冴子は龍二の背中に喰いこませていた爪を抜き、音をたててその腕を砂の上に投げ出した。

 大の字の両腕。腋毛の剃り跡が、無数の黒い点のように見えた。まだ繋がったままのお互いの股間だけが、まるでわかれを惜しむように蠢いていた。

 葉の揺れる音がした。が、二度も感じた冷気を感じなかった。冴子が両腕を差し出してくる。希むままに、上半身を被せて、胸を合わせた。

「あなた、明日から平気でいられるかしら」

 啄ばむように唇を求めて来た、冴子の口がそう言った。

「わかりません」

 自信はなかった。二学期がはじまり、教壇に立つ教師としての冴子の姿を見て、果たして平静さを保っていられるだろうか。

 こうして、いまそのときのことを想像しただけで、欲望が増し、龍二は腰を鋭く押しつけていた。

「駄目。忘れるのよ。いけないことだわ」

「でも、そのいけない気持ちにさせたのは先生じゃないか。俺たちはもう、いけないことをしてしまったんだし、それにほら、いまだってしている」

 まるで駄々っ子だった。それとも冴子を完全に征服したい、という欲求が、そう言わせたのだろうか。身体を浮かせ、その間から見える股間の状態を示した。

 莫迦ねぇ。冴子は囁くように言った。そして、

「よく聴いて。絶対に気づかれてはいけないの。関係が気づかれる。それはいいの。仕方ないわ。でも、その行為をこの浜でしたってことがあかるみになると、あたしとあなただけが糾弾されるだけじゃないのよ。あなたの家族までがその被害を受ける。あたしにはそれがよくわかるの」

「島を二人で出ればいいじゃないか。俺、頑張るから。何とかやっていけるから」

 最早、龍二には冴子がすべてだった。家族のことまではとても頭が回らない。

 無理なことを言っているとは思えなかった。むしろ、生徒と肉体で結び合いながら、明日から平然としていろ、と言う冴子のほうに、理不尽さを感じた。

 鳴り砂の浜での女教師と生徒との交わり。浜が聖域なら、冴子は聖職者だった。

 二人は二つの聖を冒したのだ。

 露呈すれば、スキャンダルでは片付けられない衝撃となるだろう。鳴り砂の浜での行為。それは島内では生活出来ないことを意味していた。

 しかし、いまとなってはそれも仕方ない。なぜなら、龍二は冴子の肉体を通じて、冴子の全体を信仰したからだった。

 それを否定しようとする冴子に、怒りさえ覚えた。その憤りを伝えるように、龍二は闇雲に身体をぶつけていった。

 目頭が熱かった。泪が溢れ出てくる。その泪が揺れ動く冴子の乳房に落ちて、透明の糸となり、背中のほうへ滑っていく。

 冴子は全身で応えていた。二人はたちまち、一つに溶けて、意識はどこかに浮遊した。

 

 小屋の外に出た。陽はだいぶ西に傾いていた。

 やはり、風が強くなっていた。薄い雲が足早に流れていく。

 手を繋いで海に向かった。二人とも全裸のままだった。熱をもったままの身体に、海の水が心地よかった。下半身が没するあたりまで歩いた。ゆっくりと首まで海に浸かる。

 全身に貼りついていた砂がいっぺんに洗われた。冴子の乳房が海中で揺れ、陰毛が澄み切った水のなかに立ち上がり、海藻のように流れに倒される。

 冴子はその一点を凝視する龍二を見て苦笑し、ちょっとあっち向いてて、と言った。だが、龍二は見続けた。冴子はあきらめたように龍二を睨んだ。

 それでもためらわなかった。風呂の中のように、首まで海水に浸かっていた冴子は、右手を海中に潜らせた。その手が真っ直ぐに股間にのびた。寄せ返す波に足裏が不安定になり、空いた左手が龍二の腕を掴み、冴子は動きを再開した。

 見続けていると、冴子は龍二の腕を掴んでいる手に力をこめ、それが口癖なのか、莫迦ねぇ、と言って微笑んだ。

「砂が少し挿いったみたいだし、それに、赤ちゃんが出来たら拙いでしょう」

 茶目っ気たっぷりに舌を出す。

 もう、龍二の眼を恥じる様子もなかった。堂々と股間の深部にまで指を潜らせていた。それを見て、龍二はまたもやもよおした。

 それが海水を突き抜け、海面に浮いた。冴子の顔が愕いていた。が、すぐに瞳を耀かせ、にじり寄ると、素早い動きでそれを口に含んだ。

 なすがままだった。気を紛らわせようと、砂浜のほうに視線を振った。

 浜の背に鬱蒼と繁る木々の濃い緑色。白い砂。灰色や茶色の交じり合った、あちこちに点在する奇岩の数々。それらが陽炎のように浮かんで見えていた。

 冴子の顔に視線を戻した。眩しいのだろう。眼をきつく閉じていた。睫が震えている。何かを一心に念じているようにも思われた。そう思った直後のことだった。

 龍二の五感がヒヤリとしたものを拾った。それは小屋の中で感じたものと同じだった。あの榊の葉が揺れたようにも感じた。鈴の音が聴こえた。

 

 ――あれから二十年以上も過ぎたのだ。夢は様々な場面を翔び跳ねた。冴子はその後、龍二の凄まじい視線を持て余したように、ある日、突然、島から姿を消した。

 結婚したという噂を聴いた。確かめようもなかった。龍二はしばらくそれを、信じようとはしなかった。しかし、以降、噂も途絶えた。

 その室生冴子からの二十余年ぶりの電話なのだ。

 龍二は待ち合わせ場所である、小舟の置いてある浜への小道を歩きながら、冴子との過去を追憶していた。これはいま見ている夢の中の出来事なのだ。どこかで冷静な自分が囁いている。

 夢でもいい。こうまで鮮烈な夢の体験はなかった。龍二は眼を開けることが出来なかった。再び、映画のように夢が舞い降りる。

 

 鳴り砂の浜へは小舟で行くことにした。昨夜の父との話の中で、鳴り砂の浜のことが話題になった。いまではあの浜も、過去に聖域として祀り、聖地として拘っていた人々の大半が鬼籍に入り、訪れる人も多くなった、ということだった。

 それでも聖域という思いが消えたのではないと言う。ただ、そっとしておけばいい、という島民の思いと、一部の信仰心の強い人々の反発から、大半が係わりを持ちたくない、という思惑で合致し、出入りが多少自由にはなっても、滅多には近づかない、というのが年寄りたちの思いのようだった。

 時の流れは、鳴り砂の浜への島民の意識や価値観も、少しずつ変えているようではあった。唯一不変なのは、島民以外、足を踏み入れることは、いまでも赦されていない。それだけだった。

 待ち合わせの場所は、鳴り砂の浜の隣りにある、小さな砂浜だった。漁師が舟を置く浜で、どこにでもあるような、灰色の砂の浜だった。

 一時半の約束だから、そろそろ来るころだ。腕時計を見た。一時十五分だった。

 鰈を三尾、蔦の輪にぶら下げた漁師が、龍二の顔を見て近づいて来た。近所の漁師で、中学のときの三つ後輩だった。持っている鰈をくれると言った。辞退した。久しぶりで冴子と逢うのだ。生臭いものを持って待つわけにはいかない。

 それでも人の良い漁師は後で家に届けておくと言い、軽トラックで帰路に着いた。その後姿を追う龍二の視線の向こうに、白い点が見えた。曲がりくねっている小道だった。木々の間にくっきりと浮かぶ白が、花のようだった。冴子だとすぐにわかった。

 漁師以外、普段は通る人のない路だった。近づいて来る。

 見つめていると、冴子も気づいたようで、立ち止まって手を振った。忘れていた昂ぶりを感じた。暑く、今日もあの日のようだった。冴子が小走りに近づいて来る。

 

 冴子は鳴り砂の浜同様に激変していた。

 小舟に乗せてその浜に向かった。舟の中央に乗り、しゃがんでいる冴子の姿が、以前より小さく感じた。鳴り砂の浜を囲むように両側から突き出た岬をかわしたときだった。

 龍二は久しぶりに眼にした浜を前にして、愕然とした。余りにもみすぼらしく見えたからだった。昔の姿が消えている。

 波の浸食で砂が喰われ、過去に龍二を威圧した、あの浜の圧倒的な美が消えていた。

 冴子を見た。顔が土色だった。あきらかに病んでいる。濃い化粧だった。しかし、その内側で土色にくすんだ肌は、化粧を突き破り、龍二の眼を脅かす。全体から精気が消えていた。

 浜同様に、冴子も病に全身を侵食されているようだった。けれど、見つめ返してくるその瞳だけは、活き活きとしていた。一回り小さく削り取られたような全身が、そのぶん、相手がたじろぐような瞳の輝きとなっているようなのだ。

 もっとも女としての妖艶さが滲み出る年代のはずだった。だが、それを感じるのは瞳の輝きだけだった。

 醜かった。それでも龍二は、こうして冴子と再会出来たことに満足していた。初恋の女なのだ。はじめて女体を体験させてくれた異性でもあった。

 龍二は近づきつつある鳴り砂の浜の痩せ細った全体像と、冴子とを対比しながら、強引に過去を忘れようとしていた。

 冴子の手をとって、浜に降りた。小舟は波打ち際に引き上げた。小屋は朽ちかけていた。微かに昔が残っていた。

 やはり、時は確実に流れていた。聖地であったはずの浜が荒れている。小屋の姿はかつての残滓のようだった。

 歩いた。砂が鳴いた。いや、泣いた。

 二人の足に踏まれた砂は、悲鳴のような音をたてた。自然に削り取られた浜は、鳴り砂の大部分を失っていた。二人は残り少なくなった砂の上に腰を降ろした。

 波打ち際がすぐそこだった。過去にあった、浜を分断するように砂を切り裂き流れていたせせらぎは、形跡だけを残して水を運んではいなかった。

 当時は画のような景色だった。その中に立つ冴子の魅力は、龍二をとりこにして余りあった。

 豊かな乳房。くびれた腰。くねる豊饒な尻。その実った女体が広大な鳴り砂の上を跳ねていた。

 いまは違う。鳴り砂の浜も冴子も、ともに朽ち果てた。萎びた浜に、老婆のように痩せ細った冴子の姿。無残にも似合っていた。

 冴子は何かにとり憑かれているように、鳴り砂の浜に行くことを希んだ。そして、あの日、龍二だけを誘い、浜に来た。島民の聖域と知りながら、龍二と交わった。

 社のような小屋の中で、交接は飽くことなく続けられた。その後、不意に島から消えた。

 そしていま、再び龍二を誘い、この浜を訪れている。それはまるで、現在の姿を鳴り砂の浜に報告に来ているようだった。

 浜の著しい変貌に愕いたのは龍二だけだった。冴子は平然としていた。予知していたように、落ち着いている。

 冴子は無言のまま、やわらかな眼差しで周辺を見回しながら、その痩せた手のひらに、砂を掬っては、指の間からパラパラと砂を浜に戻す行為を繰り返す。見ているのが辛かった。

 病んでいて、しかも重い、ということは何となくわかっていた。病名はむろん知らない。逢ってから、殆んど会話らしい言葉は交わしていなかった。

 冴子は砂遊びをやめると、静かに砂に身体を横たえた。砂に埋もれるようだった。空が青い。

 水平線あたりに、生まれたての入道雲が立ち上がりはじめている。空気が乾いていた。木々の葉と漣が風の在り処を伝えていたが、蝉の声は聴こえなかった。

「あたし、醜くなったでしょう」

 冴子は顔だけを龍二に向けた。その視線に困惑した。言葉通り、変わり果てた冴子の姿を見ることに堪えられなかった。

「そんなことはありません。人は誰でも老いるし、俺だってどこから見てもすっかりおじさんになっているんですから」

 龍二は沖を見て言った。視線はじわじわと力瘤を増やす、入道雲を追っていた。

「莫迦ねぇ。あたしに気遣ったりして……」

 懐かしい言い回しだった。当時も口癖のように、莫迦ねぇ、と言われたものだ。

 冴子が起き上がる。そのときまったく不意に、悪寒のようなものが龍二を包んだ。眼の端に捉えた冴子が、別人に見えたのだ。振り向こうとした。が、身体が動かなかった。

 龍二はそれまで、頑ななまでに、冴子の視線を避けていた。耳だけで冴子に触れていた。その耳が、この浜の鳴り砂を踏んでからの、冴子の口調や声の記憶を巻き戻す。

 気のせいだろうか。それらは砂に触れるごとに、過去の響きを取り戻しているような感じがしてならなかった。

 もう一度冴子を振り返ろうとした。今度は身体が動いた。

 眼が合う。瞬間、龍二は息を呑む。掠れた笛のような声が出た。そこに昔そのままの冴子がいたからだった。

 砂に置かれた、グリーンの麦藁帽の色は今日のものだったが、容姿は当時の冴子だった。両手で眼を擦った。幼稚な芝居をするつもりはない。強い夏の陽射しが、自分の眼を狂わせている、と本気で思ったからだった。

「どうしたのかな。あたしの顔、変?」

 冴子は微かに乱れていた前髪を掻きあげた。肌がしっとりと生き返っていた。唖然とするばかりだった。再び冷気を感じた。首筋をそれが擦っていく。

 風は少しあるが、砂の上は暑かった。夢なのか。冴子はたしかに若返っている。龍二は狐に化かされているような気分のままだった。そんな龍二を、冴子が笑う。

「綺麗だ」

 声が上擦る。周辺の景色が幻想的に揺れ動く。

「お莫迦さん」

 冴子は龍二の肩を軽く叩きながら、

「こんなおばさんを嬉しがらせることなんか言って……。ほんと、お莫迦さんよ、あなたって」

 声が龍二を刺激した。

 何らかの力が、龍二を過去に戻していくようだった。再び砂に寝た冴子は、両腕を頭の後ろで組んで枕にした。手入れを忘れたのか、二、三、腋毛がそよぎ、龍二を昂ぶらせた。

 勃起した。信じられることではないけれど、いま眼の前で艶然と微笑む冴子は、紛れもなくあの日の冴子で、龍二を即座に、否応もなく昂ぶらせる肉体を甦らせている。

 たまらず冴子を引き寄せた。抗うことなく冴子は龍二のするがままに身を任せてきた。視界から景色が消えた。見えるのは、甦った冴子の肉体と、白い砂の耀きだけだった。

 また、冷気を感じた。何もかもがあのときのようだった。冴子の着ているものだけが違う。ノースリーブのワンピースだった。どことなくデザインが古めかしい。けれど、それが妙に似合っていた。龍二はその白のワンピースを一気に剥ぎ取った。

「莫迦ねぇ……」

 そう言いながら、冴子は龍二の動きに合わせるように、身体をくねらせた。

 白砂に横たわる。冴子は再び、莫迦ねぇ、と微笑みながら、龍二に両手を差し伸べてきた。

 キスが繰り返される。龍二の舌と唇が、冴子の顔中を貪った。冴子も同様だった。眼は閉じられているのに、冴子の舌は的確に欲するものを探し当てた。その舌は龍二の口中から唾液を引き出し、啜られた。

 体勢が逆転していた。上になった冴子の背中から、乾いた砂が落ちてきた。表情から知的な部分が欠落していた。

 手足が震えているようだった。その震える手が自在に動き、龍二のTシャツを引き裂き、短パンに伸びた。動きは乱暴でも、手際のよさは舌を巻くほどだった。龍二の裸が陽に晒された。

 冴子の行動はとても直線的だった。棄てた子と再会した母親のように、冴子は龍二の股間に頬擦りし、一気に含むと、餓鬼のように髪を振り乱し、一点に集中した。揺れる髪が白砂を叩き、砂が髪の先で跳ね、小さく散った。

 龍二は冴子を追った。引き締まった足首を持ち、強引とも思える強さで、冴子の下半身を眼の前に引き寄せた。

 冴子の女を眼にするのははじめてだった。あのときも、二度目からは多少の余裕を持つことが出来たが、女体のあちこちに遊ぶ余裕はなかった。ただ夢中で突き挿しただけだった。

 膣の中にあるはじめて眼にする黒子が鮮烈だった。再び先生との関係がはじまった。それはとても刺激的で、龍二に年齢を忘れさせた。教師と生徒。その関係での八つの歳の差は、あのころでは無限の差だった。

 八歳違いの男女の関係など、世の中には五万とあるだろう。しかし、教師と生徒という立場でのそれは、二十年以上も過ぎ去ったいまでさえ、聖域に足を踏み入れるような、倒錯的な昂ぶりを手繰り寄せていた。

 逢った瞬間、冴子の肉体が著しく滅びていることを嘆いた。しかし、冴子は同様に美を失った、島の聖地、鳴り砂の浜で蘇生した。

 昔とは違い、一部分にしか残っていない白砂から、魂を吸い取ったようだった。その甦った女体が、龍二の眼の前に大胆に晒されていた。

 震えが冴子の股間から波紋のように、全身に拡がった。尻全体に鳥肌のようなものが無数に浮くと、冴子は龍二を握ったまま反り返った。辛うじて男根を握った左手が、冴子の身体を支えているようだった。

 深い息を繰り返していた。そこはまだ、龍二の舌に委ねられていた。舌が動くと、むずかるように哭き、全身を痙攣させた。

 少し休ませて、と冴子は哀願した。しかし、それは言葉だけで、冴子は上半身をさらに屈め、味わうように龍二を口に含んでくる。すべてを吸引しようとしている。龍二はいまにも弾けそうな予感に震えながら、眼は冴子の行為の一切を追い求めていた。

 冴子の肌が、さらに艶を増し、耀いて見えた。龍二はたまらず、冴子を求めた。もぎ取るように冴子の口から自分を外すと、

「焦らないの」

 見上げた冴子がそう言った。だが、その眼は欲望に破裂していた。

「欲しくなったよ、先生。もう、我慢出来ないよ」

 甘えた。組み敷かれた冴子が嬉しそうだった。両手が伸びて来て、龍二の首に巻かれた。引き寄せてくる。長いキスの後、冴子の唇が龍二の耳を求めてきた。

「変わらないわぁ、あなた。昔のままじゃないの」

 舌がつるりと耳の中に滑り込む。

「先生も変わらない。むしろ、あのころよりも綺麗になった」

「あなたと逢ったからよ。でも、それはいっときの錯覚なのよ。あたしの最後の残り火が、あなたの眼に一瞬、白日夢を見させているの」

「それならそれでいい。夢でも何でもいい」

 鳴り砂の浜に来る前の冴子を思い出すと、萎えそうだった。龍二は冴子の膝を割った。

「駄目……、無理よ」

 耳の奥に、冴子の熱い息が染み渡る。

「無理なものか。俺はもう、終わりそうなほどに昂ぶっているんだ」

 腰を浮かせると、冴子の手が探り当て、握った。

「わかってる。でも、ちょっと待って。いますると、痛いわ、きっと」

「……」

「砂よ。あたしに出血させたくないでしょう」

 眼が妖艶に耀く。

 たしかに、さっきから砂が二人の間に入り込み、肌を刺激し続けていることには気づいていた、冴子の女にも砂があった。それを舌が感じていた。

 龍二は忌々しさに苛立ち、周囲を見回した。小屋が眼に入る。視線を追った冴子の眼も小屋に行き着いた。瞬間、冴子はギクッと反応した。そして、「厭っ!」と鋭く叫んだ。

 愕いて抱き締める龍二の耳元に、あそこは怖い、とうわ言のように繰り返す。しかし、怯えながらも、冴子の指は、しっかりと龍二を握って放さなかった。

 途方にくれる。やがて、震えがおさまった。すると、冴子は龍二から手を放し、今度は背中を抱き締めてきて、龍二にも同じようにすることを求めた。

 中学の教壇に立っていた当時を彷彿させるような、凛とした口調だった。ただ、当時と違うのは、その中に甘い響きを含んでいる点だ。言われたとおり、冴子の背を抱いた。見つめてくる。見つめ返した。

「回転するの」

 冴子の視線が渚に向いた。さあ。そう言って促す。意図を理解した。おそらく十代のカップルでもそんなことはしないだろう。

 冴子は抱き締めあったまま回転を続け、海に向かおうとしている。

 渚を見て距離を測った。潮が満ちはじめているようで、引き上げた小舟が寄せてくる波に翻弄されていた。

 龍二は回りはじめた。奇妙な愉悦があった。回転が触れ合う部分を変化させ、それが新しい刺激となった。全身が砂にまみれていた。

 ゆっくりと転がった。途中で休み、唇を求め合う。奇声をあげながら、砂の上を転がった。そのたびに、砂が物哀しそうに泣いた。

 

 異様に燃えた。遠浅の海の中を、抱き合ったまま進み、透き通った海水が、一歩前へ足を踏み出す毎に、二人から砂を洗い落としていく。

 ちょうど、尻餅がつけるぐらいの深さのところで、動きをとめた。冴子が海中に身を沈めた。それに倣う。身体が浮き、流されるようだった。

 深い貪るようなキス。しょっぱかった。それが甘さに変わるころ、二人は執拗にお互いを求めた。

 立ち上がり、冴子の腕をひく。腰を抱き絞めると、冴子の両腕は龍二の首の後ろで交差した。と同時に、冴子の両足が龍二の腰にしっかりと絡む。瞬間、一つになって揺れた。激しく。

 冴子の声が大きかった。雄叫びのようだった。絞り出すように、ときには叫ぶように、悦感を求めるその声が、周囲の海面に波紋を拡げた。

 龍二は冴子の首筋に喰らいついていた。理性が溶けていた。顔を上げた。陽が眩しい。眼を閉じた。すると身体の安定が損なわれる。懸命に冴子の身体を支えながら、龍二は何度も咆哮した。

 冴子の髪が円を描いて宙を舞う。そのまま、ゆっくりと歩きはじめた。歩くたびに、冴子の爪が龍二の背中を切り裂く。海中に腰までが没した。浮力が増し、冴子の身体を軽くする。しかし、それは海中での二人の動きの自由を限定することにもなった。

 リズムが怠慢になり、接触し続けることが難しくなってきた。ゆっくりとした動きは、そのぶん大きな動きになり、二つの肉体がぶつかることで圧せられた海水が、海面に気泡となってあらわれる。

 それでも歓びの頂点は確実に近づいていた。

 冴子も同じらしく、龍二の腰に絡む両足が、如実にそれを示していた。可能なかぎり、激しく動いた。応えてくる。

 顔は紅潮し、瞳は焦点を失い、あちこち彷徨っていた。

 龍二が終焉を告げたとき、冴子は一際大きな声を放ち、四肢を硬直させた、風の音のような声を発し、龍二の首に巻かれていた両腕を解いた。自分を放っていた最中で、龍二の対応は鈍かった。

 それでもどうにか、細い腰を強く抱き、冴子が海中に落下することだけは防いだ。弓のように反った冴子の上半身は、股間だけを依然密着させたまま、頭から海中に没していた。黒髪が海面に咲く妖しい花のようだった。

 反射的に腕を伸ばし、引き寄せた。海水に浸りながら、尚も陶酔したままの冴子の顔が、海中から引き抜かれた。

 冴子は薄く眼を開けて微笑むと、上半身を二、三度上下に振り、反動をつけて起き上がってきた。再び両腕が龍二の首に巻かれた。足がふらついた。二人は無邪気に叫び、海中に崩れ落ちた。しかし、甘美な陶酔感の中で、二人の肉体は小波に翻弄されて揺れたままだった。

 

 陽に縁のない生活を強いられて来たせいか、急激に浴びた陽光に、炙られているような感覚だった。全身が熱を帯びていた。

 冴子のほうがもっとひどかった。

 海中での交わりの後、夢遊病者のようにフラフラと砂浜に引き返した。全裸のまま、脱ぎ棄てた衣類の上に横たわる。疲れていた。龍二は冴子の背中を眼の端に捉えていた。

 眩しさに疲れた眼を癒そうと、浜の背に繁る木々の緑を見続けていたのだが、眼の端が捉えている、冴子の裸の背がとても気になっていた。陽に焼けて爛れたように見える。急激に、しかも大量に陽を浴びることは、決していいことではないことは知っている。龍二は冴子に向き直り、どこか陽(ひかげ)陰に移ろうと誘う。

 背に手を触れた。

 ふと冷気を感じた。冴子の肌が指先を冷やしたのだ。それはこれまで感じたどれよりも強いものだった。肌は陽に焼けて真っ赤なのに、この異常に冷たい体温の意味は何なのか。

 さらに龍二を愕かせたのは、冴子の背中一面に浮き出た染みだった。末期の老婆のように、皮膚が干からびている。

 その色が見る見るくすみ、触れただけで崩れていくような錯覚に陥る。髪だけが活き活きとうねり、一気に骨を浮かせた肩を覆っていた。龍二は背中に触れた手をそっと戻した。

 どうにか平静でいられた。冴子があの病んだ姿に戻っている。ついさっきまで、一つになることに狂った、瑞々しいものの一切が消えていた。

 こうして見つめている間にも、空気が漏れるように、冴子の身体が萎んでいく。まるで、屍のように。

「あなたは幻を抱いたのよ。罰が当たったのよ、あたし……」

 か細い声だった。向けられたその顔は、昔の面影を微かに残してはいるけれど、恋焦がれた冴子とは程遠いものだった。

 皮膚が干からびて、無限の悦楽を与えてくれたあの唇は、紫色に変色し、そこから見え隠れする舌だけが、愕くほどの赤だった。

 息を呑んで冴子を見つめた。言葉など思い浮かばない。

「やはり、この浜は生きていたのね。魂だけは生き永らえていたのよ。聖域であるこの浜に足を踏み入れただけでも罪深いのに、あたしはあなたを誘惑して、交わり、島の聖地を蹂躙した。教師と教え子という関係なのに……。あたしもそれなりの自信があってしたことだけれど、でも、勝てなかったのね。突然あのとき島を去ったのもそのためだったし、島を去ったその日から体調を崩し、悪化して、いまはもう、あたしはなす術もなく死を待つだけの、魂の抜け殻……」

 声が砂に染み入った。龍二はすっかり汗の引いた自分の肌を擦りながら、冴子の萎んだ唇を見つめていた。

 声までしわがれている。龍二は景色を真っ白に変えるほどの厳しい陽射しを浴びながら、寒さを感じてならなかった。

 陽の光線が、無数の氷の糸のように思えた。

「あたしは、巫女になるべき女だったの」

 唐突だった。喘いでいるような声だった。

「巫女って、あの――」

 むろん、詳しくは知らないが、知識としてはある。島の神社にも過去にはいた。

「あたしの家は、実は仙台からだいぶ離れた、蔵王山麓の小さな村なの。そこにはこの浜同様に、村の聖地がある。その村で、あたしの家系は代々、巫女を務めて来たの。霊感の強い女系の家だったのね」

 冴子は遠くを見るような眼をしていた。

「あたしの前は叔母がそうだった。いまだってずっとそう。だから、叔母はいまでも処女。あたしはその仕来たりに反抗したわ。人権を余りにも無視しているから。でも、赦されないことだとは知っていた。それならばと、それを受け入れるかわりに出した条件が、一年間のあたしの自由の保証だった。もちろん、処女でいなければならないという掟のようなものは揺るぎないことだけど」

 眼も言葉も虚ろだった。ただ、真実を伝えようとしているように思えた。冴子はたった一年で島から忽然と消えた理由を、説明しようとしている。

「夢は教師になることだった。あたしはそれを実行したの。そして、あなたに会った。そのとき受けた衝撃の大きさを、あたしは忘れはしない。あなたは全身から強い霊気を放っていた。あたしだからわかった。おそらく、あなたはいまでも気づいてはいないけど、怖ろしいほどの霊感が、あなたには備わっている」

 冴子はそう言っていったん言葉を切り、龍二の顔を凝視した。

 思わぬ成り行きだった。こうしている間にも、冴子の肉体は崩壊へと急速に進んでいる。

 顔の皺が深くなり、染みが全身を覆いはじめていた。鳥肌がたつような変貌だった。けれど、冴子の言葉は、その不気味さを凌駕した。

 これは悪夢なのだと思いながら、龍二は次第に冴子の言葉に洗脳されはじめていることを知る。冴子はその後も、語り部のように話し続けた。そして時折、龍二に質問を投げかけてきた。

 応えると、冴子はその都度、二回りも細くなった皺だらけの首を振り、うなずいた。

 冴子の説では、この浜に来て何度となく感じた霊気も、霊感の強い人間でないと感じないとのことだった。訝る龍二に冴子は言う。

 あなたが霊感に恵まれているもっともたしかな理由は、立場も年齢も超越して、あたしを求め、激しく交わったという事実で、それは同種の人間だけに通じるテレパシーのようなものなのだ、と言った。

 そのうわ言のような口調は、照りつける陽熱よりも熱く、聴き入る龍二に迫って来た。

 まだ島に来る前の若いころ、冴子は巫女になるために生まれたような自分の立場を呪っていたという。

 それは女としての夢を棄てることなのだ。処女でなければならない。ということは、深く強い恋愛は希めない。その苦痛が日々、冴子を苦しめた。

 ある日、ついに決心した。冴子は境遇に真っ向から対峙することにした。それは巫女へのレールを敷かれている自分が、聖地を血で汚すことだった。

 自分の生まれた村の聖地ではないけれど、赴任先の島の、延々と凝縮し続けて来た先祖の魂が鳴り砂となったと言い伝えられている、島の聖域である浜で男と交わり、自ら、巫女としての条件を踏み躙り、破棄することだった。

 もしそうすれば、必ず天罰が下ると言われている。だから、冴子は龍二を求めた。龍二に備わっている凄まじい霊感には気づいていた。その龍二と交わることによって、二人一体となり、天罰とやらに真っ向から挑戦した。冴子はそう言った。

 あのときのあの夏の日、あらゆる技を駆使して翻弄し、涎の糸を砂に垂らしながら悶え狂った冴子を思い返すと、龍二には当時の冴子が処女だったとはどうしても思えなかった。しかし、そう言った冴子の眼には、微かな曇りもなかった。

天罰はしっかりと下ったわ」

「病気のことですか」

 龍二は冴子の背に手で触れた。無意識だった。何故か素直な気分になっていた。冴子の眼に泪が溢れた。

「そう。あたしはもう終わり。こうしている間にも、どんどん身体の組織が崩れていく。あたしは炭になるのよ。医者だって匙を投げた。有名な大学病院にまで行ったけど、この病気にはお手上げだった。神懸り的な病気だと、もっとも現実的であるはずの医者たちが言うのよ」

 冴子は龍二の手を握り締めた。染みが手の甲を這うようだった。浮き出た血管が衰弱していた。

「醜いでしょう、あたし」

「しかし、さっきの先生はあのときと、――いや、当時より若々しくとても綺麗だった。それが何故――」

「あたしの最後の力……。そしてあなたが持っている優れた力……。あなたはあたしが放った眼に見えない波を受け止め、無意識に自己催眠をかけていた。この真夏の陽の下で、あなたは自分でつくりあげた夢を見ただけなの。……でも、よかった。あたしはどうでもいいの。あたしはあなたが心配だった。あなたもあたしのように、天罰で苦しんでいたらどうしよう。そのことが気になって、どうしてもあたしはあなたに逢いたかった。だから、今度、島に来たのよ」

「俺が島に帰ること、わかっていたんですか」

「きっと帰ると信じていた」

「何故、ですか」

 冷気を感じた。冴子の口調は、島に帰っていることが当然だと言っているようだった。

「呼んだのよ、あたしが。必死にあなたを呼んでみたの。それが通じたの」

 龍二は同窓会があることも、冴子が島に来ることも想像さえしなかった。しかし、帰る途中、執拗に浮かぶあのころの冴子の姿に、懐かしさを覚え、逢いたい、と願ったのは事実だった。

「安心したわ。あなたはどこを見ても健康そう。あたしはそれを確かめられただけで、この島に来た目的を達したの。あなたには何一つ罪はないのですもの。無理にこの浜に誘ったのはあたしだし、セックスだってあたしの一方的な誘いからだもの。だから、あなたには何もないはず、とは思っても、実際に自分の眼で確かめるまでは心配だった。よかった。あなたは本当に健康そう」

 冴子は満足そうに龍二を見つめた。もうその顔には、あの冴子の片鱗さえ残っていない。冷静な眼で見れば、汚らしい老婆が白砂の中に埋もれているようだった。

 (俺は悪い夢を見ているんだ)

 そう思った。直後、それまで冷え切っていたはずの全身が、突然、高熱で焼かれるような匂いがした。

 冴子が、よかった、とつぶやいた。消え入りそうな声だった。見ると、冴子の身体全体が、炭化し、それが白砂の上に胡麻のように散っていく。

 声を出す間もなく、灰になった冴子は四方に散り、背に触れていたはずの龍二の両手は、宙を彷徨った。

 もうそこには何一つ、形はなかった。冴子の言葉だけが、宙を彷徨う龍二の手のひらの上で踊った。

 呆然としていた。不意に東京で借りていたアパートを思う。

 佳子との離婚。最早そこにも冴子の消えたこの砂浜のように、乾いた空間があるばかりだった。

 天罰。そうか。冴子の言ったことのすべてが事実なら、天罰は共犯者である自分にも下ったのだ。

 龍二は灰になって吹き飛んだ、冴子の面影を追いながら、自分にも下されていた、天罰の大きさを実感していた。

 

 微かにベルのような音が聴こえた。波の音も聴こえる。蝉が一斉に鳴きはじめた。

 再びベルの音がした。電話のようだった。やがて、そのベルの音は凄まじい蝉の声により、鳴り砂の浜で呆然としたままに砂に坐る、自分の姿がかき消された。

 誰かが近づいて来る。肩を叩かれた。一瞬、全身が強張った。

 眼を開けた。陽が束になって眼を焼く。慌てて眼を閉じた。

 朦朧とした意識の中で、龍二はどうにか現状を理解した。庭の籐椅子で寝ていたのだ。松の枝が陽を遮っていたのだが、時が陽の位置を変え、陽光に全身を晒していたようだ。

「龍二、電話よ、はやく起きて出なさい」

 母の声が龍二を現実に戻した。眼を開け、擦りながら、

「誰からだ?」

「ほら、さっき港で会った先生。室生先生からよ」

 瞬間、眠気は一変に醒め、龍二の周囲に、強い冷気が渦巻いた。

 

                           (了)