小鳥遊葵(たかなしあおい)のブログ

雑多なことを、気ままに書き連ねている「場」です。

熟年アウトロー(500枚ぐらい)

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 ムシャクシャしていた。
 ホテルの統括営業部長ともなれば、一応、要職、だろう。しかし、私は日々、農耕馬のようにひたすらこき使われているだけだった。一日十五時間は拘束されている。むろん、残業手当などはない。管理職にはそんなものはつかない。それが会社側の言い草なのだ。それで管理職ばかりを増やす。肩書きのない社員のほうが少ないぐらいだった。いつかはキレると予感していた。いい歳をして、社長の大和田の言うがままに毎日を犠牲にしている。
 この片田舎のホテルに雇われてから十年。それ以前もずっとそうだった。自分を殺して今日までを生きて来た。私はまるで去勢されたように一日をやり過ごしていた。けれど、大和田の家畜でも見るような下品な眼を見るたびに、こいつに俺は近々キレる、と思わずにはいられなかった。そして五十歳を迎えたその日、私は突然、キレた。
 
 二十六もの歳の差があった。まだ二十四歳。私とは親子でも通りそうな裕美と、まさか、姦れるとは思わなかった。
 裕美はホテル内でも、男たちからは一、二の人気を得ていた。私も部長として、社員には一目置かれている存在ではあった。が、それも社長の気まぐれ人事のようなもので、いつリストラの対象にされても不思議ではない立場、だとも言えた。
 その五十男の私が、裕美と深い関係にまで進んでいるとは、ホテル内の一人として夢にも思ってもいないはずだった。だが、私は裕美と姦った。
 これだから、男女の仲の明日というものはわからない。もっとも、だから面白くもあり、無意識のままに泥沼に足を踏み入れて、抜き差しならない関係にまで陥る人々も多くはあるけれど。
 関係がもてたのは、勃起力も衰え、いま流行のバイアグラの世話にでもならなければ、女との用も足せない、と悲観し始めていたころだった。自分の肉体の衰退に焦りを感じていた。だが、何てことはなかった。若い女を得たというだけで、裏ビデオの男優のように元気になるのだから、病同様、この道も気の持ちようだけが薬なのだ、と再認識するに到った。
 元来、肉体と健康には自信があった。十代のころは空手に夢中になっていた。我流だった。毎日喧嘩に明け暮れていた。十八の夏には新聞も賑わした。被疑者としてだ。少年A。五十歳になってキレた瞬間、私は当時を鮮明に思い出していた。怖いものなど何一つなかった、あのころのことを。
 身体を椅子の背凭れにあずけたまま、壁にかかっている時計を見た。午後四時だった。事務所内の社員は、黙々と仕事をし続けていた。三時間後、私は裕美と会うことになっている。仕事には身が入らなかった。それでも続けはする。惰性のようなものだ。田舎だからだ。
 都会帰り。この地域で生まれ育ったのに、都会から戻った私に、人々はそう言った。転職するたびに、飽きっぽいと言われたものだ。そうではなかった。田舎はサイクルが異様に長かった。何をするにも、点から点へのスピードが遅すぎた。飽きっぽいのではない。私は私に合う仕事を求めただけなのだ。
 ホテル業はまぁまぁだった。何とかやれそうな気がした。ただ、馴れるにつれて、社長大和田の生臭さが鼻を突くようになっていた。相手にもそれが通じるのか、私がそう感じて間もなく、社長も私を遠ざけはじめていた。それでも仕事だけは続ける。馘首(くび)にされるか、自ら尻を捲くるまでは、という条件付きながら。
 残りの人生はそう長くない。出来るだけ、本能に背かない日常を送りたかった。たとえそれが法に触れて、二十歳の夏から、牙を抜いて築き上げて来たものの一切を失う羽目になったとしても。
 想像するだけで昂ぶった。背中がゾクゾクして来た。
 我慢を自ら外すことにより蘇る熱い血。それらを思い描くだけで、充実する。裕美に対する欲望だけではなかった。いまの私には複数に対する欲望がある。
 すでに初老。残された時間の少なさを意識してのものなのか、本物より何十倍も大きくなったもう一人の自分が、早く、早く、と執拗に私を急かす。
 いたって健康ではあるけれど、それを自慢できるのも、精々、あと十年。この十年を、私は気の向くままに過ごす決心をしていた。
 
 キレる。マスメディアが泣いて喜ぶようなこの文字を眼にするたびに、私には意味がわからず、他人事のようにしか思えなかった。いまそれを実感してみると、これは痛みを止める麻薬のように、私を一瞬にして楽にする。
 若い奴らのそれとは違うだろう。だが、私もやはり、キレたのだ。プライドも何もかもを棄てて、欲望だけに任せてみると、社長大和田のつねに陰湿な口調さえ、気にならなくなってくる。
 そりゃ、そうだ。最後には尻を捲くって吼え、後ろ足で砂をかければいいのだから、ストレスも堆積しない。
 一見、私は生真面目だ。人受けもいい。けれど、私はいま、若いころの狼、いや、それ以上の獣に戻りつつあることを自覚しながら、ホテル内で営業全体を統括する地位にいる。部下たちの殆んどが勤勉だった。少なくとも、職場においては。
 例外なく家族を持ち、日々緊張し、いつキレても批難出来ないような環境にあるのに、彼らはテレビや新聞などが、キレた者たちを映し出すと、嘲笑し、舌打ちする。
 私もそうだ。キレる人種としては私などまったくの新参者ではあるけれど、伊達に歳を喰ってはいなかった。その密度に於いて、若い奴らとは雲泥の差なのだ。
 それが私が彼らを嗤う理由だった。五時。あと二時間で、私は抱くためにだけ、裕美と逢う。
 
 すべてに人並み以上だったはずだ。それだけだった。才能も多少はあったのだろう。だがそれも特筆するほどのものではなく、だから、何ひとつとして、極められはしなかった。
 仕事にも女にも、完璧に浸透したという実感はまるでない。結局は、無能だったのだ。
 そう気づいた瞬間、それまで自分を糊塗し続けて来たことに赤面した。五十歳にもなって、はじめて自分の本質というものに気づくのだから、才能はおろか、その本質は、単に薄汚れた、一人の男に過ぎなかったのだ。そう感じた瞬間、私の頭はブチッと音をたててキレていた。
 才能とは無縁ならば、平凡を満喫するか、本能のままに漂うしかない。家族も何もない私の将来は、自ずと鮮明になる。本能に身を委ねる。それしかなかった。
 とくにこれまで、女に関しては、なまじ分別のある男と思われ、いい人と慕われ、自分でも強引にそう信じることにより、何人ものいい出会いをモノに出来ず、取り逃がして来た。
 もう、取り繕うことはない。年齢を何度重ね着したところで、女に対する欲望が稀薄になるということはなかった。むしろ、若いときに比べ、体力的に衰えを自覚したあたりから、女を自由にしたい、モノにしたい、姦りたい、という欲望が、爆弾低気圧のように吹き荒れていた。
 それを辛うじて抑えようとして力みすぎて疲れ、他に向ける気力さえ萎えさせてしまっていた。その繰り返しだった。嘘じゃない。キレて、本能の導くままに相手を求め、眼でおまえが欲しいと直截に訴えた直後、私はまだ、二十代前半の裕美というグラマラスな女を、得たのだから。
 
 北三陸の小さな港町だった。昔からそうだったが、どこを見ても、相変わらず洒落っ気のない、糞面白くもない町だ。
 権力者の欲望だけが、町の隅々にまで行き渡り、蔓延っている。国定公園を抱えているので、そこそこの観光客が訪れて、周辺の海に浮かぶ島々に遊ぶ姿が眼につくようにはなったものの、権力者たちはいつまでも魚やコンクリートによる過去に受けた栄華を忘れられないらしい。
 日々過当競争に明け暮れ、時流というものをしゃにむにせき止めて、自分たちの世界だけを懸命に護ろうとしているようにしか思えない。
 最近、それら旧勢力に対抗しようという、比較的若い勢力があちこちを跳び回り画策しているけれど、権力者たちはそんなときだけ都合よく団結し、若い力の台頭を阻止しようと躍起になる。
 そうした発展性のない姿勢が、全国一高い失業率や、逆に全国一低い労働賃金だけを浮き彫りにさせている。
 町で目立つのは、魚関係の加工場や、土建業を含む建築関係の会社やパチンコ屋などで、夜になればべら棒な呑み代を恥かしげもなく請求する飲食店ばかりが建ち並ぶ。
 物価全体を見ても、都会より安いものなど、数えるほどしかなかった。アパートでも、モルタル造りの平凡なワンルームで五万はする。トイレは最近、やっと水洗になったばかりだった。それも簡易のだ。移動環境も悪く、殆んどがマイカーなので、狭くて凸凹の路はいつも車で数珠繋ぎとなりと、あらゆる面で、典型的な棲みにくい町だった。
 けれど、ここは私が生まれ、育った町なのだ。正確に言えば、私はこの町から船で四十分ばかりの洋上に浮かぶ島で生まれた。昔は村だった。統合されて町に編入された。そう振り返ってみれば、眼につくのは悪い面ばかりではなかった。
 町には女が氾濫していた。若い女は珍しいが、夫を遠洋の海に追いやり、その留守に昼夜を問わず、不可解な行動をする熟女たちが犇いている。いま私がこうしてビールを呑んでいる店も、そのような得体の知れない女たちが、蠢いていた。いずれも女の人数分の若い男が隣りに坐り、絶えず嬌声をあげて、自分よりは五つは若く見える男たちにしなだれかかっている。
 その中で、裕美という若くて豊満な肉体を誇るようないい女と二人きりの私は、多少、浮いた存在ではあったかも知れなかった。が、私は平然と、裕美の引き締まった腰を引き寄せ、淫猥なムードをつくりあげていたのだから、その店を出て、後を追うように出て来た三人の男たちに取り囲まれたのは、仕方のないことかも知れない。
 なにしろ、私の相手である裕美と、男たちの傍に侍っていた女とは、すべてに於いて雲泥の差があった。見比べれば男たちが惨めになるのも当然だった。逆の立場なら、私も怒り狂っていたはずだ。つまり、その程度のくだらない男女が、あちこちに屯しているような、くだらない町なのだ。男たちはヤクザではなかった。その筋なら、ホテル業界とは馴染みが深い。言葉はきれいだった。観光客だろうか。取り囲んだ男たちは、日ごろの私というものを知らないということにもなる。
 苛立っていた。オヤジ狩りに遭遇して泣き叫ぶほど、いまの私は優しくはなかった。社長にキレて二ヶ月が経つ。それから今日まで、何度か町を離れては、場当たり的な喧嘩を繰り返してきた。むろん、帰宅してからのトレーニングも欠かさなかった。喧嘩するたびに、私は十代のころよりも俊敏に動くような自分の身体に愕くと同時に、大きな満足感も味わっていた。
 むずむずした。ゾクゾクした。裕美は微笑を浮かべたままで、私を見つめている。動じていなかった。馴れているのだ。裕美は五十歳の私を、決して「おじさん」などとは呼ばないし、思ってもいない。一人の男としてしか見ていない。いつも、男といるときのスリリングな体験を愉しむことに貪欲だった。そんな裕美の眼が、私の背筋に愉悦を生む。
「オッサン、ここは新宿や六本木じゃないんだ。田舎の小ぃちゃい町なんだよ。オッサンはオッサンらしく、家でしみったれた女房の相手でもしてりゃいいんだよ」
 他人をオッサン呼ばわりする年齢には見えなかった。三人いることで勢いづいているが、いずれも三十は過ぎている。煙草を銜えた。裕美がそれに火を点けながら、
「オッサン、だって」
 私の顔を見上げて笑う。
「家庭環境が悪かったんだろうな。失礼な糞ガキどもだ」
「てめえ」
 声と同時に拳が飛んできた。いや、飛んでは来なかった。ふわっと舞い落ちてきた。軽く後ろへさがってかわしながら、銜えていた煙草を吐き棄てた。撲ってきた男が、意外そうな顔をしていた。その程度の相手だ。まるで迫力がない。私を「オッサン」だと思い、見縊っていたようだ。いま、一撃を簡単にかわされて、相手は一瞬、竦んでいた。
「どうした。オッサン相手にそれだけで終わるのか」
 私は挑発していた。男が身構えた。見据えてくる。他の二人は困惑しているようだった。蹴りが来る。腰が不安定だった。足を振り回している。それだけだ。男の軸足の脛に靴先をめり込ませた。男が呻いた。瞬間、私の右足が、真下から男の急所を蹴り上げていた。勝負はそれ一発で決まったようなものだった。だが、私はそれからに熱中した。蹲る男を容赦なく蹴り続けた。他は縮み上がり、一人がやっと、いま出て来たばかりの店に飛び込んでいった。パトカーでも呼ぼうとしているのだろう。
「もう、いいよ。死ぬよ、この人」
 私は裕美に後ろから抱きつかれて、現実に戻った。夢中になるとつい、我を忘れる。喧嘩に巻き込まれると、どうしても冷静ではいられなくなり、とことん燃焼する。多少、息があがっていた。肩で何度か息をする。見おろすと、男が一人、芋虫のように地べたに這い、虫の息だった。
 蜂に刺されたように醜く腫れあがった顔が、街路灯に照らされて蒼褪めていた。こんなとき、この田舎町は便利だった。夜には漁船の入港でもないかぎり、ゴーストタウンのようなものだ。時折、この三人組のような旅行客が、旅の恥を求めて徘徊し、奇声をあげている。それだけだった。喧嘩しようと、野次馬が集まることもない。数人、騒ぎを聴きつけた船乗りらしい酔っ払いが、蒼白な顔をして、見ていただけだった。
「おい、早く逃げろ」
 三時の方向から声がした。視線を振ると、顔見知りの男が、闇の向こうを指差していた。パトカーが近づいてくる。私は裕美を促し、迷路のような路地に紛れ込んだ。
 
「最近のパパ、キレると怖い。すぐカッとして、見境がなくなるんだから」
 裕美の口調に批難は感じられなかった。むしろ、嬉々としている。刺激の少ない町だけに、私という、いささか年齢的には賞味期限は切れている者にも興味を示す。時々、劇薬のように荒れ狂う男が織り成す数々の言動は、裕美のような若い血でさえ、燃え滾らせているようだった。
「来いよ」
「うん」
 裕美はホテルの制服のままだった。それを一気に脱ぎ捨てると、ダイビングするように、私に覆い被さってくる。すでに息が荒かった。熱い。生臭い雌の匂いがたちのぼる。裕美の体内から噴出する、フェロモン。若い。呻くように私は言った。
「パパだって若いよ。あたし、さっきは痺れて、濡れちゃったほどなんだから」
 裕美は熱に浮かされたようにそう言い、貪るように唇を求めてきた。たまには小遣い程度の金は与えていた。それだけだ。
 夢中になっているのではない。裕美も同様だろう。パパと呼ばれることには抵抗があった。が、裕美はそう呼ぶことを気に入っているようなので、敢えて触れないでいる。オッサンと思っているのではない。それがわかるからだ。
 裕美は私にとって、実に都合のいい女だった。欲しいときに与えてくれる。私の本能に従順だった。だから、私も普段の裕美を。束縛したりはしていない。
 一頻り、汗だくになった後に、裕美はまだ余韻を充分に含んだ眼で、私を見つめてきた。
「大丈夫かしら」
「何が」
「さっき、パパがぶちのめした男」
「程度の低い観光客だろう」
「違う。二人は土地の人ではないけど、ボコボコにした男は、いつどこで会ったのかは忘れているけど、でも一度どこかで見た顔……。誰だったかなぁ。誰かに紹介された記憶が微かにあるんだけど、タイプじゃなかったから、すぐ忘れたのね、きっと」
「一人は地元か。俺は観光客の嫌がらせかと思っていた」
「どういうこと」
「自分たちは呑みに来ているのに母親のようなホステスをあてがわれ、俺のような地元のオッサンが、おまえといういい女を連れて、これ見よがしに呑んでいる。それに対する嫌がらせかと思ってた」
「馬鹿、みたい」
「俺が、か」
「ううん、あの男。地元だろうが観光客だろうが、遊び方間違ったばかりにボコボコにされて」
 私は自分が二十四歳のころの女を思い出していた。大体はセックスは受身で、男はそこに、自分のモノという意識を実感していた。だが、いまは違う。裕美は四十代の、しかも男日照りの長い、女のように大胆だった。技にも舌を巻く。その一瞬、私を台無しにする。
 叫び、密着し、絡み、うねり、咆哮する。手に余るような二つの乳房の量感。撓る全身。飛び散る汗。私と裕美から噴き出た体液が混ざり合い、攪拌されて、一室が別世界になる。
 私もそうだが、仕事場での裕美は、女ーー雌としての淫らさなど微塵もない。ホテル全体がそうとは言い切れないが、私のいるホテルは、社員同士の恋愛、と言うよりは、合体がとても頻繁に行われている。
 昨日までは違う男と付き合っていたはずなのに、今日になると別な男といいムードを醸し出していて、その夜には合体し、明日になると、昨日までの男とは「別れた」と平然としている。その別れた、という男は、眼の前で違う男といちゃつく女を、笑顔で見つめていたりする。
 裕美だけは例外だった。社内のそうした風潮には見向きもせず、言い寄る男たちを軽くあしらいながら、視線を電卓と書類から放さなかった。その裕美が、いま私の体液を吸っている。昼が仮面なのか、夜の姿がそうなのか。知ろうとは思わなかった。
 私の自由になる女。それがすべてなのだ。
 もう一人、これも同じ職場の女だが、由梨絵は裕美とは違い、私の天敵のような存在だった。経理のベテランで、印象はつねに怜悧。仮面を被った裏の顔を見透かしているような眼で、由梨絵は日々、私を無言のままに威嚇する。もう四十歳になろうとしているのに、浮いた噂の一つもなく、周囲にはお局様とかホテルの化石とか陰口を叩かれている。由梨絵はいつも何か硬い衣を纏っているようだった。
 それは何かーー。
 教養という柵のような気もするし、才能という鎧のような感じもする。社内では唯一人、大学を卒業していて、何をやらせてもそつがない。それは誰もが認めるところだった。しかし、人望はまるでない。一つしかない自分だけの物差しで周囲を測る。それが私を見るときの、あの、糞を見るような眼差しなのだ。私はしかし、近い将来、私に傅く由梨絵を想像して昂ぶる。
 教養。才能。そのような柵や鎧など、暴力の前ではいつも無力なのだ。私に触っていた裕美の指がピクッと反応した。由梨絵を想像しての私の昂ぶりがもたらした反応だった。
「パパ、元気なのね」
「散る間際の花のようなものかな」
「そんな言い方って嫌い。いいのよ。いまのこの元気が大事なんだから」
 裕美が跨ってくる。熱い。私は両手で裕美のくびれた腰を引き寄せながら、拗れた貝のように、なかなか自分を開こうとしない、あの傲慢な由梨絵を妄想の中で支配し始めていた。
 妄想の中の愉悦が、由梨絵の顔を汚した。ゾクゾクする。裕美がロデオのように、私の上で暴れた。
 
 トラウマなのだろう。しかも、重度の。
 二十歳から、女は私にとっては鬼門だった。あの夏の一日を境にして、女は必ず男を裏切るもの、という公式が、想念となって私を雁字搦めにしていた。
 しかし、女はいつだって、私の欲望の対象であり続けた。キレて弾けたいま、敵であり、欲望の対象でしかなかった女に対し、とくに由梨絵のような傲慢な女を眼にしては、憎悪さえ感じるようになった。
 愉悦と暗く湿った多少の自己嫌悪感に陥りながらも、私は憎悪を溶かす消しゴムのようなものを求めて、さらに女を求めようと彷徨いはじめていたのかも知れない。
 まるで二十歳のあの夏の日に、疵つけられた女に復讐でもするように。
 いまは片鱗しか残っていないような理性は、凄まじい本能の前にはまったく無力だ。ブレーキの毀れた車のように、坂を転げ、暴走し始めた私に、その欠片のような理性がほんの一瞬、足踏みさせるだけで、私は軌道を失いつつある自分に、ほぼ、満足していた。
 唯、疲れる。そんな中で、裕美はやすらぎだった。私のすべてを受け入れる。いまから五年後の裕美の行く末が愉しみだった。五十歳の私に平然と順応する、二十四歳の裕美。それが単にファザーコンプレックスのような歳上への興味だけでなく、早すぎる成熟のあらわれだとするならば、五年後の裕美は、早くも私のように、ぶちキレるのではないだろうか。
 私は社長大和田の言動から、これまでの自分というものにキレ、裕美は逆に、急激な成熟に心身が堪えられなくなってキレる。そんな将来の裕美と向かい合ってみたい。たとえそのとき、裕美に胸を刃物で八つ裂きにされようと。
 
「ヤクザが眼を逸らしたくなるような喧嘩をするね、早坂さん」
 深夜。私は一人で呑んでいた。駅前にある、この町ではもっとも高層なビルの中にある、スナックの四階だった。
 ビル全体が地元のヤクザの息のかかった店であるにも係わらず、船乗り相手の店よりはだいぶ安く遊べるので、結構賑わっていた。カウンターで水割りを呑んでいた私の肩を叩き、あの夜の暴力を思い出させたのは、この店のオーナーである、深谷だった。
 同年齢だろう。ヤクザには見えないが、界隈では有名なアウトローだった。
 あの夜、逃げろ、と私に叫んだ、この町に複数あるヤクザ組織の一方の雄だ。人口五万余りの町であり、大きい組でも十三、四人の零細組織でしかなく、いまのところ、抗争もなく共存していた。
 深谷は駅前に事務所を構え、十二人の若い者たちを束ねている。親分なのだ。様々なことに係わっている。テキヤでもあり博徒でもあり、金になることなら、何にでも喰いついてくる。が、評判は悪くない。
 よく言えば、とても庶民的な極道だった。けれど、何度も懲役に行ってるのだから、あの取り澄ました顔の裏では、それ相応のあくどいことを重ねて来ているはずだった。もっとも、この町ではヤクザの組長が何年服役していても、縄張りを他の組織が喰い荒らすこともない。これまでは、だ。
 最近は、町の極道たちの間で、きな臭い動きが頻発していた。
「忘れたよ」
 私は振り返りもしないでそう言った。深谷は隣りに腰を降ろすと、
「奴、一週間前に退院した。一ヶ月の大怪我だった。奴が呼んでいた他の二人は、あの翌日とっととこの町を出た。怖いね、あんた、堅気にしとくのが勿体無い」
 町を逃げるように出たという二人はどうでもよかった。たしかに我を忘れるほどに痛めつけはした。だが、まだ半端だと思っていた。
 もっとも、急所を外すような意識もなく、手当たりしだいに撲り、蹴り続けていたような気がする。パトカーが来た、という報せに闇に隠れた。新聞に載るようなこともなかった。
「気をつけたほうがいい」
 水割りを呑む、深谷の横顔を見た。
「よしてくれ。俺は善良な一市民だよ。あのときだって正当防衛だ。やむを得ず、やった」
 深谷は苦笑して、
「やり過ぎだ。あそこまでやっちゃ、過剰防衛だよ。奴の親父が血まなこで探し回っている」
「知らんな」
「あんたのオヤジでもある」
 私は怪訝な顔で、
「社長のことか」
 深谷はうなずき、
「一代であれほどまでにのし上がってきた叩き上げの社長だ。陰では俺たちでさえ舌を巻くようなことを平然としている。裏との繋がりも当然ある。俺のところではないが、高村の若い奴らに、息子を入院までさせた相手を探させている」
 高村とは、深谷と勢力を二分する、組の長だった。面識はある。深谷とは反目し合っているわけではなかった。時折、その高村と深谷が、親密そうに呑んでいる姿を目撃したこともある。
「いずれは正体がバレるってことか」
 私は深谷に対しても遠慮はしなかった。ヤクザなど、キレる以前から、怖いとは感じていなかった。
「いい度胸だ。まるで他人事のようだ。恐れ入ったよ」
「あんたがあの夜を見ている」
「たしかに。あの一帯は俺の息がかかってるからな。だが、俺としてはあんたを高村に売るつもりはいまのところない」
「いまのところか……。俺に何を希んでるんだ」
「ホテルに出入りしたい」
 深谷は少しも悪びれず、そう言った。
「ヤクザの出入りはどこもお断りだよ」
 深谷は再び苦笑し、
「むろん、俺は一切、顔は出さない」
「鵜飼でもするつもりだろう」
 深谷は煙草を銜えた。
「迷惑はかけない。礼もするし、協力もする。俺は絶対に裏切らない」
「考えとこう」
 出入りするということは、ホテル内の売店だった。他にも各室に置く、お茶受けの菓子類などを納めたい、ということなのだ。それらはすべて、営業統括部長である、私の直轄にある。
 業者の入れ替えなど、すぐにでも可能だった。乗ってもいいような気がした。四、五年前から顔は知っていた。深谷とは何となく馬が合う。しかし、それだけだった。
 これまでホテルに何ひとつとして、後ろめたいことはしていない。が、いまとなっては、それもどうでもいいことではあった。やりたいようにやる。自分がいま何をしているのかわからないような、若い世代のキレかたとは異なり、得を見い出しながら、自分に忠実にキレる、というのが大人の分別というものなのだ。
 どこもそうだろうが、私が働くホテルの営業は、二つにわかれている。一つは日本中を跳び回り、主にエージェント回りをしている営業と、市内や近郊を隈なく歩き回り、日帰りの客の確保に尽力する営業だった。
 むろんそれらは連携されていて、双方とホテル内の営業をも取り仕切るのが私だった。支配人は置かないので、実質的には支配人のような地位にある。その上に女将が取締役としていて、同列に、女将の婿である男が常務としている。さらにその上に君臨しているのが、社長の大和田信一郎となる。
 大和田はホテルの他に、不動産や水産関係、いくつかのパチンコチェーンなど、様々な事業を展開していて、その力は町では市長をも凌ぐ、というのが世間の一般的な評価だった。
 私はこの二ヶ月、営業活動はしていなかった。とはいっても、電話やファックスなどで、全国のエージェント関係には接触し続けている。と同時にあちこちに散らばる営業マンたちからの報告を逐一受けながら、それらを分析し、指示を出し、界隈の同業者の追随を赦さないほどの業績を維持し続けていた。
 周囲は私をデキる男と見ているはずだった。事務所の中で悠然と構えている私を見て、疑問を抱く者などまずいない。私はすべてを見渡せる自分のデスクで、いつもリラックスしていた。
 裕美が微笑みを浮かべて、私を見ている。その隣りが由梨絵だった。由梨絵は資料を見ながら、電卓を叩いている。凄まじいまでの早業だった。かなりのものだといつも感心する裕美の速度など、由梨絵と比較すれば止まっているようにしか見えないのだ。
 他の追随を赦さない自信のせいか、由梨絵は私にさえ、時に胡散臭そうな眼を向ける。人としての本質を直感的に嗅ぎ分けているように、由梨絵は滅多に私に屈しなかった。もっとも、それは社員全体に対してのことでもある。
 久しぶりに県外営業にでも出ようか。私は相変わらず事務所内を見回しながら、そう思いはじめていた。
 最近、東京、横浜に出ている営業マンの数字が、他県と比較すると伸び率が悪い。数字の上がらない地域を憂慮する。それが私の昼の顔だった。
 仕事に没頭すればするほど、キレて眼醒めた他の道筋に突き進んでいくことが愉しく、私自身が、日ごろの生真面目さに対する反動というものを待ち遠しく感じてもいた。
 出張するとなれば、四、五日は町を離れることになる。都会の灯が懐かしかった。本能に身を任せるには、この町は小さすぎた。資料を見ながらの空想で、都会の街に自分を置いている私の前に、常務が近づいて来た。
「今度、これの息子がホテルに来ることになった」
 常務は親指を立てた。藪から棒だった。私は常務を鷹揚に見て、
「それで、いつから」
「来月から。社長がそう言ってた」
 所謂、同族会社だった。他人はどう足掻いても、私の地位以上にはのぼれない。
「役職は何だい」
 歳下で女将の夫というだけではあるけれど、常務は一応上司だった。
「支配人」
「大したものだ。生れ落ちた家がいいと、何も知らない奴でもいきなり支配人だ」
「仕方ないでしょう。跡取りなんだから」
 常務は私に対する遠慮と上司としての威厳のバランスに苦慮しているようだった。それが言葉の端々にあらわれる。
「お坊ちゃんが支配人か」
「そう。本当にお坊ちゃんだから」
 婿入りし、それなりに苦労しているのだろう。
「俺もやりにくくなるよ」
「そうだろうね。実の息子と娘の夫とを秤にかければ、ま、勝負はあきらかだ」
 常務は一瞬、ムッとしたようだ。しかし、すぐに表情を和らげた。
「ま、今後とも、よろしく頼みますよ」
 と辛うじて上司としての威厳を保とうとする。入社して五年。常務の目立った業績は何ひとつない。社長の娘の婿だから、安穏としていられる。その程度の力しかなかった。地位は上でも、仕事は数字にきっちりとあらわれるので、常務など私の敵ではない。
「仕方ないね。独裁者が決めたこと。俺はしばらく、関東にでも飛んでる」
「行きますか。わかりました。仮払い金の手続きをしておきます」不安なのだろう。常務の眼は、何かに怯えているようだった。家では女将の重い尻に敷かれている、という噂でもちきりなのだ。そんな環境の中で、私に後ろ盾を求めてくるのもわからないではない。
 あの夜が甦る。ヤクザの深谷が言っていたとおり、あの夜毀した男が本当に社長の息子なら、顔を合わせた瞬間には、その相手が私だということはあきらかになる。
 私はまだ、社長の息子と会ったことはなかった。ずっと都会で気儘な生活を送っていたらしく、半年ほど前にこの町に戻った。その程度の情報しかない。もっともそれで充分ではあった。当然、歓迎する気にはなれなかった。会い、相手の出方によっては、私もそれなりの対応をしなければならない。一つだけ気になることは、あの夜一緒だった、裕美のことだった。
 トイレに行こうと立ち上がる。事務所を出て、ロビーを横切ろうとした。後ろから裕美が小走りに追って来て、「面白くなりそう」とVサインを出して、売店のほうへ駆けて行った。
 均整のとれた後姿が躍動していた。裕美は事態の推移を愉しんでいる。そうとわかれば、悩むことなど何もない。もし社長の息子が地位と出目を盾にして歯向かうならば、私は遠慮を棄てるだけだ。
 出張から戻る日が、愉しみになってくる。昂ぶる。この緊張感がたまらない。年齢を忘れさせてくれる。そうなれば、身分を剥奪されるまでは、昼夜を同じ顔で通すことになる。
 
 出張の成果は悪くなかった。営業とは何ヵ月か後に客を送ってもらうための撒き餌のようなものだ。ただ、そのときどきの相手の対応で、大体の見通しはわかる。
 埼玉、東京、川崎、横浜の各エージェントのメインと酒を呑み交わし、年間九千人の約束をさせた。その日が近づけば二、三のキャンセルはあるだろうが、それでも五千人は確保出来そうだった。
 若い営業マンは鼻であしらえはしても、私が直に出向くと、彼らは仕方がないというように仕事を振ってくる。長い付き合いがあるということは、それなりに彼らの弱味を握っているということでもあるのだ。
 若い営業マンはまるで手品のようだと愕いていた。そう。手品のようなものだ。旅行代理店のいまは、過去のように華やかではなく、どこも不景気で、客を募って単に目的地に送っただけでは、さほどの旨味はない。
 アール(R)と呼ばれる送り先からのリベートで、業績を維持しているようなものなのだ。ひどいところでは、売り上げ全体の二十パーセントのバックマージンを求めてくる場合もある。
 しかし、それだけでは約束事の決め手にはならず、私たちは添乗員や乗務員はもとより、エージェントの責任者に対する、プラスαを考慮する。呑ませる。喰わせる。打たせる。時には買わせる。他に土産物なども惜しまない。私はその匙加減のスペシャリストだった。
 交渉がまとまるたびにホテルに電話し、ファックスで仮予約させてからが、彼らとの仕事を離れての仕事となる。付き合いだ。これがもっとも大事な、プラスαだった。その席の中で、あるエージェントの幹部が私の顔を見つめ、
「以前よりも表情に凄味が増した」と言い、「何かあったの?」と続けた。彼らは終始、私のペースに乗せられ、かなりいい気分になっていた。本性丸出しだった。ホステスにしつこく付き纏いはじめている。露骨に胸に手を入れている者もいる。
 それでいい。これが後々、彼らの弱味になる。本性を露呈させる。それも大事な仕事となる。私は満足し、彼らと別れ、出張時の定宿である、品川駅前のホテルに向かった。そこにチェックインし、電車で川崎に向かう。
 
 過去に何十年も川崎で暮らしていた。街の様子は隅々まで把握している。仲見世通りはいつの間にか風俗店が軒を並べ、原色のネオンを煌かせていたが、街全体が変貌したわけではなかった。
 深夜まで営業している、過去に毎夜のように通ったサパークラブは健在だった。ネオンを眼にし、懐かしさが込み上げて、つい入る。去ってから十年。東京、横浜は何度も来ていたが、川崎はいつも跨いでいた。
 クラブもスタッフは変わっていた。が、支配人だけはそのままだった。十年前、この街を去る前夜に入れた、記念のボトル。
 ずっと残していたらしく、支配人がそれを眼の前に置いたときには、懐かしさよりも感激のほうが先にたち、私は一瞬、いいおじさんに戻りかけていた。
 だが、水割りを一口呑んだ直後、内ポケットの中で振動した携帯によって、すぐに現実に引き戻された。ホテルからで、すぐに帰社してほしい、とのことだった。
 何があった。訊く私に、総務課長は社長からの指示と言うだけで、その理由までは把握していないらしい。
 はじめてのことだった。社長大和田は、営業マンはつねに外にあるべし、というのが持論で、いつもそう言って社員を客獲得に追いやっていた。
 それは正論ではあった。大和田は私が一、二ヶ月、どこへも出かけずにホテル内にいることに露骨に不快感を示し、給料を損しているような思いだ、と平然と言う。その社長が至急帰社しろ、と言う。息子を痛めつけたことでもバレたのだろうか。べつに構わないことではあるけれど、それでも裕美にだけは電話したほうがいいかも知れない、と考えた。
 だが、物事はどうせなるようにしかならない、という思いに駆られ、すぐ宿泊しているホテルに戻り、眠ることにした。朝一番の新幹線に乗るつもりだった。
 予定が狂った。逢いたいと願っていた女にも逢えない。不意に訪れて、有無を言わさず、裸に剥くつもりだった。あの当時、チャンスは何度もあったはずなのに、妙な分別が邪魔をした。風の便りで、結婚したことは知っていた。それから三年後、離婚したことも。
 私はある思いに駆られていたのだ。過去を遡るということに拘泥していた。五十歳。あと何年、健康でいられるか。あと何年、本能の赴くままに動けるか。短い時間内にどこまで過去に遡っていけるかは知らないけれど、それでも私は、過去に思いを成し遂げなかった女たちや、裏切り、私を去勢した女とのあの日々まで引き返し、その日に立ち、悔いだらけの過去というものをどうにか清算しよう、と決心していたのだ。
 本心は、一足飛びに、あの二十歳の夏の一日に戻りたかった。その一日前までは、充実感に満たされていた。そこに戻り、ちぐはぐに嵌めた釦をかけ直せば、きっと、まっとうな道が拓ける。
 予定が狂った。思えばすべてが狂いっ放しだった。私は激しく、苦笑した。
 
 町には午前中に着いた。到着時間は報せている。ホテルの車が、駅まで迎えに来ていた。運転席を覗いて愕いた。由梨絵だった。相変わらず無表情のままだ。お疲れ様、ともお帰りなさい、とも言わず、前方を凝視したままにいる。
 私が助手席に乗り込んでも無視し続けている。一言、前方を見つめたまま、シートベルト、してください、とだけ言う。声が乾いていた。発進する。煙草を銜えると、禁煙です。鋭い一言を投げつけてくる。構わず、喫い続けていた。
「珍しいな。いや、はじめてだな。おまえが俺を迎えに来るなんて」
「厭だったんですけど、全員、日帰りの客やら何やらと館内に出払っていて、事務所には私だけしかいなかったものですから」
「そうか」
「それと、よろしいでしょうか」
「何だ」
「私のことをおまえなどと呼ばないでください」
「そんなに俺が嫌いか」
「そんなことじゃありません。おまえなどと呼ばれるほど、親しくしているつもりはありません」
「インテリの言うことは一々回りくどい」
 由梨絵は一瞬、キッと私を見据えた。
「よそ見はしないほうがいい。事故起こして俺と心中ってことにでもなれば、おまえにだって悔いが残るだろう」
「おまえなんて言わないでくださいってお願いしたはずです」
「そう型に填まるな。せっかくの美貌が台無しじゃないか」
「それってセクハラです」
 吹き出すと、由梨絵はさらに能面のような顔になり、前方を凝視し、束の間、それ以上の口を噤んだ。
「社長は来ていたか」
「はい」
「新しい支配人とやらは」
「見えてます」
「知っていたのか」
「何をでしょう」
「社長の息子のことだ」
「いいえ」
 社長一族の私生活は霧の中に等しい。いま女将をしている娘も、妾腹だとの噂もある。その女将は別にしても、夫人以外はホテルにあらわれることもない。
「複雑になるな」
 由梨絵は無言だった。私は取り澄ました由梨絵の横顔を、無遠慮に見ながら、綺麗だ、と言った。
「仕事中です」
 凛とした声が、それ以上を拒絶する。苦笑を返しながら、私はいつか自由になると信じている由梨絵の痴態を想像していた。いくら教養や才能があろうと、男が分別を金繰り棄てれば、それは何の役にもたたない。ホテルに着くまでの間、私の由梨絵への興味は、益々大きくなっていた。
 着いてすぐ、事務所に顔を出す。すると裕美が近づいて来て、社長が呼んでます、と告げた。顔が笑っていた。由梨絵はすでに、一切関心などないように、黙々と電卓を打ちはじめていた。指の動きが見えないほどの早打ちだった。けれど、由利恵は興味を示さないようでいながら、人並み以上に情報通でもある。唯、周囲とはあまり付き合いがないだけに、その情報がどこからもたらされているのか、不思議ではあった。由梨絵は館内の殆んどを把握している。裕美は常々、そう言っていた。由梨絵先輩をたらし込むと便利なはずよ。そうも言っていた。
 事務所を出た。エレベーターに乗る。社長室のドアをノックした。社長は一人で、机の上の書類に眼を通していた。自慢のロマンスグレーは、今日もきれいに櫛目が入っている。ブランド物のスーツをきっちりと着こなしている。隙のなさが服装にもあらわれていた。
「坐れ」
 物腰とは違い、社員に対する言動は傲慢この上なかった。一歩外に出ると、唖然とするほどに善人顔になる。むろん、知らない人に対してだけだ。
「何でしょうか。私はまだ、営業の途中だったのですが」
「さすがだな。行ってすぐ、結果を出すとは。他の者ではそうはいかん」
「タイミングがよかったのでしょう」
「おまえがそのように謙遜するとはな」
 やはり、含むところがあるらしい。
「ところでーー」
 無言で見つめた。
「明日にでも会議をしようと思ってる」
「会議、ですか」
「そうだ。会議とはいっても、全社員に対する通達に過ぎないものだが」
「詳しくはわかりませんが、ご子息のことですか」
「そうだ。不肖の息子というやつだ。つい最近まで東京でブラブラしていたんだが、今度、呼び戻した」
「それはご安心ですね」
「さて、それはどうかな。三十三にもなって、帰って来てまだ半年なのに、呑んだくれて喧嘩して、アバラを折られて一ヶ月以上入院する始末だ。ま、どうにか元通りにはなったがね」
 大和田が見据えてくる。相手が私だと知っていてのことだろう。深谷の話では、彼と拮抗する組織が動き、あの夜を洗っているとのことだった。その高村はまだ、私には接触して来ない。ということは、相手が誰か、大和田の依頼はそれだけだったのかも知れなかった。大和田は私を見据えたまま受話器を取り上げ、番号をプッシュした。内線だった。
「いまここにその馬鹿息子が来る。初対面だろうから、会議の前に紹介しておこうと思ってな」
「わかりました」
 私は落ち着いていた。すでに腹を括っていた。煙草を取り出し、火を点けた。大和田は煙草が嫌いだった。社員に禁煙令を出しているほどだ。無視した。間もなくドアがノックされ、あの男が入って来た。案内して来たのは、由梨絵だった。
「営業統括部長をさせている早坂だ」
 大和田は男を手招きし、私に向き直り、
「息子の幸一だ。支配人として入社させる。よく面倒みてやってくれ」
 私のことを営業統括部長を、させている、と言った。本音だろう。大和田は社員をその程度にしか見ていない。男は私の背後から近づき、通り過ぎると父親である大和田の隣りに腰を降ろした。すると、私の顔を見た瞬間、反射的に降ろした腰を上げ、眼を瞠った。当然だろう。私は平然と煙草を喫いながら、軽く頭を下げた。
「おまえ」
 幸一という名の男は絶句した。直後、顔を紅潮させ、
「親父、こいつだ。俺を入院させたのはこいつだ」
「社内でも家でも、私のことは社長と言いなさい」
 大和田の一喝に、幸一は怯んだ。典型的な、親の威を借りる狐だった。
「でも、こいつーー」
「どうやら、面識はあるようだな」
 大和田は私と幸一とを見比べた。
「面識も何も、おれを一ヶ月以上入院させたのはこいつだと言ってるんだ」
「うるさい」
 大和田は私の顔を見据えながら、幸一を怒鳴った。
「見たとおりの男だ。しかし、嘘をいう男ではない。普通、喧嘩して負ければ隠すものなのに、こうして正直に自分はやられたと言っている。ということは、おまえがやっということなのだろう」
「私はお会いするのははじめてですね。もっとも以前、食事帰りに三人の男からオヤジ狩りに遭い、身を護るために仕方なく戦ったという記憶はありますが、まさか、あの夜のーー」
「恍けやがって、おまえはあの夜、このホテルの若い事務員と一緒だった」
 私は無言のま、幸一を睨んだ。視線が流れた。気の弱さが露呈している。
「まぁ、いい。女子社員と一緒だったとは初耳だが、それも早坂、おまえらしい」
 大和田はあくまでも悠然としていた。これまで取り乱した姿を眼にしたことはない。それなのに、何故大和田を父親に持ちながら、こうまで軟弱な息子が出来上がったのかが不思議だった。唯、顔を見るかぎり、まったくの出来損ないには見えない。大和田がどう出るのか。私は二本目の煙草に火を点けながら、成り行きを窺う。小和田は微笑し、
「おまえのその度胸を少しこいつに分けてやりたいぐらいだ」
 そう言って足を組み、
「幸一を今日からおまえにあずける」
 そう言われて唖然とする幸一を無視し、
「すぐにでも仕事を教えて、なるべく早く一人前にしてほしい。仕事師としても男としても」
 そう言った。意外な成り行きだった。さすがに愕いた。しかし、それは大和田らしい決断とも言えた。一代で、ホテルや水産関係、不動産、さらにはパチンコ屋までも手中にし、市はおろか、県内でも屈指の実力者なのだ。まだ六十代なのに、何度も修羅場を潜り抜けて来ている。瞬時の判断力にかけては、まだまだ人後には落ちない。
「これは命令だ。それに、恩返しというものはこのようなときにこそしっかりとするものだ。そうすることにより、倅を毀したことは忘れてやることも出来る」
 不問にしようがすまいが、私は自分流を貫くだけだった。が、敢えて神妙な顔をつくりあげた。
「私の流儀でよろしいのですね」
 幸一の全身が、硬直するのがわかった。
「構わん。だが、一応、私の跡継ぎだ。頭の中までは毀さないでくれ」
 幸一が信じられない、というような顔で、大和田を見た。
「わかりました。引き受けましょう」
 立ち上がる私を、大和田は見上げた。
「しかし、わからんものだ。営業マンとしては文句のつけようがないのに、いい歳して喧嘩して限度も考えずに相手を痛めつけるとは」
 私は立ったまま、
「毎日の仕事に対する反動かも知れません」
 そう言って、社長室を出た。大和田が微かに笑ったようだった。
 
 社長室を出ると、事務所の全員の眼が私に集中した。無視し、ロビーに向かった。そこを突っ切り、売店に寄り、栄養ドリンクを買う。売店を出ると、裕美が小走りに近づいて来た。
「私とパパのことが噂になってる」
 口調が弾んでいた。
「おまえが言ったのか」
「まさか。どうも、由梨絵先輩らしいのよね」
「松永が」
 何故、由梨絵が、などと詮索したところではじまらない。裕美本人の耳にも入っているのだから、ホテル全体に噂は広まっているはずだった。
「ババは何も気にしなくていいからね。私、ゾクゾクしてるんだから」
「馘になるかもしれないぞ」
「いいわよ」
「俺もゾクゾクしてきた。いますぐおまえを抱きたい気分だよ」
「それもいいかな。今日は泊まり客が少ないし、お部屋いっぱい空いてるから、鍵、持って来ようか」
 私は苦笑して、
「今夜、逢おう」と言った。
 裕美は屈託のない笑顔を向け、事務所のほうへ駆けていく。すでに知れ渡っている以上、開き直るしかなかった。裕美もそう思っているようだ。
 夜だけでなく、仕事場でも自分を飾る必要がなくなった。心身ともに軽くなる。理想的だった。一日中、思うがままに行動する。リスクが伴う日常。ヒリヒリするような、充実感が待っているはずだった。ゾクゾクする。
 
 裕美が私のアパートに来たのは、深夜に近かった。明日は休みだという。
「呑むか」
 一人で水割りを呑んでいた私を見て、
「呑もう、呑もう」
 裕美は眼を耀かせ、自分の水割りをつくりはじめた。暗さなど微塵もない。私との関係が社内に知れ渡ったことを気にしている様子もまったくない。むしろ、周囲の反応を愉しんでいるようだった。裕美は私に密着するように坐ると、水割りのグラスを手にとり、私のグラスに触れさせた。コキンと澄んだ音がした。裕美は艶かしい微笑を浮かべながら一口呑むと、
「あたし、愉しい」と言う。
「そんなに愉しいか」
「うん。愉しい。とても刺激的。とくに今日、パパとのことが広まって、みんな興味津々って顔してるでしょう。それってとても刺激的よ」
「まずいんじゃないのか」
「全然。むしろ、誇りよ。パパは人気者だもの。みんなだって内心は羨ましいと思っているはずよ。パパとの関係だけじゃなく、女だって男だって、本音はいつもピリピリした刺激を求めているのよ。唯、みんなは勇気がないというか、お手軽な恋愛ばかりに終始して、無意識に自分を落としてる」
 いまどきの若い女の科白ではなかった。裕美のような女が、男を育てたり、駄目にしたりしていくのだろう。タイプこそ違うが、二十歳のとき、私を棄てた女の顔を思い出す。あの一瞬が、私のその後を形成させた。私を破壊した。あの一日がなければ、私は生涯、キレる、という体験はしなかったかも知れない。何の疑いもなく、いまもあの女一筋に暮らしていたことだろう。
 女は男を裏切り、いつか簡単に去って行く。あのとき、一人の女が、私にすべての女というものを教えた。
 裕美も去っていくはずだった。年齢に開きがあるだけに、親から巣立つ子のように。
 もっとも、裕美の場合、私にとっては都合のいい女であるだけに、たとえすぐ去っても、ショックは薄いだろう。多少、惜しい、という気持ちに苛まれはするだろうが。
「そこに立ってみてくれないか」
「えっ」
「素っ裸のおまえを見たい」
「ヤダァ、パパ、どうしたのよ、急に」
「別に。不意に見たくなっただけだ」
「いつも見てるじゃないの」
「いや、改めて裸だけを見ようとして見たことはない。いつも抱く途中に一部分だけを見ているだけだ」
「厭なパパ」
 そう言いながらも、裕美は私に何かを感じたらしく、立ち上がり、少し離れて向き直り、潔く、脱ぎはじめた。
 ホテルの制服のままで来ていた。裕美はブラウスよりも先にスカートのジッパーを引き下ろしながら、眼は私を見つめたままだった。二人とも、無言だった。
裕美の身体には若さが漲っていた。全身、どの部分にも過不足なく血が行き渡り、男を知り尽くした女の、薄いニスを塗ったような光沢があった。
 八頭身に近かった。惜しげもなく裸身を、私の前に晒している。同年代の男女ならともかく、親子ほどに歳の差のある若い女を手中にしている。他人が知れば、眉を顰め、男なら、大和田の息子のように、ジェラシーを感じても仕方のないような魅力が、裕美の全身から満ち溢れていた。
「おいで」
 私は裸身を見続けていて、何故か不意に寂寥感に包まれた。それを振り払うように裕美を呼んだ。裕美は複雑な微笑を浮かべ、
「どうしたのかな、今日のパパは」
 そう言って、私を押し倒すようにして、首に縋りついてきた。常々、そろそろ別れどきかも知れない、と思い続けていた。裕美は私との日常を刺激的とは言うけれど、馴れてくれば、それさえも惰性になる。
 それだけは避けたかった。身勝手ではあるが、裕美はその魅力にふさわしい相手を見つけるべきだろう。微かに残る分別が、明日どうなるかわからない私の未来に、裕美を巻き込んではならないと、叫び続けている。
「他に好きな人でも出来たような顔してる」
 裕美が拗ねている。無言のままの私に、
「由梨絵先輩かしら」
 裕美は全身をくねらせて、私を見つめてきた。由梨絵の顔を思い浮かべる。好きになったのではない。私は由梨絵の奥深くに潜んでいるはずの、煮え滾った本性を暴きたい、という欲求を持て余していたのだ。
 それにしても裕美の勘は鋭い。核心を突いてくる。由梨絵の聖人君子のような日ごろの言動。唯我独尊を画に描いたような傲慢さ。私はそうした由梨絵の仮面を根こそぎ剥ぎ取り、女としての本性を露出させてみたかった。
 裕美の肉体の熱を感じて、下から激しく揺さぶった。異様に昂ぶっていた。
「俺にはいまのところ、おまえほど可愛いと思う女はいない」
 裕美の背を抱いたまま回転し、体勢を入れ替えた。下になった裸身を押し潰しながら、そう言った。
「パパ、これまであたしのこと、可愛いとは言っても好きとか愛してるとは言ったことがない。あたし、それだけが不満。あたし以外の女を抱きたいと思ってもいいし、抱いてもいいけど、あたし、それだけが不満なんだからね」
 私は応えなかった。正直に言えば裕美が疵つく。従順なかぎり、疵つけようとは思わなかった。女を抱くたびに、過去が鮮明に蘇る。三十年間、自分を装飾して過ごした時間内でさえ、女を抱き、昂ぶり、熱くなるたびに、蜜柑汁で書いた文字のように、女と触れ合う熱により、二十歳のあの一日が炙り出されてきていたたまれなかった。
 裕美が喘ぎはじめていた。いつの間にか私もすべてを脱ぎ棄てていて、裕美の肉体に密着していた。二人の陰毛が鬩ぎ合い、吐息のような音を発していた。私たちは何もせず、唯、お互いの身体のうねりだけで、難なく一つになった。
「パパ、あたしからは絶対に別れないからね。パパといると、とても刺激的なんだもの」
 裕美は腰を迫り上げながら、訴える。
「わかってる」
 そう応えながら、貪欲なまでに刺激を好む、二十四歳の女のこれまでを思う。と同時に、裕美の顔や言葉に三十年前の女を見て、あいつも当時はそう言ったのだ、と声に出さずにつぶやいた。
 昔の女の顔を振り切った。過去が消え、その空白に由梨絵の顔があらわれた瞬間、私は限界に達し、裕美は蛇のように全身で蠢いた後に、硬直した。
 
 電話があった。深谷からだった。ホテルの代表電話を通して来た。深谷は早急に会いたい、と言った。会おう、と応えた。
 用件はわかっていた。ホテルに出入りしたい。観光客が求める、土産物などを入れさせてくれ。以前、そう言っていた。大きなシノギのない町だけに、もし、ホテルに業者としての出入りが可能になれば、彼らにとっては安定した収入源になる。既存の業者も安穏としてはいられない。日々、その可能性を探り、まだ付き合いのないまともな業者も、私に面会を求めて来ているのが現状だった。
 そのような健全な業者でさえ、私に対してリベートを出す、と露骨に売り込んでくる。
 深谷の願望は当然のことと言えた。深谷はホテルからは遠い、小料理屋を指定してきた。
 午後八時に会った。深谷はその夜も単身だった。ヤクザには見えない。しかし、見続けていれば、ふとアウトロー的な影が見え隠れする。小さな個室だった。深谷は下座に坐って、私を迎えた。私はためらいもなく、上座に坐った。受け入れようとしていたからだ。
「あの話だろう」
「いいね、単刀直入で。話が早い」
 女将が顔を出し、一通りのものが卓上に並ぶ。深谷は、呼ぶまでは誰も近づけるな、と女将に言った。うなずく女将の様子から、係わりのある店ーー女将なのだろうと思っていると、
「情婦にやらせている」
 深谷は部屋を出て行った女将のほうに顎をしゃくった。差し出すビールを受け、
「羨ましいね。俺もヤクザになればよかった」
「冗談を。あんただって綺麗で若い女の子を自由にしているくせに。羨ましいのは俺のほうだ」
 口調が一気に砕けてきた。会うごとにそうなっている。年齢も同じぐらい。私は深谷を嫌いではなかった。
「ところで、あの話のことなんだがーー」
「わかった。持っている品物のリストを俺のほうに出してくれ」
「それじゃーー」
「品物を吟味した後に、俺のほうからいま入っている業者の値を出す。そこから百円安くするなら、入れてもいい」
「百円……」
「愕くことはないだろう。安くすればあんたたちのことだ。似合ったものを持ってくるんだろう。だが、余り眼に見えたカスは駄目だ」
「あんた、ヤクザみたいだ」
 私が苦笑すると、
「俺のほうが堅気みたいじゃないか」
「いまは堅気もヤクザも似たようなものだろう。むしろ、堅気のほうが悪どい」
 今度は深谷が苦笑し、
「それで、月、いくらぐらいの仕入れになるんだ」
「物にもよる。けれど、おおよその調べはついているんだろう」
 深谷が笑う。六百人収容出来るホテルだった。バブルが弾けたいまも、全体の七十パーセントは稼動している。客の殆んどが年金受給者で、暇と金だけはある。当然、老人が多いので、町に出ることもなく、土産はホテル内の売店で買い求めることになる。結構な売り上げになるのだ。
「あんた、手持ちにワカメはあるのか」
「ある。いや、望むなら、知り合いの漁師に掛け合う。養殖をしている」
「売店の前の通路にワカメを裸で晒し、ビニール袋を置くだけで、年間何千万にもなる」
 深谷は眼を耀かせた。
「そりゃ、いい。さっそくリストに載せることにする」
 私はうなずいた。
「それで、五パーセントでどうだろう」
「俺の口からは言えないな、そんなことは」
「わかった。それは俺が決めよう。あとで口座番号を教えてもらう。それと携帯の番号も」
 リベートのことだった。私はうなずき、まずは携帯の番号だけをメモに書いて渡した。深谷もそうした。五十男二人が、携帯の番号を交換している。ゾッとした。
「断るまでもないが、俺はまっとうな業者を入れる。それは覚えておいてほしい」
「わかってる。俺の名前や組のことなど、どこ探しても出て来ないようにしている」
「それなら安心だ」
「よかった。ホッとしたよ。まっとうな業者とはいっても、高村が係わっているまっとうな業者も入っていることだし、これまでは指銜えて眺めているだけだったからな」
「高村の係わる業者?」
「知らなかったのか。もっともいま俺が言ったように、どこ探しても匂わないようにはしてるから、さすがのあんたでも気づかないかも知れない」
 私は思案する。
「あんたのところのオヤジの伝手だよ」
 知らなかった。業者を決める権限は私にある。唯、二、三、社長直々に入れたところはあるが、調べてもまったくそうした色は見い出せなかった。
 それだけ巧妙だということだろう。深谷は満足したようだった。町で一番のホテルと付き合うことは、測り知れないメリットをもたらすということでもある。たとえ名前を隠していても、それは深谷にとっては箔になるはずだった。
 五パーセント程度のリベートをくれると言う。他にもホテルに、売り上げ全体の五パーセントのマージンを取られる。それでも深谷には利益が生まれるということなのだ。私は深谷からの金を受け入れようとしていた。金に困っているわけでもなく執着も薄かったが、これからを思うと、断る理由は何もない。
 社長大和田の旨味を薄くする。理由はそれだけで充分だった。竈の灰まで俺のもの、という、叩き上げ特有の日ごろの言動に対する、嫌悪感がそうさせるのかも知れなかった。
 深谷がビールを勧める。ウィスキーに換えた。呑み交わしながら世間話が続いた後に、
「お坊ちゃんが入社したそうだね」
「ああ。支配人様としてね。入社早々、俺の上司だよ」
「まさか、ボコられた相手と職場を同じにするとはーー」
「坊ちゃんだからな。俺の顔を見て興奮していた」
「それで、立場上の影響はないのかい」
「知らん」
「いい度胸なのか、開き直っているのか」
「俺の歳で拗ねたって、不気味なだけだろう」
 深谷は吹き出し、
「社長は何も口出しして来なかったのか」
「狸だよ。坊ちゃんを俺にあずけるから教育しろってぬかしゃがった」
「あんたを認めているということだな。あの社長は、裏表の顔を使い分けることにかけては天才的だからな」
「その、オヤジの裏を調べる手立てはあるか」
 深谷はニッと笑う。
 大和田は一代で厖大な資産を築いた。綺麗事だけでは絶対に成し得ないことは、誰の眼にもあきらかだった。だが、世間にダーティな部分は一つも露呈していない。大和田は町を代表する顔として、殆んどの要職に就いている。
 表の顔がすべて。類稀な実業家。そう世間を欺いて来た手法こそが、裏の顔でもあった。
「オヤジの尻を探ってどうするんだ」
「顔には出さないが、物事には異常に執着するタイプだ。息子に一ヶ月以上も入院させるような怪我を負わせた俺を、そう簡単に忘れるとは思えない。切り札を持っていて、損はない」
「違いない。しかし、俺はヤクザだ。調べろ、と言うなら、それなりのことは要求するぜ」
「わかってる。毒喰わば皿まで、と言うからな。もう組んだんだし、寝返ったりしたら、俺もそれなりに対処する」
「ヤクザを脅かすかねぇ、この人は。ま、いいだろう。心配無用。俺は裏切らんよ。あんたの言ったこと、そっくりそのまま返そうじゃないの」
 私は水割りを口にした。
「オヤジが高村組と付き合いがあるのは本当なのか」
 深谷はうなずく。
「それだけじゃない。本気で洗い出せば、市長まで巻き込むスキャンダルになる」
「東洋一、いや世界一と前宣伝している、巨大水族館建設の利権か」
 深谷は大きくうなずいた。
「県だけじゃなく、国も絡んだ超大型プロジェクトだ。利権を求めて大物小物までが蠢く。本腰入れて、調べてみよう」
 深谷は興味深そうにそう言った。

「明日から営業に出る。朝七時には出社しててくれ」
 私の指示に、幸一は挑むような眼を向けてきた。
「不服か」
「親父がホテルというものを一から教えてもらえと言った。仕方ないから従う。それだけだ」
「社内でも家でも社長と呼べと言われたはずだ。それに、いまは俺がおまえの先生だ。言動には充分に気をつかえ。張り倒すぞ」
 ぴくっとこめかみが膨れた。
「ひょっこはひょっこらしく、素直になれ。不満があるならいつでもかかって来い。受けてやる。それだけは忘れるな」
「会社の若い女の子をたらし込む方法も教えてくれるのか」
 瞬間、私の拳が幸一の顎を捉えていた。事務所内全員が唖然とし、直後、騒然となる。裕美だけが笑顔で、由梨絵は冷ややかに私を見ていた。
「何度も言わせるな。言動には気をつかえ、と言ったはずだ。いまはおまえをどう扱おうと俺の自由なんだ。社長も了解済みなんだからな」
「わかったよ。しかし、このままでは済むと思うなよ」
「言動に気をつけろといったはずだ。もう一度撲られたいか」
 私の気迫に、幸一は眼を伏せる。
「でかい顔したかったら、早く俺に認めさせることだ」
「わかりました」
 幸一は撲られた顎を擦りながら、そう言った。周囲は成り行きに関心を持ちながらも、黙々と仕事を続けていた。裕美だけが指で小さくVサインをつくって微笑んだ。
 明日から出張なんで今日はもう帰る。私は総務課長にそう言って、すぐに仮払い伝票を切らせ、経費を受け取った。総務課長は心配そうな顔をして、
「大丈夫なんですか。オーナーの跡取りに対してーー」
「心配なら俺のかわりにおまえがお守りするか」
「いいえ、とんでもない」
 総務課長はまだ四十歳そこそこなのに、妙に保守的な考えをする。社内のことーーとくに社員の動向についてなら、些細なことも見逃さず、一部始終を社長に報告する。たまにしか顔を見せない、大和田の眼の代行のようなことを、仕事と勘違いしているような男だった。
 たったいま、私が幸一に手をあげたことも、すぐに大和田の耳に届くだろう。これまでの私は、社内では生真面目で腕のいい営業部長だったが、こうして自由に振舞うことによって、とても解放された気分になっていた。
 堂々と社長の息子である幸一を叱責し、従わなければ力ずくでも従わせる。そのような小さな行動が卵の殻を少しずつ突き破り、やがては中身があらわれる。私自身にもまだ見えていない、本当の私というものを抽出する。ゾクゾクする。
 この快感は、日々必ず増幅する。事務所を出るとき、後方から視線を感じて振り返る。由梨絵が汚物を見るような眼で、私を見据えていた。
 
 身体は疲れていたが、眼は冴え冴えとしていた。なかなか眠りにつくことが出来ない。こんなことは珍しい。私はベッドに入り、薄い水割りを呑んでいた。
 裕美を呼ぼうか。そう思ったが、帰り際、急に決まった事務所内での呑み会に参加する、と言っていたことを思い出し、あきらめた。電話して、来い、と言えば喜んで来るだろう。が、そうはしなかった。
 私との関係が晒され、多少は周囲に敬遠されるかも知れない、と懸念していた。呑み会に誘われたということで、それが杞憂であることがわかり、ホッとした。おそらく、私とのことを根掘り葉掘り訊かれて往生しているはずだった。それとも、それさえも愉しんでいるのだろうか。
 由梨絵は誘われないはずだった。誘っても体よく断られる。また参加したとしても座が白ける。それでいつのころからか、集まりには由梨絵を誘わないことが、暗黙のうちに決まっていた。それを知り、由梨絵は鼻で嗤っているだろうが、内心は寂しいに違いない。
 私はそんなことを思いながら、事務所を出る際、軽蔑したような眼で、私を見ていた由梨絵の顔を思い出していた。
 もうすぐ四十歳。浮いた噂を耳にしたことがない。いったい、肉体の疼きというものをどのように処理しているのだろうか。私は意地悪く、独り、ベッドで悶々としている由梨絵の姿を想像していた。淫らすぎた。これは決して意地の悪い妄想ではなく、由梨絵の現実の姿ではないだろうか。社内にいての由梨絵は異常に潔癖ではあるけれど、四十近い生身の女の性は、決して潔癖ではないはずだった。もしそうなら、それはとても不潔だった。
 私は身勝手に淫らな由梨絵像をつくりあげながら、それを肴にして水割りを呑み、帰宅途中、コンビニに立ち寄り買った週刊誌を眺めはじめた。
 殆んどが、セックス記事を扱った週刊誌だった。由梨絵に対する妄想からか、珍しく、その卑猥な週刊誌に私は釘付けになった。余り意識したことはなかったが、こうして見れば、いまは感心するほどに、様々な性がある。何でもある。
 いかがわしい電話番号が羅列されていた。明日から東京方面に出張という気持ちがそうさせたのか、私は無意識に、枕元の電話を引き寄せ、その中の一つの番号をブッシュしていた。
 
 世の中には、奇跡的偶然というものがある。当然、稀にしかない。その夜がそうだった。週刊誌の記事など、馬鹿馬鹿しいと思い、見ずに寝てしまえばなにごともなかったはずだ。
 運命のような何かが私を導いたのだろうか。疲れからか、たった二杯の水割りにいい気持ちになり、私はプッシュした番号のガイダンスに従い、ボタンを操作していた。すると、録音されている、女たちのメッセージが順次、流れはじめた。いずれも、その夜プロフィル登録した女たちらしい。
 十人ほど、聴き流したときだった。次に耳に飛び込んできたメッセンジャーの声を聴き、私は耳を疑った。
 聴き直す。間違いない。日ごろ、何十、何百の電話を受けている。エージェントはもとより、市内の客も声を受話器越しに聴いただけでほぼ名前と顔が頭に浮かぶ。それは営業マンとしては当然のことだった。
 その私の耳がしっかりとその声を捉えたのだから、まず、間違いはなかった。由梨絵の声だった。私は再生し、電話機にその声を録音すると同時に、メッセンジャーに電話が繋がるように操作した。いまは何ひとつ、あり得ないことなどはない。由梨絵がいかがわしいクラブにプロフィル登録し、テレフォンセックスの相手を求めている。愕きはしたが、冷静に思えば、とても似合っているような気がした。名前も何も明かさなくていいのだ。由梨絵には何もデメリットはない。
 しかし、あの由梨絵が……。
 電話が繋がった。声は紛れもなく、由梨絵のものだった。私は無言のまま、声を確認しただけで電話を切った。それで充分だった
 昂ぶる。慌てず、しかし、一気に、あの傲慢な由梨絵に仕打ち出来ることを思えば、いやでも昂ぶってくる。二人きりになり、裸に剥いたときの由梨絵の対応が愉しみだった。
 泣き叫ぶのか怒るのか。それとも変わらず冷静で傲慢なのか。ともあれ、私は大きな切り札を手にしたのだ。ゾクゾクした。
 
 印象とは違い、幸一は見間違えるほどに如才なかった。叩き上げの父親とは異なり、生れ落ちた瞬間からお坊ちゃんのせいか、幸一はエージェントの前でも、自然に培った育ちのよさのようなものを醸し出していた。若い営業マンにありがちな、固さーー少なくとも、相手の顰蹙をかうような失礼さは微塵もなかった。
 ただ、育ちのよさのようなものはそのまま甘さにも繋がり、相手の言うことをすべて真っ正直に呑み込んでしまい、有頂天になる。千人の客を送ると言われれば、簡単に信じてしまう。紹介がてらの出張なので、相手も小僧と思い可愛がり、数を誇大して示すのだ。精々、四、五十人程度の客を送るという話だった。それでも相手にすれば、社長の息子であり、支配人ということで、ご祝儀としての客配りだった。
「その気になるんじゃないぞ」
「あんたがいたから結果が出た。そう言いたいんだろう」
「言動には気をつけろ。何度も言わせるな」
「わかりました。東京のど真ん中でぶん殴られて置き去りにされたんじゃたまりませんからね」
 反抗しながらも、幸一の頭には、いまもあの夜が鮮烈に刻まれている。私の一挙手一投足に過剰に反応する。ずっと東京で暮らしていたということだが、あのように理不尽な因縁をつけてくるのだから、東京でも真面目には過ごしてはいなかったのだろう。
 街にも詳しいはずだった。しかし、すべて、父親の力で生きて来た。それがよくわかった。それが私との差だ。
「でも、さすがに部長は上手ですね。アッと言う間に仕事をまとめた。部長の本性を知らないあの人たち、すっかり善人の仮面を被ったあんたに騙されて。傍にいて妙な気分だったよ」
 言葉に、気遣いと侮蔑が半々に出ていた。
「べつに善人面しているわけじゃない」
「そうかも知れない。一緒に呑んでいて、いつも人の本音にまで踏み込んでいる。そんな気がした」
「まったくの馬鹿ってことじゃなさそうだな」
「どう思われてもいいよ。小僧でもひょっこでもアヒルでも」
「勝手に憎まれ口叩いてろ」
「勝手に言うさ。撲られない程度にね。俺はあんたに勝ちたい。だから、堪える。あんたに勝ったとき、俺はあんたを完璧に支配して、好きなように苛めてやる」
「そのときが愉しみだ。オヤジも喜ぶことだろう」
「親父は関係ない」
 すぐにムキになる。まだまだ子供だった。
「地方とはいえ、巨大なコンツェルンの一番上に、自動的に立つことが決まっている御曹司じゃないか。社長の期待もそれだけ大きいはずだ」
 半分以上揶揄だった。
「関係ないって言ってるだろう。俺は俺なんだ」
「そう言うわりには、俺のことを社長に切々と訴えていたじゃないか」
「顔見たらカッとしたんだ。悪いとは思ってるよ」
 どうやら、見かけよりは、父親としっくりとはいってないようだ。どうでもいいことではあるけれど、それは私にとって、悪いことではない。
 根はいい奴なのかも知れない。場数を踏めば、大化けする可能性がある。付き合い始めて、私は幸一を嫌っていない自分に気づいていた。
「おまえのような息子がいたとは、会うまでは知らなかった」
 幸一はチラッと上目遣いに私を見た。
「ずっと町にいなかったから」
「東京で、自由に青春を謳歌してたんだろう」
「そんなんじゃないよ。家に居たくなかった。それだけさ」
「親父に溺愛されているとばかり思っていたがーー」
「迷惑だよ。あの人の凄いのは仕事だけ。それだけだ。もう、いいでしょう。せっかく久しぶりに上京したっていうのに、親父のことなんて聴きたくないよ」
 本音のようだった。父親の大きさは認めながらも、私の知らない大和田を幸一は知っている。幸一は父親の話題から逃れるように、そっぽを向いた。
「よし、それじゃいまから自由行動だ」
 腕時計を見た。午後六時。川崎まで足をのばすつもりだった。この前の出張のときは、大和田からの急な帰社命令があり、逢うことが出来なかった。
 どうしても逢いたい女が一人いた。川崎は私の過去がぎっしり詰まった町だった。
 逢おうとしている女は、何がなんでも逢わなければならない女ではない。以前、欲しかったのに手を出せなかった女。私を嫌いではなかったはずだった。
 いまはどうなのだろう。一応、品川のホテルに予約をいれた。泊まるかどうかはまだわからなかった。
「急用でもないかぎり、電話はするな。これから明日の朝までは、貴重な俺のプライベートな時間だ」
 幸一は不満そうだった。憎まれ口を叩きながらも、私にまとわりついていたいらしい。無視した。

 電話した。疎遠になって十年になるが、年賀状だけは毎年届いていた。二年前の賀状で、離婚を知った。姓が替わっていた。理由は知らない。夫のある身。当時、身体の関係にまで進まなかった理由はそれだけだった。
 かつては私にとって、夫も情夫も同様だった。役所に提出する一枚の紙切れだけの違い。男を裏切る女。女に裏切られる男。二十歳の夏。私はあの日をどうしても忘れられない。たとえ顔も見たことのない男にさえ、あの夏のような思いを味合わせたくはなかった。当時はまだ、そう思っていたのだ。愛の存在を信じている男ほど、裏切られたとき、毀れる度合いがひどい。
 少なくとも、私は破壊された。それから三十年。私は去勢されたまま、狭いコップの中だけで、その中に閉じ込めた一人の女に対してだけ、本能のままに蠢いた。私を棄てた女に置き換えて。
 その女はおそらく、私が最後に逢いたい、と願う女だ。すべてにケリがついた後に。
 いまは違う。単純だった。過去に逃したもののすべてを取り戻したい。それがたとえ合法的ではなくても。失った過去を取り戻す。三十年への執念のようなものだろうか。
 時間を一瞬にして昔に戻したい。それはいまの私の、本能の叫びのようなものだった。
 老いはじめている。その思いが仕向けていることなのか。違うような気もする。何かが私を、一度、二十歳のあの夏の日以前に戻れと尻を押す。まともだったときの私に戻ってみろと。
 川崎駅に着くと、携帯に記録してある電話番号を確かめた。
 
「変わったかしら。少し、いや、だいぶ変わったわ、あなた」
 優子は逢ってすぐ、そう言って顔を見上げてきた。
「老けたかな。唯、そう感じるものがあるとすれば、おまえを抱こうと決めて逢いに来たからだろう」
 優子は少しも変わっていなかった。もうすぐ四十歳になる。あの由梨絵の一つ下だったが、結婚していたせいか人柄か、由梨絵のような鋭利で冷淡な印象も傲慢さもまるでない。全体が肉感的だからか、やわらかい。男の眼には淫らな体型だった。
「私が離婚したからかな」
 優子の口調が不満そうだった。
「それもある」
「他には」
「欲しいものは奪ってでも手に入れることにした」
「ほら、やっぱり変わったじゃないの」
 その顔から不満が消えていた。
「そうでもない。この歳になって、はじめて自分に正直に生きようと思っただけだ」
「女って、私の場合はとくにだけど、私がどんな境遇にいようと、欲しいなら、ストレートにアタックしてほしいといつも思ってるものよ。それなのにあなたは、一度もそうしなかった。私からのシグナルは気づいていたはずなのに」
「最近、気づいた。だから、来た」
「勝手な人」
 優子は微笑む。
「行こう」
「いますぐなの?」
 まだ七時だった。私は歩きはじめながら、少し、呑もう、と言った。
 
 貪欲だった。知らなかった一面だ。いや、女はすべて、こうなのかも知れない。全身が絶え間なくうねる。手足が絡みつく。吐息が異様に熱かった。長い髪が両肩に噴き出る汗を払い飛ばす。時折震え、歯がカチカチ鳴る。そして優子は硬直し、弛緩した。
 裕美も卓越していたが、それは年齢にしては、ということだ。優子は違う。熟し、腐敗する寸前の果物のように、全体が甘く、私を蝕むようだった。
 何もかもが豊潤だった。満ち足りた。一歩、過去に舞い戻り、踏み出して、手探りでその先端に触れたような気がした。私は腹這いになり、煙草を銜えた。優子のマンションだった。
「続くと思っていいの?」
 物憂い口調だった。
「当分はーー」
 優子は薄く笑い、
「変わったわ、あなた。前は何も求めずに、私にとって都合のいい友だちに徹していたのに、いまは私に都合のいい女になれって言ってるみたい」
 優子は寝返りをうつ。
「俺は何も言ってない」
 優子をまさぐった。
「そうかしら。言ってると思うけど。それもはっきりと」
 私は応えず、左の指でまさぐりながら、煙草を喫っていた。
「お酒、持って来ようか」
「ああ」
 優子は気だるそうな仕種で、まさぐる私の手をどけて、ベッドから降りた。
「いいわよ。都合のいい女でも、そうなってあげる」
 背中を向けたままの優子の声を、私は無表情に聴いていた。これまで様々なことを体験して来たのだろう。言葉の一言一言がそれを物語っている。水割りが二つ、枕元のベッドの棚に置かれた。私の手が再び、優子を求めはじめる。尻を触ると、ピクンと震えた。
「運命かしら。あなたがこの街から消えてからも、私は必ずもう一度逢えると信じてた。手も握ったことなかったのに、あなたが消えてから、気持ちが萎えて、唯一充実を感じたのは離婚届けに判を捺すときだけだった」
「離婚するとは思わなかった」
 嘘だった。当時から、ずっとギクシャクしていることは知っていた。
「そんなことないわよ。見合いでの結婚だし、夢中になったこともなかったのだから」
「口説けばよかった」
「そうしてほしかった」
「さっき、シグナルは出していたと言ってたな」
「あのとき、そう言えばよかったのかしら」
「どうだろう」
 喜びはしても、私は多分、抱いていたなら、後悔していたはずだった。二十歳の夏の私の悔しさを、一人でも多くの男に味合わせたくない、という願望はどこかにあった。しかし、それ以上に、あのような体験をすると男は毀れる、ということを熟知していて、私は優子の夫の側に立っていた。いまとは違う。
「私だってそろそろ四十歳。再婚する気はまったくないし、でも刺激は欲しいから、あなたの都合のいい女でいてあげる。だから、逢ったときには、必ず、抱いて」
 今度は優子のほうから仕掛けてきた。私はなすがままに任せながら、由梨絵の顔を思い出していた。由利恵は女としての魅力は薄い。けれど、氷のような美しさがある。刃物にも似ている。魅せられる。アイスピックで粉々に氷を打ち砕くように、私は由梨絵を蹂躙する妄想に駆られた。
 いかがわしいテレフォンセックスに耽っている由梨絵。普段の言動からは想像もつかないような女の裏の顔。脳裏に浮かんだ由梨絵の顔が、私を昂ぶらせる。私の上で優子が咆哮し、不規則に舞う。
 
 口座に金が振り込まれていた。五十万。妥当なところだろう。これが毎月続くのだ。しがないサラリーマンにとって、小さくはない額だった。
 深谷から商品のリストが送られて来て、私はすぐに、出入りの許可を出した。すべて他業者よりも百円値引きしてある。異論を唱える者などいなかった。
 その深谷から携帯に電話があり、お礼かたがた会いたいと言う。受け、場所は私が指定した。町は避けた。私は出張と偽り、仙台に出た。幸一は同行させなかった。
 仙台の国分町でも、深谷は顔だった。育った本家が仙台にあり、いまでも何度も足を運んでいるとのことだ。その本家筋は、仙台の裏社会を二分する勢力のようだった。もう一方は、高村の母体だと深谷は言った。その総本家は東京を拠点とする広域とのことだ。
「いいライバルか」
 深谷は舌打ちして、
「そのうち、ぶつかる」と言った。
 ホステスが大勢いる店だった。が、深谷は女たちを遠ざけた。女たちは私も深谷の同業と思っているようだ。
「口座が潤うのはいい気分だ」
「お互い様だ。遠慮することはない。ホテルに入ることが出来たんだ。満足しているよ」
 へネシー。深谷はストレートだった。私は何でも水割りにする。
「いつかホテルのオヤジのこと、調べてくれって言ってたな」
「ああ」
「あらましはわかった」
「さすがだな」
「蛇の道は蛇って言うだろう」
「社長も蛇か」
「大蛇だよ。高村の本家筋に通じている。それも親分と直にだ。裏で奴らを使い、巨大水族館建設の利権をモノにしようとしている」
「ほう……」
 深谷はニッと笑い、
「あのオヤジ、土建屋でもあるんだろう」
 私がうなずくと、
「野望が凄まじい。プロジェクトも半端じゃない。大手も参入する。しかし、自分が入札でとり、大手の上に立とうとしている。いや、大手に丸投げして自分は口銭だけ稼ぎ、中央に名前を売り、将来を見据えようとしている。やはり、只者ではない」
「ああ」
「市長も絡んでる」
「入札があるからな」
「そういうことだ」
「それで大和田の手に落ちるってことか」
「港組にな」
「さすがに詳しいな」
「蛇の道は蛇だって言ったろう」
「ホテル内でも知っている者は少ない」
「荒っぽい仕事はダミーを使ってるってことか」
 私と深谷が同時に煙草を銜えた。深谷が私の煙草に火を点けた後に、自分のにも火を点けた。
「市長と町の大事業家とヤクザがグルか。よくある話だ」
「そう。それに代議士や大手の建設会社が絡む。世の中ってものは、よくある話で回ってる」
 私は深く煙草を喫い込んだ。
「市長も三期半になる。長い」
「大和田にしてみれば、落とせないわけだ。傀儡だからな。だから、選挙のたびに自分が立候補したようにしゃかりきになる」
「面白い」
 一代で巨額な富と名声を得る。普通の生き方では絶対に不可能なことだった。想像以上に、大和田は裏社会と密接な関係にあるのだろう。
「水族館の規模は、これまでにないものらしい。世界一とも噂されている。当然、利権も大きい」
「それをすべて、手中にする気でいるんだな、あのオヤジ」
「手中にし、自分の名を売るために金を分配する。少なくとも二、三の大手の企業体が暗躍している」
 深谷もただのヤクザ者ではない。話の内容は興味を惹いて余りある。
「それで、どうなる」
「プロジェクトを組む会社を選ぶのは市だから、どうにでもなる」
「結局は美味い汁はしこたま吸って、売名に金をばら撒き、些少を地元の零細に振り分けることになる」
「そこで、大和田の傀儡市長の活躍の場となる」
「入札はする。一見公正に。だが、そんなものは簡単に操作出来る。田舎町だ。談合抜きにしては何も出来ない」
「そう思い通りになるのか」
「やろうと思えば何でも出来る。本音は指名入札にしたいだろう。だがいまは、不透明さに世間がうるさい。だから、自由入札になる。だが、それでも実態は同じだ。談合により決まる。市長も一期やそこいらでは何も出来ないが、三期もやれば役所の中は殆んど自分の息のかかった者たちばかりだ。入札を操ることなど造作もないことだ」
「新聞も書かない」
提灯記事だけは盛んに書くだろうよ」
「面白いな。血が滾るよ。しかし、何であんたがそこまでーー」
「大和田と高村のところがつるんでる。このままずっと、高村だけが美味しい思いをし続けることは、稼業人としては見過ごすことは出来ない。ヤクザってものは嫉妬深いんだよ。異様に羽振りがいいところがあれば潰したくなるのがヤクザの本能」
「妬みか」
「何とでも言え。妬みってのは人を飛躍させるんだ」
 苦笑が二つ重なった。
「ヤクザってのは摩訶不思議だね。俺はあんたと高村が一緒に仲良く酒呑んでるのも見ている」
「平和なときは一緒に呑みもするよ。何もないのに喧嘩したってはじまらん。しかし、いざとなればあの野郎、自分だけ旨味を盗ろうとする。ま、正直に言えば、話は当然、俺の本家筋にも届いている。唯黙って見過ごしていれば無能と罵られる。それもあり、見ているばかりではいられないんだよ」
「いいのかい、そんなことこの俺に話して」
「いいも悪いも、ここまで話てしまったんだ。一蓮托生だろう」
 二人は再び薄く笑った。
「退屈だからそれでもいいが、しかし、俺はあんたのためになんか動かないよ。売店に物を入れる。その程度のことしか出来ないし、それだって、俺の利益のためにしていることだ」
「わかってる。何かをしてくれって言ってやしない。俺は大和田を探ってくれとあんたに頼まれた。だから、業者として出入り出来ることになったお礼のつもりでしたただけだよ。あの程度の金だけでは気が引けていたんでな」
「なにしろ、あの大和田が想像以上に力があることだけはわかった。それについては礼を言う。何をするにしても、半端な覚悟で太刀打ち出来るものじゃないということもわかった。それだけで、いまの俺にとっては大きな収穫だよ」
 深谷は何かを思い出したように笑い、
「しばらくは御曹司のお守りを続けるか」
 今度は鳩のようにクックッと笑った。
「喰えないオヤジだ。俺がとっちめたのを知ってあずけて来た」
「うってつけかも知れない」
「ま、はじめの印象ほど、嫌いな奴じゃないのが救いだ」
 深谷はうなずいた。
「あと一つだけ教えよう。あのオヤジと倅、必ずしもよくない。いや、むしろ、剣呑だ。とくに倅のほうがオヤジを敵視している」
「薄々は感じていたよ」
 父親を言うときの幸一の口調。何かある。私は直感的にそう感じていた。
「母親が苦労しっ放しで死んだ。倅の母親はいい目を見ずに死んだんだ。根っこはそのあたりかも知れないな」
「二度目なのか。いまのカミさんは」
「灯台下暗しだな。二度目じゃない。三度目の奥様だよ。あのオヤジのことを、あんたたちホテルの人間は何ひとつ知らない。私生活は闇の中だよ、あのオヤジは」
「三度目か……。ホテルには来ないからたまにしか顔を見たことはないが、奥方はいやに若いとは思ってた。それにしても、娘である女将や婿は平然としているな。女将も妾腹だという噂もあるが」
 深谷の指摘通りだった。私を含め、従業員たちは、社長、大和田のことを正確に把握していない。地方にありがちな、社長に給料を貰い、養われているという感覚が、余りにも強すぎるのだ。
 それは経営者である社長の言動にも如実にあらわれている。げんに私のことも、営業部長をさせている、と幸一に言い、自分の言葉に微かにも疑問を持っている様子はない。
 大和田は従業員にとって、つねに畏敬の対象でしかなかった。社長の言うことには、従うことが義務とでも思っている者たちが殆んどなのだ。
「婿は他人だから知らないが、娘は内心どう思ってるか、知れたものじゃない。妾腹云々は俺も噂には聴いたことがあるが、本当のところはまだわからない」
「面白いな。面白すぎる」
「面白いか。何て奴だ。もっと早く知り合えてたら、さらに面白いことになっていたかも知れないな。いまのあんたはどう見ても堅気ではない。こっち側の人間そのものだよ」
「冗談は止してくれ。単純にこの歳になって、社長の馬車馬のような使い方にキレて、その日までの自分を振り返ってさらにキレただけの中年のオッサンでしかない」
「だから、興味があるんだよ。先が余りないだけに、腹を括ったら若い奴らなど太刀打ち出来ないような凄味がある。しかし、忠告だけはしておく。なるべくなら、大和田とだけは事を構えるのはやめたほうがいい」
「いまのところはそのつもりだよ。だが、気に喰わないことが続けば、そのときの俺は、自分でもどうなるかさっぱりわからない」
「大和田は、自分の利益が損なわれると思えば、俺やあんたなどはむろんのこと、実の子でも切り棄てるような、冷酷な面がある」
「そんな気はする。ま、いざというときに備えて、社長の裏の顔を徹底的に探り、なるべく多くのカードを集めるとしよう」
 私は喉の渇きを覚え、水割りを口にした。深谷も呑む。
「ところで、さっきの話の続きだがーー」
 深谷の顔を見つめた。
「高村のところが水族館建設の地上げに動きはじめている」
「港周辺で何やらきな臭い動きがあることは知っている」
「あの一帯は、俺の縄張りだよ」
 深谷の眼に、その日はじめて鋭い光が宿った。無言でいると、
「面子を潰された。喧嘩を売られた。そういうことだ」
「怖ろしいことだ」
「ああ。だが、避けられない。俺だけの問題じゃない。俺がヘタを打てば、本家筋にまで飛び火する。だから、絶対に譲れない。これは大和田を敵に回すということにも繋がる。これからは表立って、そうなる」
「俺は傍観しているだけだよ」
「そうしてくれ。それで問題はない。頼むから、俺に向かってキレたりしないでくれ」
「おかしなことを言う。俺は単なる中年のオッサンだよ」
 私は笑ってはいなかった。深谷の心情が、何となくわかるのだ。
「何故かあんたとはやり合いたくない」
 馬が合う、とはそういうものだ。数こそ多くないが、そんな相手がどこかにいるものだ。ホテルへの出入りを認めたのも、金ばかりでもなく、何となく気になる存在だったからだ。もしこれが高村なら、社長の引きならばどうしようもないが、個人的には絶対に受け入れていないだろう。私はグラスに半分ほど残っていた、水割りを一気に呑み干した。
「先のことはわからん。その場になって、俺がどこに立っているか。それだけだ」
 私はそう言って立ち上がった。深谷もうなずいて立ち上がると、これからどうするんだ、と言った。
「そのへんをぶらついてみる」
「女か」
 応えなかった。
「止せ。泊まっているホテルにいいのを送るよ」
 私はそれにも応えなかった。受けてもいい。そんな気になっていた。歩き始める。深谷が携帯を取り出した。短縮をプッシュした。私の眼の前に迫る、巨大なミラーが深谷を映していた。ミラーの中で眼が合う。深谷は軽く、右手を上げた。
 
 町に戻ったのは、翌日の夕方だった。事務所に顔を出しただけで、そのまま帰宅した。その直前、幸一が近づいて来て、「お疲れ様でした」と言った。従おうと努力しているようだった。
 帰宅して、一時間余り、テレビを観ていた。ニュースの時間帯で、偶然にもこの町に建つ予定の水族館のことが、全国版で取り上げられていた。それだけ巨大なプロジェクトということなのだろう。まだ地上げも完了していないはずなのに、一ヵ月後には入札が行われる見通しだということだった。
 市長の脂ぎった顔が画面いっぱいに出ていた。現実味を帯びてきた。深谷の血走った顔を想像した。ニュースが終わってすぐ、電話があった。深谷からだった。
「たったいま、ニュースで取り上げられていた」
「ああ。俺も観ていた」
「入札のことだがーー」
 深谷は束の間、沈黙した。
「俺の縄張り内に高村が足を突っ込むことに対しては、もう少し傍観することにした。本家もそう言ってるんでな。しかし、替わりにこっちの息のかかった企業に入札をさせることにした」
「ほう。まずは正攻法ということか」
「まぁ、そうだ。だが、高村には改めて、俺自身が落とし前をつけさせる」
「結構じゃないか。入札するしないは自由だ。何も問題はないはずだ」
「そこだよ」
「札の値か」
「さすがに早いな」
「言ったはずだ。協力する気は毛頭ないし、たとえそうしたくても、俺にそんな力はない。無茶は言わんでくれ」
「あんたは大和田の近くにいる」
「近くにいてもそんなこと、話題に出るはずはない。近くて遠い存在だよ、あのオヤジは」
「しかし、すべては大和田が握っているのだ」
「協力する気はない。そう言ったはずだ」
 深谷のため息が聴こえた。
「定年までそこにいて、幾らになるんだ」
「今度は買収か」
「場合によってはな。何でもやる」
「さぁな。あの社長のことだ。定年になったってなるべく出すものは抑えようとするだろう。ひょっとしたら、間際になって、俺にありもしない言いがかりをつけて、一円も払わないってこともある」
「調べてもらえば、一生遊んで暮らせるぐらいの金は用意する」
「何百億ってテレビでは言ってたな」
「大和田が言わせた額だろう。自分のところはそれよりかなり安い額を張るはずだ」
「高くても市長とつるんでるならもとは取れるだろう」
「あくまでも印象よく立ち回りたいんだよ」
「おいしい話だな」
 私は半ば呆れていた。社長の近くにいるとはいっても、そこには付け入る隙がない。しかし、水族館が大和田の目論見通りに完成すれば、そこには数多くの飲食店も入ることになる。当然、大和田も出店するだろう。そうなれば、私も厭でも絡むことになる。大和田は建設工事での利益ばかりでなく、その後も半永久的に利益を得ようと、画策しているはずだった。
 だが、それも思惑通りにプロジェクトを組み、水族館を丸ごと自分が中心となり、完成させてこそ可能になるものなのだ。入札までは、あと一ヶ月しかない。
「無理は承知だが、どうしても探ってほしい」
「図々しい奴だな」
「ヤクザだからな」
「そりゃ、そうだ」
「礼は必ず、きっちりする」
「期待はしないでくれ」
 教える、教えない。探れる、探れない、はともかく、私にも興味が少なからずあり、調べてみようと思いつつある。
 大和田は重要な書類は、ホテルの大金庫に保管する。あるかも知れない。が、大金庫を開けられる者は限られていた。社内の動向の一切を大和田に報告する総務課長。それに、会計の責任者である、由梨絵だった。
 危険な匂いが凄まじい。緊張感。それはこれまでの半生では、絶対に味わえないものだった。餓えていた。充実感というものに餓えている。喉が渇く。由梨絵の声が蘇る。いかがわしいメッセージ。生臭かった。私は水割りを呑み、喉を湿らせてから、受話器を取った。この前の番号をプッシュする。午前一時。
「もしもし」
 微かに上擦っているような声が返ってくる。
「何していたのかな」
「あなたは?」
 由梨絵は何も気づいてはいないようだった。
「いま、何をしてたのかな」
 私は繰り返し、言った。由梨絵は含み笑いを私の耳に吹き込み、
「淫らなところを触っていたの」
「淫らなところってーー」
「あ・そ・こ」
「あそこって、どこだろう」
「意地悪……あそこよ」
 卑猥だった。由梨絵はすでに昂ぶっている。
「名前、教えて」
「サナエ」
 由梨絵はくぐもった声で言う。どうやら、本当に自分で触っているようだった。
「松永由梨絵の間違いじゃないのかな」
 私は唐突に言った。絶句している気配が伝わってくる。肯定したも同然だった。
「明日、会社で会おう」
 私は一方的に電話を切った。由梨絵の動揺している顔が、私の妄想の中に鮮明にあらわれていた。電話を切って三十分後ぐらいだった。携帯に電話があった。あるかも知れない、とは思っていた。むろん、由梨絵からだ。社内の者なら、私の電話番号は誰でも知っている。
「部長でしょうか」
「そうだ」
「これからお会い出来ますでしょうか」
 普段の口調に努めているようだ。しかし、あきらかにいつもとは違っている。息が荒い。
「いいが、もう、自分で終わったのか」
 私の直截な言い方に、
「とにかく、これからすぐに伺います」
 怒ったような声が私の耳を打ち、電話は乱暴に切られていた。由梨絵が私のマンションを訪れたのは、それから二十分ほど経過してからだった。ドアを開けると、中に入り、由梨絵の眼ははっきりと、私を敵視していた。
「上がれよ」促した。
「私はどうなるのでしょうか」
「とにかく、上がれ」
 由梨絵はなにごとかを決心しているように、靴を脱ぎ、六畳に足を踏み入れた。
「坐れ。コーヒーでも淹れよう。それともアルコールのほうがいいか」
「アルコールでお願いします。私がやりますから、ある場所を教えてください」
 開き直っているのだろうか。由梨絵は怯えているようには見えなかった。仕事の出来る者は、何をしてもそつがない。由梨絵は私から物の在り処を聴いただけで、すぐに二人分の水割りを用意した。
 室内は暖かかった。近ごろ、めっきり春めいていた。
 私はもう一度、坐れ、と言い、顎をしゃくり、場所を示した。由梨絵はTシャツにジーンズだった。仕事場からは想像も出来ないような、スポーティな装いだ。電話の後のせいか、女、そのものに見えた。
「私はどうなるのでしょう」
 由梨絵は繰り返す。
「どうにもならないよ」
「でも、明日会社で会おうとーー」
「会社で会う。毎日のことじゃないか。唯、女と見られることを嫌っているような仕事場のおまえと、女の欲求があからさまなあの電話とのギャップ。それが俺には嬉しかった。それだけだ」
 由梨絵はこの前のように、「おまえ」と言っても何も言わなかった。キッとなり、
「まさか、部長があんなところにーー」と唇を咬む。
 とことん気の強さがあらわれている。
「全国ネットなんだ。田舎者だからって、利用しないとは限らない。おまえだったそうしていたんだから」
「私はどうすればいいんでしょうか」
 強気は変わらなかった。見据えてくる。
「男一人のところに深夜単身で来る。それがどういうことか知らない年齢ではないだろう」
 私はそのとき、ヤクザそのものだった。
「私、子供じゃありません」
「取り引きするつもりで来たのか」
 無言のまま唇を咬む由梨絵に、
「それならお断りだ。それほど女に不自由はしていない。抱いて欲しいと希むなら喜んで抱く」
 由梨絵はプライドをいたく疵つけられたように、
「女が一人で男の部屋に来ているのに、抱いて欲しいと言わなければそう出来ないほど、私は女してどうしようもないのですか」
「そうは言ってない。取り引きならお断りだと言ってるだけだ。違うなら、俺のほうから土下座してでも抱きたいほどのいい女だよ、おまえは」
「だったら、真っ直ぐにそうすればいいのに。部長はつねに、私を避けているようでした。嫌われてると思っていましたから」
「逆だろう。社員全員が、おまえは俺を天敵のように見ていると噂している」
「私だって大人の女です」
「そりゃそうだ。それはさっきの電話でも充分にーー」
「もう、それは言わないで」
 声が尖る。
「長いのか」
 それには応えない。
「おまえのメッセージを聴いたのは二度目だ」
「言わないでください」
「弱味を握られて仕方なく抱かれる。そういう設定が必要なら、妥協してもいい」
「私、覚悟して来ました」
 私はうなずいて、裸になれ、と言った。ためらう素振りの由梨絵に、
「次からは純粋に、抱きたい、抱かれたい、というお互いの気持ちに動かされてそうなりたいものだ」と言った。
 由梨絵は水割りを呷るように呑むと立ち上がり、一気に私の眼に裸体を晒した。裕美ほどの起伏はないけれど、年齢相応に脂が乗り、私は昂ぶった。電話で欲望を満たそうとしていた由梨絵を思うと、私はもう、我慢出来なかった。由梨絵はある意味では、裕美などよりも数段、淫らで激しかった。貪欲過ぎた。
「欲しかった……。ずっと、欲しかったの」
 由梨絵は呻きながら、何度もそう繰り返した。あのいかがわしいクラブに登録している女の殆んどはプロか、それに近いものだろう。仕掛け人がいて、金を払い、女たちに餓えた女を演じさせる。むろん、女たちに金を払うのは、電話をかける、私のような客なのだ。
 メッセージを順番に聴いていると、何度も同じ女の声が録音されている。あぶれて焦り、必死に客を探している印象だった。しかし、仕事ではなく、本当に男が欲しくてあの電話を利用する女も、稀にはいるはず。美人不美人に係わらず、不思議と男に縁がなく、充分に成熟していながら、その肉体的欲望を解消する術がなく、夜を持て余す女がいても不思議ではない。由梨絵もその中の一人だったということだろう。
 ついさっきまでの、頑なな表情が溶けていた。顔が悶絶しそうに歪み、濃い陰毛が濡れて耀き、私との摩擦に焼けるような音をたてていた。由梨絵はこの一瞬、プライドをも失っていた。いや、棄てていた。私は動きを止めて、
「気の毒だったな。大っ嫌いな俺とこうなって」
「うるさい。いまは、唯、動いて」
 私は冷ややかな眼で、私の両手に抱えられた、由梨絵の腰と尻を見つめながら、機械のような動きを繰り返した。五分後、由梨絵は尻をヒクつかせて、突っ伏した。
「私を嗤っているのでしょう」
 再び水割りを呑みはじめた私を、由梨絵はまだ、物憂い表情のまま、見上げてきた。
「思いが遂げられた。酒が美味い」
「嘘」
「嘘じゃない。仕事場での生意気な言動も嫌いではないが、抱かれているときのおまえはもっと素晴らしい。弱味を握られて仕方なく俺の自由になりながら、途中からはどうしようもなく本性を曝け出し、姦ることだけに没頭しているおまえを見て、嫌がる男などいるはずがない」
「私をこれからどうするつもり?」
 口調までが変わっていた。
「簡単だ。俺の女になれ」
「厭です」
 口調がもとに戻った。
「厭なら仕方がない。これまでどおり、俺が会社を馘にならないかぎり、上司と部下。それだけだ」
「私って、そんなに価値のない女なのですか」
 挑むような眼だった。
「どういう意味だ」
「これ一度っきりで、明日から上司と部下。そう簡単に割り切れるほど、私って女としての魅力に乏しいのでしょうか」
「厭だと言ったのはおまえだ。悪い癖だな。何でも回りくどい言い方をする。はっきり言おう。おまえは女として魅力的だ。犯したくなる。だから、俺はおまえを抱きたいと思えば、あの電話のことを持ち出し、これからもおまえを抱く」
 自分を忘れるほどに悶え乱れても、私の言葉尻を捉えて、プライドを呼び戻している。この女のすべてを打ち砕き、つくり直してみたい。私はそんな欲望に駆られていた。
「私、部長の女になることは厭だと言ったんです」
「だから、どういうことだと訊いている」
 由梨絵の股間に手をのばした。由梨絵はその手を振り払い、
「部長が私の男になってください」
 唖然とした。直後に、これまで以上の興味を覚えた。付き合いを続け、私を部長の女にしてください。そう言わせた瞬間が、由梨絵のプライドを打ち砕いたときなのだろう。その光景を脳裏に描きながら、
「いいだろう」と私は言った。
「本当ですね」
「嘘は客にしか言わない」
「私、男に支配されるのって好きじゃありません」
「そのようだな。会社でも可能なら一切を支配したがっているように見える。だから、嫌われる。もっとも、確信犯だから、嫌われたって痛くも痒くもないだろうが」
「仕方ないわ。私は私だから」
 口調に微かに女が滲む。由梨絵はつぶやくようにそう言った後に、今度は自ら私の股間を探り、顔を寄せてきた。頃合を見て、由梨絵は馬に乗るように私に跨り、積極的に事を進めると、
「本当に私の男になってくれるのね」
 熱い吐息とともに言う。
「そうしよう」
「嬉しい。もう、あんな電話なんかしなくて済む」
 由梨絵は顔を紅潮させ、これが私! と、叫ぶように言った。
 
 入札まで、あと二十日しかない。この十日間、探ってはみたものの、入札値は皆目わからなかった。
 深谷からの連絡もあれからない。ホテルは満室状態が続いていた。私の仕事はホテルを満室にすることに尽きると言ってもよく、そうなれば、来館する客たちの世話は館内勤務のスタッフに任せて、再び、新しいターゲットを探しに旅に出る。その繰り返しだった。
 明日から営業で、再び、東京横浜方面に出かけることになっている。その前日である今日の私は暇だった。
 のんびり過ごすことに決め、島に渡ることにした。釣りでもしようと思ったからだ。もうすぐ四月。島は遅咲きの椿が満開だろう。島は私の生まれたところだった。家族はいない。家だけが残っている。歩いて数分のところに棲む叔母が、家の手入れをしてくれている。
 滅多に行かない。気が向くと出かけ、誰もいない家で一泊してくる。一人きりだった。
 船に乗る。島に着くまで、うみねこが群れを成し、船を追いかけていた。午前十時。島は暖かかった。久しぶりだった。この前が三年前になる。家の内外がきれいに整頓されていた。
 少しばかりの庭にある、木々や草花もきちんと手入れされている。几帳面な叔母の性格がよくあらわれていた。私は一通り、家の中や周辺を見て歩いた。自分の家なのに、違うような気がしたからだ。十年前に死んだ父親が建てた。築二十年。古いが広々としている。充分過ぎるほどの空間。しかし、何故か落ち着かない。父親が死に、その二年後には母親も亡くなって、私にはこの家と、かなりの額の金が残された。死ぬまでの間、そこそこの暮らしが出来る金額だった。
 家の裏に回り、納屋に入った。釣り道具一式が置いてある。高価なものは一つもない。竿も二、三千円程度のものだ。その中の一つを持ち出して、リールの具合などを確かめた。錆もなく、昨日使ったばかりのように整理されている。叔母の夫の仕事だろう。
 島に渡ってすぐ、家に来る前に叔母の家に寄った。五万渡した。それだけだった。子供のいない叔母夫婦にとって、私はいつまでも手がかかる、子供のような存在なのかも知れなかった。
 私は釣り道具を担ぐと、近くの浜に向かった。
 
 釣りはホテルの部下たちと、何度か船を仕立ててしたことはあるが、好きだと感じたことはなかった。唯、何年かに一度か二度、無性に海に行きたい、と思うことはある。行けば、釣りをする。
 今回は少しばかり、趣きが違っていた。ふと、島に帰りたい、と思ったのだ。その延長線上に、釣りがあった。浜に着いた。白い砂浜で、乾いている砂の上を歩くと、キュッ、キュッと鳴く砂だった。鳴り砂と呼ばれている。気分によっては、泣き砂のようにも思える。何もない島で、景色と鳴り砂だけが有名だった。
 子供のころと比較してみると、浜全体が痩せたように感じられる。上背のない子供の眼で見たので、当時は大きく感じられたのだろうか。記憶では、浜全体が鳴り砂だった。いまはほんの一部分だけだ。私は鳴り砂を踏みしめながら、浜を端から端まで歩き、岩場に渡った。ベンチのような岩に腰を降ろすと、ゆっくりと釣りの準備をはじめた。
 餌は青イソメで五百円だった。昔は漁師も含めて、殆んどの釣り人はエラコを餌に使った。この場所はアイナメがよく釣れたポイントだった。いまは知らない。
 海は穏やかだった。しかし、浅瀬でも沖へ引く潮の力が強く、油断の出来ないところだった。投げた。糸が潮により、左右に揺れている。上下への潮の動きはない。糸が上下に動いた瞬間が、魚の喰いついたときだ。一時間。私は小さなアイナメを二尾あげただけだった。欠伸が出る。竿を固定して岩に寝た。空が眩しい。青空なのに、微かにミルクをかけたように、青がくすんでいた。
 四月にしては暑かった。しばらく眼を瞑って寝転んでいると、人の気配がして、「曳いてるよ」声がした。眼を開けて起き上がる。潮焼けした老人が、短くなった煙草を銜えながら、私の釣竿を指差していた。巻く。二十センチ。磯ではまぁまぁの大きさだろう。
「どうも」
 軽く老人に会釈した。
 老人の顔には見覚えがあった。繭子の顔が甦る。二十歳の夏。私を棄てた女。私を腑抜けにし、気概を去勢させた女。老人は繭子の父親だった。繭子も島の生まれだったのだ。老人は私を忘れているらしい。無理もない。もう、三十年が過ぎ去ったのだ。当時、老人は四十をいくつか越えたぐらいだった。
「近ごろは島の磯も釣れなくなった」
 老人は私の隣に腰を降ろした。矍鑠としていた。
「変わりましたね」
 私は沖を見たままだった。沖に点在する小さな島々を包む海面が、養殖の筏や浮き玉で埋められていた。もう、私などの眼では、この海を小舟で移動するのも困難なほど、海は迷路のように、人の手で区切られていた。
「おまえも変わったな」
 愕いた。老人の顔を見る。
「いまさらと怒るかも知れんが、いまのおまえのようだったなら、繭子をくれてやってもよかった」
 老人は射すくめるような眼で、私を見据えた。私も見返した。私を覚えている。
「愕きました」
 素直な気持ちだった。睨みあいのような視線を先に逸らしたのは、老人のほうだった。間際、一瞬ではあったが、老人の眼がしばたいたように見えた。
「忘れるわけがない。娘を好きになった男であり、娘の最初の男でもあり、この俺を罵倒しくさった男でもあるからな」
「とっくに忘れていると思っていました。俺にはつねに憎しみの対象でしたから、顔を見てすぐにわかりましたが」
「殺したい、とは思わなかったか」
「三十年も前のことです」
 嘘だった。その三十年。私は自失し続けていたのだ。老人は私を見て変わったと言ったが、そうではない。当時もそれなりにワルだった。唯、いまのように歪んではいなかった。
 十七歳のとき、はじめて新聞に載った。少年A、としてだ。喧嘩だった。いまも続けているが、高校では空手をやっていた。正式なものではない。気の合う仲間たちと集まり、出鱈目な練習をしていた。自己流でも日々鍛えていたぶん、私たちは強かった。界隈では敵なしだった。あれは空手ではなかったのだろう。喧嘩の訓練だった。
 手錠をかけられた。大学生の体育会系が、島に合宿していた。十三人。浜の隅にテントを張り、いつも走っていた。夜。その中の一人が、私たちの仲間である、女の子にちょっかいを出した。繭子もいた。理由はそれだけだった。私たちは深夜になってテントを襲い、三人で十三人を完膚なきまでにぶちのめした。普通なら、返り討ちにあっていただろう。海に誘い込んだのだ。海でなら勝てた。奴らは海中での私たちの動きについて来られなかった。
 めった打ちにし、一人ずつ、砂浜に引き摺り上げた。まだ終わりではなかった。全員の眼や鼻、耳の中にまで掴んだ砂を詰め込んだ。警察が来たのは翌朝だった。それであえなく捕まった。海では同じような喧嘩を二度もした。もう一つはヤクザ相手だった。
「女なら、三十年前のことは忘れられるかも知れん。しかし、男はなかなかそうはいかんものだ」
「他人事のように言いますね」
「あのとき、何故おまえに娘をやらなかったか、わかるか」
 少しずつ、怒りが込み上げて来た。
「二年間、繭子は俺のものだった」
「そんなことが何になる。何故二年もの間、自由にされて来た娘をおまえにやらなかったか。それがおまえにわかるかと言ってるんだ」
「その価値がないと思ったからでしょう」
「そうだ」
 老人はきっぱりと言い、ポケットから煙草を取り出した。ついさっき喫っていた吸殻は、岩で消した後に、ポケットに入れた。海は汚さない。漁師の掟なのだろう。私はすでに三本、海に投げ棄てていた。
「おまえは当時、繭子に夢中になり、自分を見失い、腑抜けになっていた。娘はそれに気づき、どうにかおまえらしさを取り戻させようと必死だった」
 そうかも知れない。私は事実、繭子に夢中で、他は何ひとつ、眼に入らなかった。また、その必要もなかった。
「娘も夢中だった。しかし、一方で女は現実的だからな。いつまでも眼が醒めないおまえに不安を感じた。責められない」
「それと、いまさっき言った、いまのおまえなら、ということとの関連は何ですか」
「夢中でもいい。娘に夢中で、他は何も眼に入らないと開き直るならまだよかった。そんなおまえなら、娘も泣きはしても続いていたかも知れない。おまえを喰わせてろうと思ったかも知れない。しかし、おまえは恰好ばかり気にして、娘を騙し、不安を増幅させた。明日にでも仕事に就く、などと言っては期待させて。どうせなら、何にも言わずにヒモに徹すればいいものを、おまえはあれほど愛し愛された娘を騙した。娘の赦せなかったのはそこだ。貧乏でも仕事しなくてもいい。だが、嘘だけは赦せなかった。おまえにとっては娘を思ってのことだったのだろう。そんなことぐらいで、と言うかも知れない。しかし、女は惚れた男の嘘は赦せないものらしい。情けない、と言っていた。……だが、いまのおまえは当時とは違うようだ」
「好き勝手に過ごしています。女もいるが、幸せにしようなどとは思わない。唯、俺に都合のいい女であればいい」
「感心はしないが、それなりに覚悟は感じる。以前はそれがなかった。繭子は普通の娘じゃない。俺の娘だ。あいつはおそらく、俺の都合のいい女でいろ、と言い続けていたならば、いまもおまえと一緒にいただろうし、俺も反対したところでどうにもならなかっただろう。だが、おまえは娘に余計な期待を抱かせた。それが普通の幸せを求める、娘の普通な部分を刺激した。俺を見続けていたからな。好き勝手に生きる男が男として普通だと思いながらも、娘は母親のようにだけはなりたくない、と思い、葛藤し続けていた。おまえの変なお人好しの性格が、不幸なままに死んでいった母親の姿を娘に甦らせたのだ」
 それがどうした。繭子の母親ということはおまえの妻だろう。それを不幸にして死なせたのはおまえじゃないか。私は無言で毒づいた。俺を裏切った娘を庇う、言い訳に過ぎない。そうとしか思えなかった。口を突いて出そうだった。それをどうにか、抑えた。
「結果、俺は毀れましたよ」
 我ながら、女々しいことを言っている、と赤面しそうだった。が、それは紛れもない、事実だった。
「そのせいじゃない。すべてに半端だった。それがおまえを駄目にしたんだろう」
「もう、いい。俺は昔を思い出しに来たんじゃないし、あんたに会いに来たんでもない。釣りをしに来てるんだ」
 込み上げてくる怒りが、私の口調を伝法にしていた。
「若いころ、毎日のように繭子と来ていた浜に、か」
「余計なお世話だよ」
 老人は空気が漏れたように笑い、
「娘はいま、湘南の葉山にいる。結構裕福に暮らしている。子供も最早独立して、一人でどんな思いでいることやら」
「一人で、とは」
「亭主は死んだ。会社を経営していてな。財産だけは遺して逝きおった。もっとも、あの男が生きていたとしても、一見幸せには見えるだけで、娘は退屈していただろう」
「それはまたーー」
「娘の亭主にはギラギラしたものがなかった。会社だって、娘が社長のようなものだった。だから、金だけは残した」
「一見でも、幸せに越したことはない」
「いまのおまえは獣のような眼をしている。娘と付き合う前も、島では評判の悪ガキだっだが、いまはそのとき以上だ。いい歳をして、何てこった」
「獣ですよ。繭子の名前を耳にするだけで吼えたり噛み付きたくなるほどのね」
「三十年。長いのか短かったのか。おまえがおまえじゃなくなっていたという三十年だが、娘だって同じような時間を過ごして来たのだ」
「幸せにね」
「一見な……。連れ合いは娘を大事にはしただろうが、夢中ではなかった」
「何が言いたいのかな」
「もう一度、ヒリヒリした時を過ごさせるのもいいかも知れん、と思ってな。罪滅ぼしのような気がしないでもないがーー」
「独立したとはいえ、子供たちもいるのに、勝手なことをーー」
「承知しておる」
「不幸になる」
「不幸が幸せのときもある」
「勝手なことをーー」
「そうだ。この俺が、俺やおまえとは正反対の男を見立て、見合いさせて強引に結婚させたのだからな」
「不幸になる」
「しかし、このまま一生を終えるつもりでいたわけでもあるまい」
「繭子と会っていきなり強姦し、幸せを毀して嗤ってやろうと決めていた」
「俺でもそうしたいと思うかも知れない。元気なうちにーー」
 老人は立ち上がり、
「おまえの嫁にはならなかったが、娘はおまえの女だった。その娘も五十だ」
「そりゃそうだろう。俺と同い年なんだから」
 私は鼻白む。
「いまおまえが言ったこと。一応、これでも人の親だ。もし本当にするなら、俺の死んだ後にしてくれ」
「俺のほうが先に逝くかも知れない」
 私は煙草を銜えた。
「海には棄てるな」
 老人はそう言い、
「俺はおまえを嫌いではなかったよ。それはいまも変わらない」
 複雑な表情でそう言うと、老人とは思えない軽快な身のこなしで、岩を歩き、鳴り砂の浜に降りると、のんびりとした歩調で、砂を踏みしめながら、遠ざかって行った。
 運命なのだろう。三十年ぶりなのだ。ふと島に行こうと思い立ち、釣竿を手に、鳴り砂の浜に来た。繭子の父親に会うまでは忘れていた。
 偶然とは運命なのだ。私を嫌いではなかった、と言っていた。嘘だ。私には赤鬼のように顔を真っ赤にして激怒した、繭子の父親の記憶しかなかった。三十年という時間が、あの老人をも変化させたのだろうか。そう思うほうが無難だろう。どうあれ、私は三十年前の夏の日以前に戻ろうとする自分に、ブレーキをかけようとは思わなかった。再び釣り糸を垂らした直後だった。
 携帯が鳴る。由梨絵からだった。
「六百五十億」。
 由梨絵は一言で電話を切った。入札の値だった。何ひとつ外部からのアクションがなければ、大和田はこの金額を書き、工事を落札する。ホテル内の大金庫。経理の責任者である由梨絵だからこそ、何の疑いも持たれずに開けられる。
 あるはずがない。そう思っていた。が、大事なものはすべて、大金庫に保管する、大和田の習性に賭けてみた。ついている。由梨絵をモノにしたことが、ツキを呼び始めたのだろうか。
 
 深谷が係わる建設会社が、正式に入札に名乗りをあげた。
 談合に加わっていた工事関係者には、寝耳に水のはずだった。けれど、後れた参加に、嘲笑されもした。大和田の息のかかった関係者の談合だけに、それも当然だろう。誰の眼にも、勝負はあったと思われていたのだ。しかし、その翌日あたりから、町には見馴れない、人相のよくない男たちの顔が増え始めていた。
 対抗するように、深谷も人数を集めているようだった。間もなく、中傷合戦が始まった。絶対に新参者に仕事は廻らない、という確約のようなものはあっても、やはり、不安なのだろう。
 唯、何の目論見もなく、新しい業者が入札に加わるはずはない。そう思う人は多い。大和田関係者としては、一切、滞りなく、受注まで突き進みたいのだ。
 どこかが、後れて入札に加わると表明した会社は、裏社会に通じている、という風を流した。深谷が動いた。深谷は敵の談合を同じように風に乗せると同時に、地元の左寄りの新聞が、それに関連する、市長と町の第一人者という見出しで、書き始めた。
 暴力沙汰こそまだなかったが、真っ向からのぶつかり合いだった。市長と、名前までは出なかったが、大和田との関係が浮上した以上、このままで済むとは思えなかった。まだ平然とはしているが、裏では大勢の人間が暗躍しているはずだった。
 翌日、私は大和田に呼ばれた。自宅に来い、と言われた。はじめてのことだ。町のど真ん中に、鬱蒼と木々が繁る広い庭を持つ、眼を瞠るほどの豪邸だった。ガレージには乗りもしない高級外車が三台もある。
「どうだね、幸一は」
 応接間ではなく、居間に通されて、お茶を啜ると、大和田は意外にも穏やかな声でそう言った。しかし、微笑んではいたが、眼は笑っていなかった。お手伝いの姿は見えない。そういう無駄な雇用はしないと聴いていた。後妻らしく、大和田とはだいぶ違うような夫人が、自らお茶を淹れてくれた。四十歳前後だろう。見事な肢体をしていた。
「営業マンとしての資質はありそうですね。社長のご子息ですから」
 大和田は自分で訊いていながら興味を示さず、
「リアス新聞は見たか」
 不意に本題に入って来た。夫人は姿を消していた。
「はい」
「どう思う」
「さぁ、難しいことは私には何もーー」
「この期に及んでシラを切るな。おまえが深谷と通じているという噂は、俺の耳にも届いている」
「別に。唯、何となく気が合うというだけで」
「ヤクザとホテルマンがか。ま、いずれにしても、あるまじき交流だ」
 私が無言でいると、
深谷との関係は何も言わん。しかし、おまえは俺に雇われているということだけは忘れるな」
 それが口癖だった。社員を下僕同様に思っている。備品も何もかもが、すべて自分のものだという発想だった。社員など、消耗品ぐらいにしか認識していない。
「わかっているつもりです」
「どうわかっていると言うんだ。説明してみろ」
「……」
深谷と仲がいいなら好都合だ。後から入札に絡んで来た業者は、深谷の本家筋の息のかかったところだ。奴らがどんな額を書いてくるのか。それを探れ」
「額とはーー」
「馬鹿か。入札に書く金額に決まってるだろう」
「言うはずがないでしょう」
「こっちから逆に情報をくれてやれ。国からの助成が大半以上の大型プロジェクトだ。九百億。そう言ってやれ」
 まだ、自分の書いた金額が盗まれていることには気づいていないらしい。ゾクゾクする。私は、わかりました、と言って立ち上がる。
 
「きな臭い匂いがたちこめていますね」
 社長に呼ばれてから、三日が過ぎた。事務所から出てラウンジに行くと、私を追うように近づいて来た幸一がそう言った。
「おまえの親父の歩くところ、きな臭くないところなどない」
 コーヒーを呑もうと、ラウンジの隅のテーブルに着く。幸一もそうした。ウェートレスが慌ててコーヒーを二つ持ってきた。正面玄関のほうに視線を移すと、大和田がフロントスタッフの見送りを受けながら、回転ドアの向こう側に消えるところだった。
「水族館のことでしょう」
 私は応えなかった。
「俺は何しろ、あの社長の息子ですから」
 幸一は正面玄関のほうに顎をしゃくった。
「知らんね」
「そうですか。俺は協力しようとしているのに」
「何しろ、社長の息子だからな。その気になったら力を借りよう。それまでは余計なことは考えず、早くホテルの仕事を覚えることだ」
「まだ、ひょっこですからね」
「そうだ。俺が社長に頼まれているのは、せめて、課長連中やその下の者たちに、馬鹿にされないような水準まで、おまえを鍛え上げることだ」
「部長から見れば、たしかにまだひょっこでしょう。でも、俺はあの社長を親鳥に持つひょっこですよ。だから、部長には見えない、ただのひょっことは違う眼というものを持っている」
「口だけは達者になったな。だが、いまのおまえが俺に対して何の協力が出来ると言うんだ。まさか、俺があのおまえの親父を殺せと言っても、出来るわけがないだろう」
「部長は本当にそう思っているようだ」
「例えばの話だ」
「俺、事と場合によっちゃ、殺るかも知れないな」
 冗談とも思えない口調だった。私は幸一を見据えた。その口元が綻んでいた。
「親、という気がしないんでね」
 幸一はコーヒーを呑み、
「間違いなく、本当の親父ではあるんですが」と続けた。
「軽はずみなことを言うんじゃない。おまえのような小僧とは違い、自分にマイナスになると思ったら、あの社長は息子のおまえだって切り棄てようと思うはずだ。それだけ腹が据わってる」
 幸一は愕きもしなかった。
「あいつは顔色も変えずにそうするでしょうね。おふくろをそうしたように」
「何?」
「むろん、直接手を下して殺したわけじゃない」
「どういうことだ」
 溝というか、親子の間で、かなりの亀裂があるようだった。
「いまはまだ、話したくない」
「それなら最初から黙ってろ」
「話す。でもいまはまだ、駄目だ。部長はまだ、俺を信じちゃいない。唯、これだけは言える。俺をホテルに入れたのだって、世間体に過ぎない。女将だって俺とは母親が違う。あいつには自分だけがすべてで、周囲は、俺や女将を含めて、すべて自分を生かす存在としか見えていない」
「聴かなかったことにしよう」
 幸一の言っていることは事実だろう。本音に違いない。私にとっては、上等な情報だった。
「俺は本心から部長が俺を信じてくれるなら、協力してもいいんだ」
「知り合ってから日も浅い。信じるとか認めるとかは一朝一夕にはいかない。また、そんなこと言われる筋合いでもない」
「何だよ、分別臭いことばかり言って。付き合った時間なんて、何十年そうしたところで信用出来ない奴だっているだろう。げんに、俺と親父のようないい見本があるじゃないか。理由は知らないけど、部長は親父を敵視している。親父も部長を幹部に据えながら、胡散臭い眼で見ている。俺はだから、それだけでも親近感を覚えているんだよ」
「ひょっこだ、おまえは」
 私が社長を敵視している。そうだろうか。少なくとも、キレるまでは、私にとって社長は絶対的な存在だった。四十歳でこの町に戻った。若いならともかく、その歳での田舎町での雇用は難しかった。それを拾ってもらった。
 ホテルは素人だった。だが、二年後、大和田は私を課長にし、八年後には部長だった。そしていまが営業統括部長だ。飼われている。素人だけに仕事を吸収するのは早かった。覚悟がそうさせた。数字もあげた。しかし、私は大和田に飼われていたのだ。
 それが不意にキレた。瞬間、すべてが無意味になった。大和田だけに限らない。むしろ、大和田に対する意識など、小さいかも知れない。すべてを失い、病葉のように流れていただけの三十年。大きかった。比較すれば、大和田の存在など、屁のようなものだった。つねに捌け口が必要だった。裕美であり、由梨絵を蹂躙することにより、捌け口とし、飼い主である大和田に反抗した。
 いや、そうだろうか。裕美は都合のいい女で、由梨絵も従順になりつつある。それらと比較すれば、大和田はとてつもなく大きい。
 大和田を裏切る。それは町の権力への挑戦でもあった。戦慄するほどの緊張感。充実感。求めるのはそれだった。大和田は私にとって、満足感を得るための巨大な玩具。反抗してはじめて、完璧なまで武装して戦いはじめる、怖ろしく有能な玩具なのだ。
 ホテルに深谷の関連業者を出入りさせる。水族館建設に伴う入札値を深谷にリークし、権力者を混乱させる。私は単に、そのことに刺激を覚え、パソコンのキーを一つ叩いたようなものなのだ。しかし、幸一が言うように、このまま進めば、さらに危険な刺激を求めて、大和田を本気で怒らせ、自分も徹底的に対立するだろう、という予感があった。
「俺はまだ、おまえを信用していない」
 私は残っていたコーヒーを一気に呑み干した。
「親父は部長の変化に気づいている」
「俺はまだ、おまえの変化に気づいてはいない」
「わかった。すぐにでもあんたに、この俺の変化を見せてやる」
 部長が、あんたに変わっていた。幸一は立ち上がり、事務所に向かった。私は町に出ることにした。車に乗った瞬間、電話があった。由梨絵だった。逢いたい、と言う。逢うことにした。従順にはなりつつあるが、私はまだ、由梨絵の男のままだった。
 今日、由梨絵は休みをとっていた。モーテルなどで逢うことを嫌う女だった。私と関係するまでは、両親や弟夫婦とともに暮らしていたが、私とのはじめての夜から半月後には、小洒落たマンションに移り棲んでいた。
 女としての体裁をまったく棄てているような日常だったので、由梨絵は愕くほどの金を持っている。ホテル内で、従業員たちに金貸しもどきのことをしている、との噂もあった。事実だろう。敢えて、確かめはしなかった。若い社員に限らず、地方の小さな港町のサラリーマンの給料は、都会生活を少しでも体験した者の感覚では、想像も出来ないほどに低い。とくにこの町はひどかった。
 私も面接のとき、自分の給料の額を聴いて、愕くよりも笑いたくなった。都会にいるころの、一ヶ月の呑み代にも満たなかった。物価だけは都会並みなのだ。それで生活している。私には手品のようにしか思えなかった。
 外に働きながら、家では自給自足を心がけ、年寄りたちは畑や田圃を耕している。夫婦はほぼ共働きだった。それで何とか凌いでいるのが現状なのだ。そのせいか、町の規模に比べて、サラ金の数が異様に多い。大和田も二、三、経営している。由梨絵が社員を対象に、小口の金貸しをしていても、何ら不思議ではない環境なのだ。
 私は由梨絵のマンションに行き、抱いた。由梨絵は私の男になってと言いながらも、私に従いつつある。急速に変化している。実態のない電話でのセックスしかして来なかったせいか、由梨絵は生身の男に触れて、自分を失いつつある。
 私が三十年という過去を取り戻そうと急いでいるのと同様、由梨絵も乾ききった肉体に大量の水を注ぐように、逢うたびごとに動物の雌に近づいていく。
 危険を省みず、金庫の中を探り、大和田の秘密を教えてくれたのも、そのせいだろう。由梨絵は堂々と金庫を開けた、と言っていた。私は管轄外で、暗証番号さえ知らなかった。必要もないが、教えろ、と言えば由梨絵は教えるだろう。セックスと過剰なほどの緊張感。いずれも一度味わうと、切り難い。麻薬のようなものなのだ。
「私のこと、何も訊かないのね」
 一度終わり、汗もそのままに腹這いになる。
「訊いてほしいのか。言いたければ、聴きたくないと言っても言うだろう」
「そうだけど、抱いたり抱かれたりすれば、その人のすべてを知りたいと思うのが普通じゃないの」
「俺もおまえも普通じゃないだろう。それに、訊くまでもなく、多少はわかる。むろん、処女ではなかった。それどころか、熟しすぎていた。電話に縋ったのも、熟れた肉体を持て余し、どうしようもなかったからだろうし、それ以上に独りが寂しかったからだろう。それだけ、おまえの過去は大きかったということだ」
 由梨絵は無言で宙を見つめていた。当たらずとも遠からずというところだろう。私は口から出任せを言ったに過ぎない。四十歳の女が、一つや二つ、過去に自分が毀れるような恋愛をしていないわけがない。
 肉を這う私の指が、一つ、また一つと、由梨絵の過去を捜し、その肉体は正直に反応し、過去の体験を告白し始める。
「ずっと、眼の前にいるのにーー」
「社内にか」
 由梨絵は再び無言になった。堪えている。
「棄てられたのか」
 由利恵はそれには応えず、
「次に男が出来るとすれば、あなたのように強姦でもされない限り、無理だと思ってた」
「俺は強姦などしていない」
「でも、電話のことで脅かして」
 強姦に等しい行為ではあった。だが、私にとってはどうでもいいことだった。欲しいのに、得るための行動もせず、悶々とした時間を過ごし、やがてあきらめるよりはずっといい。
 いつもそうしていたならば、私のいまは違っていたはずだ。あの夏も、がむしゃらに、思うがままに行動していたならばーー。
 鳴り砂の浜で偶然に遇った繭子の父親が、いまのおまえのようだったなら、娘をくれていた、と言っていた。
「期待通りの男があらわれた。そう思えば済むことだ」
「私を石っころのように棄てといて、会社には必要だからと辞めることも赦されず、男をつくることも駄目で、体のいい金庫番として縛り続けて来た男なのよ。私の父親のような歳なのに。もっとも、私の性格では、自分から男をつくろうなどとは思わなかったし、私に見合う男など、この町には絶対にいないと思ってもいた」
「だから、変に色目を使う俺をも毛嫌いしていたってことか」
「違うわ。たった一人、気になる人がいた。それがあなた。だから尚、私はあなたを認めたくはなかった」
「素直じゃないな」
「悪党とこうなっているんだもの」
「悪かったな、悪党で」
「嬉しかった」
 由梨絵はそう言って、私に密着して来た。私は由梨絵の言った男を想像していた。訊こうとは思わなかった。明白だった。大和田に違いない。金庫番として縛る。大和田だけが出来ることだった。これで私は、さらに大和田に疎まれることになる。ゾクゾクする。
「裕美もあなたの女なのね」
 由梨絵はポツンと言う。かつて、裕美との仲を言い触らしたのは由梨絵、とその裕美が言っていた。
「そうだ.間違っても俺のことを、私の男、などとは言わない女だ」
 由梨絵は自嘲気味に笑い、
「もうそんなこと、私だって言わなくなったでしょう。あなたに女として狂わされてまで言い続けるほど、私だって厚かましくはありません」
 由利恵はそう言った後に、
「男はみんなそうだけど、あなたも、若い女が好きなのね」と言った。
「違う。裕美は面倒臭くないからだ」
「私はかなり、面倒な女だものね」
 由梨絵は私の背中に唇を這わせて来た。
「それじゃ、もう一度面倒だが汗をかくか」
 私は仰向けになる。由梨絵が鬼のような形相でよじ登ってくる。私を見おろし、怖い、と言った。見つめていると、汗が降ってきた。泪のようだった。
「怖い。でも、もう、離れられない」
「挿れろ」
 うなずいた。由梨絵は自ら私をあてがい、腰を沈めてきた。
「今日から、おまえのすべては俺のものだ」
 責任を持つつもりなど毛頭ない。主従関係を明確にする。それだけなのだ。由梨絵はうなずきを繰り返しながら、怖い、と再び言う。私が怖いのではない。過去が怖いのだ。大和田しかいない。
「怖くはない」
「力があるわ。とてつもない力が。それに嫉妬心も異常。飽きた玩具でも、他人の手に渡すのは絶対に厭な人なの」
「死を特別なことと思うから、そうして怖がるんだ」
 由梨絵の動きが止まる。見つめてくる。
「開き直って、思うままに過ごせばいい。もう、おまえは過去の男のものじゃない。いまのおまえはこの俺の女なんだ。その男が何か仕掛けてくるなら、そのときにはこの俺が護る。俺の女だからな。過去にキレてしまえ。そうすればも怖いのは自分に対してだけになる。それがゾクゾクするようになる」
 私は両手で細い腰を掴み、上下に揺すった。長い髪が舞い、私の胸を掃く。
「そうね。もう何に対してだって、怯えるような歳でもないものね」
 由梨絵はふっきれたような顔をすると、猛然と尻を振りはじめた。瞬間、由梨絵はたしかにキレていた。私は由梨絵が生み出した愉悦と同時に、それとはまったく異質な快楽に襲われて、思わず呻いた。私の声に気づいた、由梨絵の動きがさらに激しくなる。ゾクゾクする。
 
 情報公開法が取り沙汰されてからだいぶ経つ。メディアでもその問題を日々取り上げていた。だが、官公庁などは依然として、公開はしても、肝心なところは黒塗りにして隠蔽するほうが多かった。この町は異様にそれが顕著だった。巨大プロジェクトを組み、巨額な金が動く今度の水族館建設に関する入札についても、殆んどが関係者だけで行われ、表には微かに漏れ伝わってくる程度だった。
 しかし、その入札が、突然、中止になった。騒然となりかけた。市役所の担当部長が、マニュアル通りに書類の作成が行われていない会社があるので無効だとして、一方的に入札を延期した。
 それならば、きちんと書類作成した会社だけで入札すればいいものを、それもしない。談合により、きちんと役割を決めた建設会社の他に、直前になり、深谷関連の会社の他に、新たに二社が入札に名乗りをあげた。町ではそれだけでもニュースだったが、落とすのは当然、大和田関連の業者だろう、と誰もが疑わなかった。
 過去にも二、三、例があったが、それらは悉く敗退し、他の業者はこの町には一歩も足を踏み入れることは出来なかった。
 一人として、自分以外の利益を思う人などいない。そのためには瞬く間に団結し、市をも動かしてよそ者を排除する。当然、裏で動くのは、大和田を中心とした町の実力者たちだった。
 大和田は数々の要職に就いていて、その地位を利用して様々なことを民意として、市側に上申する。市長が恭しく受け取る。民意だからだ。また、それが次期への票でもあるからだ。市長は市民の公僕という大義名分により、その上申は殆んど受け入れる。
 昨日まではそうだった。なのに、その民意が揺れ、割れた。入札が直前になって中止になったことで、後れて入札に加わった関係者が、不備だと指摘された書類を開示しろ、と迫り、騒ぎ始めた。
 いずれもプロだ。不備などあるわけがない。だが、後日改めて入札日を設けると告げただけで、市側は強引にそれ以上を断ち切った。私は深谷からの連絡でそれを知った。
 深谷は町は荒れ、混沌とするだろう、と言っていた。同感だった。大和田も荒れる。そう思っていた矢先、再び大和田からの呼び出しがあった。今度も自宅へ来い、ということだった。行った。居間に通される前、玄関にあらわれた夫人が、何かあったのね、と囁くように言う。
「さぁ」
「珍しく、カンカンよ。血管が切れそうなほどに」
 夫人は妖しく微笑む。妖艶だった。思わず、惹き込まれそうになる。
「怒った社長よりも、俺には奥さんの醸し出すフェロモンのほうが怖いけど」
 言葉を交わしたのははじめてだった。この前は無言のまま、お茶を淹れてくれただけだ。滅多にホテルへは来ないが、毅然とした印象だった。話してみると、雌の匂いが露骨に感じられる。由梨絵の顔を思い出す。由梨絵を飼い殺しにしようとしているのは大和田なのだ。夫人は知っているのだろうか。
「叱られ、撲られそうになったら救けてください」
 夫人は微笑んだ。居間の障子を開けた。夫人の言う通り、大和田ははっきりと苛立ちを顔にあらわしていた。テーブルを挟み、市の建設課長が正座していた。
「坐れ」
 大和田が顎をしゃくる。そこに坐った。掘り炬燵形式になっているので、正座したままの課長を無視して、私は足をのばした。大和田が見据えてくる。
「おまえ、深谷にちゃんと伝えたのか」
 私は思案顔を装い、
「何を、ですか」と言った。
「前にここに呼んだとき、伝えろと言った入札の額のことだ」
 大和田の大きな声に、建設課長の顔が引き攣る。
「いいえ。伝えていません」
「何だと」
 日ごろの紳士然とした顔を棄てていた。そこには一代で巨万の富と名声を手中にした成り上がりの、傲慢さしかなかった。
「私はホテルの一介の営業部長。そんな畑違いのことに口を差し挟むまでもないと判断しましたので」
「御託を言うんじゃない。おまえは俺の言う通りに動けばいいんだ。口を出さないだと。それなら奴らが出して来た金額は何だ。どういうことなんだ」
「私には何のことなのか、さっぱりわかりません」
「おい、説明してやれ」
 大和田は建設課長を自分の子飼いのように扱った。課長は全身を硬直させながら、
「はい。新規に名乗りをあげた三社が揃って六百億でした。社長様の率いる御社が六百五十億ーー」
「それじゃ、相手のほうに」
「馬鹿も休み休み言え。何のために市長を三期以上も飼っていると思ってる。即刻中止にさせた。しかし、問題はそんなことじゃない。何故、敵が我々の額を知り得たかにある」
 私は眼の前に置かれているお茶を啜った。茶菓子も口にした。
「おまえ、やけに落ち着いているな」
「いいえ。唯、私には何が何やらーー」
「この俺が、おまえを疑っていないとでも思ってるのか」
「ご冗談を。何故私を……。私はそんな大それたことは知る立場にありません」
「調べればわかることだ」
「ご自由に」
 私の対応に大和田はさらに苛立ち、
「俺はそういうおまえの態度が気に喰わん。前は飼い犬のように従順だったのに、最近、何かと俺に楯突くような口をきく。ガキじゃあるまいし、五十にもなる男のとる言動じゃあるまい。おまえはな、この俺の慈悲で養われているに過ぎないのだ。それを裏切りおって」
「裏切った覚えはありません」
「うるさい。誰だ、誰に金庫を開けさせた。松永か」
 由梨絵のことだ。私は無視した。煙草を銜える。
「何を言ってるいるのかはわかりませんが、一つだけ言わせてもらいます。申し訳ありませんが、私はあなたに養われたり飼われていると思ったことはありません。私は私の力で生きている。そこのところだけははっきり言っておきます」
「何をたわけたことを言っている。自分の力だと。おまえのような歳とってからの東京帰りが、この町で自分の力だけでどうやって生きていけるというんだ。俺のような経営者がいて、そこに何とか縋りつき、どうにか生活しているというのが現状だろう。この身の程知らずが」
「上等だ、この糞野郎」
 私は自分の声を、他人のそれのように聴いていた。
「きみ、社長様に対して何てことを」
「やかましい。てめえはすっこんでろ。この腰巾着木っ端役人が」オドオドしながら、あくまでも大和田に追従しようとする課長をも怒鳴った。課長の顔が真っ青だった。私は立ち上がりざま、課長の顔をテーブルに打ち据えていた。大和田は一見、動じていなかった。何度も修羅場を体験しているのだろう。
「失礼しますよ。大社長。これからは勝手に、この俺を敵と思っても結構。しかし、いまの俺は唯の中年男ではありませんよ。この歳になって眼醒めて、実は俺自身も困ってる。たとえあんたでも、その皺くちゃな喉に咬みつきますよ。そのことだけは覚えておいてください」
 私はそう言い棄て、歩き始めた。
「自分で犯人だと言っているようなものだな。俺は飼い犬に手を咬まれたことになる。こんなことははじめてだ」
 脅しているつもりなのだろう。私は振り返り、
「綺麗な奥さんですね」と言った。
 夫人が玄関のところに立っていた。
 すぐに手を打つ。市長にはよろしく言っておけ。建設課長に言う大和田の声が、後方から聴こえた。誰が敵で、誰が味方なのか。大和田にしてみれば、この結果も、一つの成果なのだろう。
「辞めるのかしら」
 靴を履く私の背に、夫人は言った。
「フリーの立場で、奥さんと会うのが愉しみになった」
「あなたって、少しも怯えていないのね」
 眼が妖しい。
「ずっと人の顔色ばかり窺って来たからね。残された時間ぐらいは好きに生きることにした」
「素敵よ。いくつになっても少年みたいで」
「皮肉か」
 夫人は首を横に振る。
「おい! 何をしてる」
 大和田の声がした。
 あれも前は素敵に思えたけど。夫人はそう言って、私に右目を瞑って微笑み、居間に向かった。和服の尻が、誘うように左右に揺れていた。
 
 いますぐ、生活に困るということはなかった。次の仕事を、と思わないではないけれど、当分は町の移ろいを見定めることにした。金はある。島に戻って、のんびりと釣りをしていてもよかったのだ。が、気が萎えるような気がして、思いとどまった。年に一、二度、海を見て過ごす。それぐらいが適当なのだ。しかし、戦うには島は必要だった。
 アパートでテレビを観ていた。町のケーブルテレビの番組だった。水族館建設の入札が、諸般の事情により延期になった。一度、それだけのコメントが報じられただけだった。
 電話が鳴る。深谷からだ。深谷はむろん、私が会社を辞めたことは知っていた。私が言ったのではない。情報網があるということだ。会うことにした。深谷と組むつもりはない。刺激に餓えはじめているだけだった。形あるものを毀したい、という欲求と同一なものだ。それは大和田の傍にいては遂げられない。権力側には守ろうという強い意識があっても、毀す醍醐味は余りない。守ることを邪魔する者だけを淘汰する。
 私には合わなかった。いまのところ、自分の利益を考えてのことではあるけれど、体制を毀そうとしているのは、深谷のほうだった。いや、そんなことよりも、私は深谷を嫌いではない。会う理由はそれに尽きた。
 喫茶店で会うことにした。真昼だ。もう、誰の眼も気にすることはない。私と深谷が向かい合って腰を降ろすと、喫茶店にいた客たちの眼の殆んどが、私たちに集まった。誰もが深谷がヤクザだということは知っている。だが、その評判は悪くない。私もホテルの営業部長としての名前は町に通っていた。異色の組み合わせなのだ。
「俺のせいか」
 深谷は言った。短い髪を少し長くすれば、有能な銀行員にも見える。深谷と対峙している高村もそうだった。顔だけならば、私のほうがヤクザのようだ。とくに最近は。
「誰のせいでもない。俺が決めたことだ。心配するな」
 深谷は怪訝な顔をする。
「ホテルへの出入り。あれはまだ生きている。生き続けるはずだ。まだ誰も知らないし、なにしろ安い。当分は続くだろう」
「そんなことはどうでもいい」
「取り引きがなくなれば、俺の実入りもなくなる。なにしろ、いまの俺は失業者だからな」
 深谷が苦笑する。
「入札に通り、工事を受注できたときには、約束どおりのことはする」
 私はうなずいた。
「今度はいつになったんだ」
「一ヵ月後らしい。次はあんな真似は通じないはずだ。話題になり、中央のメディアも多数立ち会う」
「これからの一ヶ月の攻防が大変だな」
 深谷は不敵に笑った。
「おそらく、いまこうして俺とあんたが会っていることも、敵に知れ渡っているだろう」
 そのとき、私の携帯が鳴った。由梨絵からだった。由梨絵は短く、五百八十億、と言って、電話を切った。
 不意に不安に襲われた。大和田が見ているような感じを受けたのだ。ホテル内の大金庫。そこから盗まれたことは大和田も知っている。再びそこに書類を置いているとしたならば、罠と思うのが妥当だった。
 由梨絵の仕業。大和田はそう見ている。どうなるか。自分の女だといまもって信じているような由梨絵を、大和田はどう処分しようとするのか。
 大和田に裏切り者を赦すような寛容さはない。馘だけでは済まない。厭な予感がさらに強まる。深谷は私の表情から、事情を測っている。私はすぐに携帯を開き、リダイヤルした。出た。
 由梨絵、罠だ。私は言った。
「構わない。ゾクゾクするのよ」
 由梨絵は日ごろの私の口癖を真似、ゾクゾクする、と繰り返し、逢いたい、と艶かしい声を伝えると、電話を切った。ため息が出る。
「五百八十億だと言ってる」
「五百五十というところだな」
 妥当な線だ。一度失敗している大和田が、同じ金庫に正確な数字を置くはずはない。
「もしそうなら、限界だな」
「大和田のことだ。手抜きでも何でもやって、帳尻を合わせ、利益を生もうとする」
「違いない」
「やるんだろう」
「当然だ。もう船に乗ったんだ。大和田を真似るわけじゃないが、儲けが出るようにするだけだ」
「ゾクゾクする」
 私は由梨絵の顔を思い出していた。
「その女、危険かも知れない。あんたの女なんだろう」
「大和田の女でもあった」
「何だって」
「そういうことだ。だが、いまは俺の女。しかし、まだ、大和田は自分の女だと思っているようだ」
「ややこしい」
「簡単だよ。大和田は女を棄てながら、いまだに縛ろうとしている。その女を俺が抱いた。それだけのことだ」
「何て奴だ。おまえはオヤジの女を寝盗ったのか。俺たちヤクザは、それだけは絶対にしない」
 深谷は私のことを、おまえ、と言った。
「その女、ホテル内で唯一人、俺を無視していた。だから、突っ込んだ。大和田の女だったと知ったのは、その後のことだ。しかし、抱いてよかった」
 テレフォンセックスの電話がきっかけだった。それは言わなかった。深谷はやれやれ、という表情で、
「まぁ、勝手にしてくれ。それにしてもその女ーー」
「まだ外は明るい。まさかホテル内で危害を加えることはないだろう。すぐにでも辞めさせて、島に送ろうとは考えているが」
「それがいい。会社が終わるころ、俺のほうでわからないように誰かをつける」
「俺はおまえの仲間ではない」
 私も深谷を、おまえ、と言った。
「サービスだよ。それに、ヤクザだ堅気だという拘りを棄てて、相手のために何かしようって気持ちがあってもいいはずだ」
「好きにするさ。しかし、俺は自分の不利益になると思えば、おまえなんかには見向きもしない」
「お互い様だ。いまのところ、組織よりもおまえが大事だとは思えないしな。まだマブのダチってわけでもない」
 私はうなずいた。また電話が鳴った。裕美だった。裕美は由梨絵が電話で誰かと話した後、ホテルを出たと言った。しまった。
「甘かった。やられた。女が拉致された」
 詳細は定かではないが、これは拉致同然のように思われた。
「やはり、仕掛けて来たか。それにしても、早い」
 今度は深谷の携帯が鳴る。深谷は抑えた声で、短く応じただけだった。電話を切ると、
「おまえにもうちの者をつけようか」
「何があった」
「高村がかなりの人数を集めているようだ。いまの電話で、おまえに一人つけるように言った」
「俺には構わなくていい」
「大和田を見縊るな」
「見縊ってはいない」
「たった一人で戦うつもりか」
「大和田は俺を舐めきっている。心配ない。あのオヤジ、俺一人では何も出来ないと信じている。もし本心から俺の力を認めているなら、あいつは自分の手元から何が何でも放そうとはしない」
「だが、何でもする男だ。おまえの女のこともある」
「拉致されたと言ったが、本当に知り合いからの電話での外出かも知れない。それに、万が一大和田の仕業だとしても、俺は女一人のためにおっかない連中とやり合うほどのお人好しではない」
「おまえはやはり、俺よりヤクザだ」
 私たちは喫茶店を出た。
「これからどうする気だ」
 深谷はまだ心配そうだった。
「一度帰宅する。その後、島にでも渡る」
 私と深谷は、喫茶店の駐車場に向かった。深谷の若い者たちが、車のドアを開けて、深谷を待っていた。ベンツ。車だけは画に描いたようにヤクザだ。私はテリオスに乗って帰宅した。
 
 夜。何度電話しても、由梨絵に繋がらない。携帯はもちろん、マンションの電話も、留守電になったままだった。私は敢えて、留守電にメッセージを入れなかった
 地元のテレビを点けた。入札に関しては、一言も触れない。キャスターは町の耀かしい展望を、疑いもない口調で言っていた。作文を読んでいる。何もかもが、大和田や市長の傘の下にあるということだろう。秋には市長選挙も控えている。入札同様、既存の勢力以外の組織が、市長に対抗馬を出す、という噂が、まことしやかに流れはじめていた。
 島も動きはじめている。噂は島からのものだった。町は見えない部分から変わりはじめている。島が絡んでいるかどうかは知らない。だが、これも一つの変化のあらわれではあるだろう。大和田がどのように駒を進めて来るか。アパートにいても退屈なだけだった。
 ホテルを離れてもまだ、一応勤勉に仕事をし続けて来ただけに、訓練された犬のように、朝もかつての出勤時間になると、一度は眼醒める。
 自分というものにキレながら、肉体だけは尚、体制というものに従順で、この習性だけはなかなか抜け切れない。
 五月。島ではそろそろ桜が咲くころだ。私は朝起きてすぐ、島に向かった。桜を見るためではない。島はいまのところ、大和田の踏み込む余地はなく、むしろ、大和田や市長と敵対している。それはずっと以前からのことだった。
 政治力により町に吸収合併されてから、島は眼に見えて荒廃した。一見、便利になったような印象もあるが、それは錯覚なのだ。自然が失われている。町ーー権力者は護岸という理由のもとに、島全体を、あの醜悪なテトラポットで覆うとしている。
 不必要な堤防をつくり、海の生態系を変えようとしている。それでもたらされるのは、自然の崩壊。島は人工的に変化し、広かった浜が小さくなり、小石しかなかった浜が砂浜に変わった。
 ろくなことがない。鳴り砂の浜が枯渇し始めているのも、それと無関係とは思えない。利益を得るのは工事に関係する大和田であり、その恩恵を受ける市長関連でしかない。
 そのせいか、ホテルにいるころは、島生まれの私に対してさえ、島の人々は敵意を顕わにしていた。いまは大和田に反旗を翻した私を、島は歓迎した。町にいれば狙われる可能性が強かった。1人で大勢に立ち向かうほど、私は命知らずでもなかったし、傲慢でもない。
 深谷との繋がりだけは切るつもりはなかった。だが、組織とは無関係でいたかった。深谷とは、個人的な繋がりでいたい。熟考し、私は島を拠点にすることにしたのだ。家があり、有事には島は全体が要塞のようなものになる。兵隊も多い。
 十代のころ、ともに手錠をかけられた太一は、いまでは島の要職にあり、しかも、指導者として、打倒市長の先頭に立っている。島が基点であり、起点だった。
 私はそのように、様々な思惑を秘め、島に渡った。港に着き、家に向かう。これまでのように、気まぐれから来たのではない。戦えるかも知れない。私はそう思い、痺れるような緊張感に満足しながら、庭に咲く桜の花を見つめていた。
 島にいるという安心感からか、縁側でうとうとし始めていた。すると、突然、罅割れた大音声が響き渡り、眼を開けた。島内放送だった。
 耳を傾けた。島の東側、鳴り砂の浜の磯に、溺死体が打ち上げられた。報せは何度もそう繰り返した。
 島で溺死体があがるとすれば、あの浜周辺しかなかった。潮がそうさせる。過去にも数人、海底から突き上げられて来るように、死体が浮いたことがあった。
 私はスニーカーとジーンズに履き替えて、鳴り砂の浜に走った。
 
 女だった。潮で衣服は剥ぎ取られたのか、全裸に近く、島の人々の手によって、鳴り砂の上に寝かされていた。顔を覗き込む。瞬間、眼を剥いた。濃い陰毛。長い髪。薄い胸。豊かな下半身。由梨絵だった。
 由梨絵は凝視する私を見つめ返すように眼を開けて、死んでいた。しかし、私は瞬時に動揺を抑えた。直後に激しくキレた。
 立ち上がる私の肩を叩く者がいた。振り向くと、太一が立っていた。しばらく疎遠になっていた。が、私は太一をあてにして島に来ていた。大和田や市長を蹴落とす。太一や仲間の力は大きい。
「知っている人か」
「いや」
 太一は何かを感じとったようだった。
「島の人間ではない。とりあえず、町の警察に渡すことになる」
 私は無言のままに立ち尽くす。俺の女だ。そう言ってもよかった。が、辛うじて堪えた。明日にもホテル内は大騒ぎになるだろう。私との関係を知っているのは、大和田と裕美、それに幸一だけだ。大和田は、由梨絵と付き合いがあった怪しい人物として、私のことを警察に売るはずだった。
「ずっと島にいられるのか」
「そのつもりだ」
「ホテル、辞めたそうだな」
「いい歳して、キレてな」
「島の血がそうさせたのだ」
 連絡が届いたらしく、小さな岬をかわして、町の警察の船が近づいて来た。
「また、一緒に歩けそうだ」
 太一の一言に、私は無言を通した。警察は発見者の説明を少し聴いただけで、由梨絵を無造作に船に移し、浜を離れた。私は太一と並んで、鳴り砂を歩いた。
 
 夜。裕美に電話した。裕美はアパートにいた。
「由梨絵のことは知ってるんだろう」
「ついさっき。館内、大変よ。大騒ぎ」
 私と由梨絵との関係を知り、拍手喝采をしていただけに、裕美は事件と私との関連を心配しているようだった。
「俺は無関係だ」
「そうよね。まだ何十回しか姦ってないのに殺すわけがないし、パパは女に手をあげたり殺したりするほど単純な人じゃないもの。きっと、電話で呼び出した人の仕業ね」
 裕美の言う何十回かの交わりで、由梨絵はそれまでの空閨を埋めるかのような凄まじい性欲をみせた。堆積した寂寥に動かされているようだった。男、というよりは、人の温もり、人の間近な匂いに餓えているような気がした。だから、次第に従順に変化していた。
「いま、どこにいるの」
「島、だ」
「島、か。ちょっと遠いかな」
 船で四十分の距離。裕美には遠いだろう。船に乗る。その行為が、遠いのだ。私もそうだった。束の間沈黙があった。
「私、……」
「何だ」
「私、プロポーズされたの。先輩の事件で騒々しい最中に、真剣に結婚を前提に付き合ってほしいって」
 唐突だった。しかし、あってもおかしくはない。裕美にはそれだけの魅力が備わっている。
「それで、どうするんだ」
 嫉妬も何もなかった。
「相手、だれだと思う」
「坊ちゃんだろう」
「凄い。何故わかったのかしら」
 何となく、そんな気がした。私は応えず、
「好きにすればいい」と言った。
 幸一は私と裕美のことを知っている。あの夜、ボコボコにしたときから、私の傍にいた裕美のことは記憶しているはずだった。はじめて社長室で会ったとき、幸一はそのことを父親でもある社長に言っていた。それでも結婚を申し込む。好きになるとはそういうことなのだ。
「私とパパのことは知っているはずなのにーー」
 裕美はそう言いながら、口調は迷惑そうではなかった。
「仕方ないだろう。好きになったんだから」
「パパへはきちんと筋を通すって」
「奴はどうしてるんだ」
「パパが抜けて、腑抜けみたい。パパに裏切られたって馬鹿なこと言ってる。そして、社長を恨んでる。私、だから、少しだけ見直したの」
「真面目に付き合ってやれ」
「いいのね」
 裕美なら、厭なら話題にも出さないはずだった。出しても大笑いするだけだったろう。許しを得ようとしている。そう感じた。
 拒絶する理由はない。微かな寂しさはある。私に刃向かわない限り、幸せを邪魔しようとは思わない。
 関心はむしろ、死んだ由梨絵のほうにある。由梨絵は殺されたのだ。少なくともこれまで、私に埋没していた。裕美は違う。私との関係を愉しんでいた。由梨絵は途中から、脇目も振らなかった。だから、大金庫の中から、工事の入札値も盗み見た。
「でも私、パパとも逢うよ」
「歓迎する」
 私は応じた。逢いたいと思い、そうして来れば、否定するなにものもない。幸一が気づいてどう思うかも、いまの私には無関心だった。
「私やっぱり、近いうちに島へ行く」
 裕美はそう言って、電話を切った。
 
 翌日、私は警察に呼ばれた。朝の新聞に、由梨絵の件が自殺と報じられていた。しかし、警察は一応、私を参考人として呼んだのだ。大和田の仕掛けだろう。むろん潔白だった。警察は、由梨絵の失踪当時の、私のアリバイの有無を訊いてきた。深谷と会っていた。裕美からの電話で、由梨絵がホテルを出たことを知ったのだ。何度も電話した。留守電。メッセージは入れなかった。こんなことなら、入れておけばよかった、と思う。
 私の説明を聴くまでもなく、警察はアリバイをすでに把握しているようだった。それでも私を呼ぶ。大和田の仕掛けだからだ。
 それにしても、大ホテルの営業統括部長までのし上がった男が、深谷とつるんでいるとはな。
 解放され、警察を出る間際、1人の刑事が言う。それに対し、紳士面して裏で町を牛耳っている大社長とつるむおまえらよりはいいだろう。私はそう言った。
 港までの道すがら、由梨絵と大和田の関係をもし告発すれば、警察はどう動くか、一瞬考えた。するつもりはない。大和田は自分で裁く。そう、決めていた。
 町は人の出が少なかった。由梨絵はおそらく、単なる自殺として片付けられるのだろう。私と係わらなければ、由梨絵はあのホテルで、朽ち果てるまで働き続けていたのかも知れない。
 あるいは、大和田の女として復帰するという目もあったのだろうか。少なくとも由梨絵は、大和田を憎んではいたが、嫌ってはいなかった。はじめての男だったのだろうか。いまの若い女は頓着しないが、田舎町での由梨絵の年代ならば、女にとってはじめての男という存在は、多少の意味を持つだろう。
 ずっと飼われていた、と言っていた。それならば尚更だった。強姦されるという形でしか、二度と男など出来ないと思っていた。そうも言っていた。どうしようもないほどに、殺伐とした訴えだった。その由梨絵が、私にやっと笑顔を見せるようになったとき、消えた。殺された。
 裕美との大らかな関係とは異なり、由梨絵は私にとって恰好の獲物だった。好都合な踏み台だった。
 由梨絵の姿は、三十年前の夏の日以降の、私そのものだった。裏切られ、依怙地になり、本質とは違う自分というものをつくりあげていた。その由梨絵が殺された。大和田は、私を殺したも同然なのだ。赦せるわけがない。
 私は由梨絵の葬列には、加わらなかった。
 
 二度目の入札の日、私は単身町に渡り、入札が行われる市役所の大ホールに行った。会場には錚々たる顔ぶれが揃っていた。大和田だけがいなかった。
 午前十時に開始された。終了後、結果を建設部長が読み上げる。会場が騒然となる。深谷の関係する業者が、水族館工事を落札したのだ。五百三十億。会場は再びどよめいて、関係者が四方に散る。役所側関係者の顔は、全員蒼白だった。無理もない。前代未聞であるばかりか、この町では絶対にあってはならない結果となった。
 私は会場を後にした。港までタクシーに乗り、すぐに船に乗る。身の危険を感じたのではない。余りにも気分が爽快すぎて、それが怖かった。島の家に着き、深谷に電話した。深谷のほうも騒然としているようで、電話はずっと通話中だった。あきらめて、テレビを点ける。この町のケーブルテレビ。ついさっきの落札の様子が繰り返し映し出されていた。
 画面に映る、コメントを求められている市長の顔。呆然としたままだった。電話が鳴る。携帯だった。
「おまえの仕業か」
 いきなりの怒号が響き渡る。大和田だった。
「由梨絵のことなら、違いますよ」
 大和田は絶句する。
「由梨絵を殺した奴は、この俺が絶対に突き止める」
「あれは事故か自殺として処理されたはずだ」
「そうさせたんだろう」
「何だと」
 あの自慢の白髪を掻き毟っている大和田の顔が浮かぶ。傍目にはいつも温厚で、大社長としての風格を演じる、大和田の裏の顔が私にはよく見えるのだ。
「貴様、恩知らずが」
「ふざけたこと言うなよ。何でもおまえの言う通りになると思ってるなら大間違いだ。今日のことだって、由梨絵の怨念の強さがおまえの悪業をも凌いだということだ。そろそろヤキが廻り始めているんだよ。いつまでもおまえのような輩がのさばっているような時代じゃないんだ、この糞野郎」
「き、貴様、誰に向かって」
「おまえだよ。大和田という偽善者に対して言ってんだよ。次は市長選挙だろう。おまえの傀儡のあの俗物の標本のような市長も、今度ばかりは落ちる。その瞬間、おまえの時代は終わる」
「おまえに何が出来る。ここは俺がつくった町なのだ。帰って来てまだ十年そこそこのおまえに誰が味方すると言うんだ。いまからでも遅くない。俺に頭を下げて来い」
「島が俺の味方だよ」
 大和田は再び言葉を失った。大和田にとっても市長にしても、島に棲む人々が最大のネックなのだ。
 島は国定公園に指定されていて、島がなければ観光地としての値打ちは何もない。大和田は何度も島にホテルを建てる計画や、ロープウェイなどを建設する案をぶち上げて、議会が了承したにも係わらず、島一丸の反対に遭い、挫折していた。
 今回の水族館建設の権利獲得失敗を除けば、大和田にとって、島の問題は事業における唯一の汚点となっている。
「なぁ、早坂、一度俺と会おうじゃないか」
 今度は懐柔だった。子供騙しのようなものだ。
「ホテルの支配人にでもしてくれますか。取締役のついたーー」
 私も敢えて慇懃に言う。
「考えてもいい。おまえが抜けて、ホテルの集客が思うようにいかなくなったのは事実だからな。すべてを水に流してもいい。一度会って、とことん話そうじゃないか」
「お断りしましょう。わざわざ出向いて、由梨絵のような目にあうこともない」
「何を言ってるんだ。私はこの町の顔でもある、ホテルの経営者だ」
「高村のような者を顎で使う、立派な町の顔。と言うよりは、裏の顔役といったところでしょう」
「つけあがるな」
 聴いたこともないような、地の底から湧いてきたような低い声だった。大和田を知る者なら、その声だけで震え上がるだろう。電話は大和田のほうから切られていた。キレた。大和田もキレたのだ。午後三時を過ぎた。そろそろ桜も葉桜になりつつある。散った花が風に舞い、庭一面をピンクに覆っていた。
 私は大和田との電話を終えて、町に行くつもりになっていた。由梨絵の顔が蘇る。大和田の自宅に行くつもりだった。どんな大物の家でも、田舎では家は単なる家なのだ。建物の大小や使っている材料の違いがあるだけで、この町界隈では、大和田ほどの大物でも、自宅にセキュリティシステムなどとは考えない。襲いはしても襲われない地位にいる、ということなのだ。容易に忍び込めるはずだった。
 少なくとも、町をぶらつくよりはずっと安全なはず。もう一度、深谷に連絡する。繋がった。珍しく昂ぶっていた。高村が失踪した。深谷は言った。責任を感じてのことでもあるだろうが、今度の失敗が命取りになるのを自覚してのことだろう。
 深谷はそうも言っていた。高村も終わった。潜入先が知れ渡れば、無事にはすまないだろう。深谷は、組織に損をさせたのだから、仕方がない。そう言った。
 水族館建設工事落札で、多額の金が動いたのだ。それが市長に渡ったのか大和田が手にしたのかは知らないけれど、いずれにしても高村は手負いになった。しかも、深谷と同クラスの筋金入りなので、順調だったはずの入札を毀した者を追い、落とし前をつけようとしているはず。そう言って深谷は私を心配していた。
「わかった。島で燻っていよう。それでなければ、都会に潜み、あの雑踏の中に紛れていよう」
「それがいい」
 深谷は生真面目にそう応えた。高村を熟知している男としての言葉と受け取った。私はしかし、島にいると深谷に言いながら、最終便で町に渡った。港からすぐにタクシーに乗る。大和田の自宅に向かった。港周辺には人影もなく、ゴーストタウンのように暗い。
 午後八時。まず、大和田が自宅にいるはずのない時間だった。町だけでなく、大和田ほどになると、県内の要職にも二、三就いていて、月の半分以上は外泊のはずだった。私は大和田の自宅から、少し離れたところでタクシーを降りた。町の真ん中にありながら、その邸宅の威容さは他を圧倒していた。近くには市長の家もある。周辺はひっそりと闇に覆われていた。
 一度、門の前を通り過ぎる。庭には鬱蒼とした木々が生い茂り、その奥が玄関だった。一階の居間あたりに灯が見える他は、家そのものが濃い闇となっていた。
 幸一も深夜十二時ごろまではホテルにいる。門のすぐ内側に犬がいる。大型犬だった。近づいた。犬は私の顔を記憶していた。尾を振っている。私は塀沿いに裏口に廻った。カメラなどはない。大和田の過信は、そのようなものは無駄と結論づける。
 裏口の扉は施錠してあった。私は周囲を窺い、塀をよじ登った。裏庭に降りた。表の庭の三分の一程度の庭だった。それでも普通の家一軒分ぐらいの広さはある。やはり、ここにも木々や花々がバランスよく配置されていた。灯篭に嵌め込まれた灯が、裏庭を幻想的に照らしていた。勝手口で声がした。近づいて様子を窺う。二人いた。台所に人がいる。男の声がした。続いて、
「好きなものを喰べていいわよ。アルコールは嗜む程度にしとくのね」
 夫人の声がした。様々なことが勃りつつある。高村も消えたという。万が一を思い、大和田が用心棒として自宅に差し向けた男たち。そうに違いない。夫人の声が消えた。居間に戻ったようだ。
「組長は殺されるのかな。見つかれば、ヤバイ」
「早坂って野郎を殺ればーー」
「それでも無事には済まないだろう」
 高村の子分のようだった。私の名前も出ていた。ゾクゾクする。私は中の様子を窺いながら、三十分ほど、裏庭の隅に置かれている、石に腰を降ろし、変化を待った。
 煙草が欲しい。そう感じたときだった。勝手口のドアが開き、男が一人、出て来た。
 見つかったら拙いぞ。中から声がする。庭に出た男は、股間のジッパーを引き下げはじめていた。小便らしい。距離、二メートル。私は足もとに転がっている拳大の石を手に持ち、小便をしている男の背後に立つ。気配に男が振り向いた瞬間、石で男の頭を撲っていた。男は唖然とした顔のまま、倒れた。股間が小便を漏らし続けていた。完全に気を失っている。
 命には別状はない。物音に気づき、中にいた男が顔を出す。二、三歩、倒れている男に近づいた男の後頭部に、再び石を握った私の腕が振り下ろされた。呆気ないほど簡単だった。裏庭の一角に納屋がある。鍵はかけていなかった。
 一人ずつ引き摺ってその中に入れ、床にあったロープで、二人の身体を縛りあげた。納屋の中は贈答品らしい様々な物品が、所狭しと積み重ねられていた。その中には風呂敷に包まれたままのものもある。田舎らしいというよりは、人から貰ったものを中身も確認しないで納屋に放り込む、大和田の人間性そのものに、改めて失望し、呆れた。
 どうせ、その程度なのだろう。おそらく、贈り主も知っているのだ。付き合いは欠かせない。それがこの町での大和田の、力、だった。
 しかし、それが私に役立った。風呂敷を半分に引き千切り、二人の猿轡にし、余ったものを紐にし、両手を縛った。当分は凌げる。納屋を出た。ためらいはなかった。勝手口から家に入り、居間に向かった。自宅に二、三度呼ばれたことがあるだけに、迷うことはない。
 居間からテレビの音が聴こえてくる。夫人は一人で、寛いだひとときを過ごしているらしい。腕時計を見た。午後九時。私はそっと、居間のドアを開けた。
「たった一人でお留守番かい」
 背後からの私の声に、夫人は一瞬、全身を震わせた。ドアをそっと開けても気づかず、婦人はしどけなく両足を投げ出して、ソファに寄り掛かるようにして、テレビを観ていた。
 私の声を、勝手口にいた男たちと勘違いしたようだ。振り向いた眼に怒りがあらわれていた。が、私の顔を見て、夫人は心底愕いたようだ。自分の眼を疑っているように、見つめ直してくる。口が半開きだった。
「一体、どうなってるのかしら。表には鍵がかかってーー」
「さすがに表からはちょっと。もう社員ではないし、裏口からお邪魔しました」
「裏口からってーー」
「ええ。勝手口から」
「勝手口って、……それじゃ、あの人たちは」
 頭が混乱しているようだ。まだ事態を正確には把握していないらしい。
「疲れているようなので、ゆっくり眠ってもらってます」
「どういうことかしら」
 さすがに肝が据わっていた。
「納屋で寝ています。あなたのお守りでかなり疲れているようなので」
「あなたーー」
「社長は今夜も晩いご帰還ですか」
 尚も唖然としているような夫人の顔を見下ろした。視線は遠慮もなく、夫人の淫らに開かれた下半身に移っていく。さすがに裸ではなかったが、短いスカートの裾が、太腿の上まで捲れているのも忘れているようだった。
 私の視線に気づき、夫人はスカートの裾を引っ張った。慌てる様子はない。魅惑的だった。私より十歳は若い。由梨絵と差がないのだ。大和田との年齢差は、丁度、私と裕美との差に等しい。
「大胆な人ね」
 落ち着きを取り戻したようだ。怯えた表情も愕きのそれも消え、夫人は濡れた眼差しで、私を見上げてきた。
「あなたも大したものだ。さすがに大物社長の奥様だ。堂々としている」
「それって、皮肉かしら」
「どうとでも」
 夫人は薄く笑った。
「今日は何かしら。まさか、主人の留守を重々知っているあなただもの、主人に会いに来たなんて言わないでしょうね」
「あなたに逢いにーー」
 夫人は近づく私に動じる様子もない。
「それなら、電話でもくれればよかったのに。何も危険を承知でここに来ることないでしょう。よそでーー」
「べつにあなたに夢中になって逢いに来たんじゃない」
 夫人はムッとした顔で、
「あら、それはお生憎さまだっだわね。それなら何の用かしら」
「俺の大切な女を疵つけられた。殺されたのだ。余りにも理不尽なので、復讐しようと思ってね」
「由梨絵さんのことね。事故で亡くなったそうね。あなたと親密だったなんて、初耳よ。でも、復讐ってどういうことかしら」
「確証はない。だが、俺は自分でそう確信しているのでここに来た。仇を討ちに」
「前時代的なこと言うのね。大和田が関係しているとでも言うのかしら」
「真実は闇の中だ」
「困った人。でも、万が一そうだとしても、何故、私なのかしら」
「大和田の妻だから」
 夫人ははじめて姿勢を正し、私を見据えてきた。
「それで、この私をどうするつもりなの」
「犯す」
「姦れるものなら強姦してごらんなさい。私に興味があってのことなら、主人に知らん振りして抱かれてやってもいいけど、無関係な理由で、しかも私の人格を無視するようなやり方をするなら、絶対に赦さないわよ」
「ほざけ。赦せなくても姦る。それが犯すってことだ。いまの俺には、あんたが大和田の妻だってだけで、充分に犯す理由になる。旦那を恨むんだな」
 夫人は立ち上がり、私を挑むような眼で睨むと、いきなり平手で頬を張ってきた。私は悠然と受けた。
「どいつもこいつもこの私を馬鹿にして。あなただって大和田と同じ穴の狢よ。自分の都合でしか女を見ない。息子も娘もみんなバラバラ。その中に私を放り込んで、体のいい家政婦のように扱っているつもりでしょうけど、そうはいくものですか。少しばかりの金をあてがい、私を都合のいい女に飼育しようとする。余り馬鹿にするんじゃないわよ」
 口調が伝法になっている。話が飛んでいる。相手は私なのだ。大和田に言うことを私に言っている。見当違いも甚だしい。落ち着いていたはずなのに、日ごろの鬱憤が夫人を逆上させたようだった。これが地なのだとすれば、可愛い。
「わかるが、それは後でゆっくりと大和田に言ってくれ。俺には無関係なことだ。俺は本能のままに動く。それだけだ」
「同じよ。大和田だって本能のままよ。本能と計算という、相反する行動を上手く使い分けてのし上がって来たんじゃないの。それでどうにか成功し、今度は名誉が欲しくなり、世間体を気にし始めて、本能を後ろに隠しているだけなんだから」
 その通りかも知れない。丁度、私と正反対の過去ということだ。私は他人の眼ばかりを気にして、自分を殺し、三十年間を棒に振った。いまやっと、本能に眼醒めたのだ。 
「馬鹿みたい。女房を何人も取り替えて、子供だってそれぞれが違う腹から生まれてる。そして誰もいなくなったこの馬鹿でかい家に、私を入れて、表も裏もないものだわ」
「坊ちゃんがこの家にいるじゃないか」
「いたわよ。でも、少し前、マンションを借りて出たわ」
 初耳だった。しかし、それは歓迎すべきことだった。自立しようという姿勢が見える。
「私と十歳も違わない息子。不思議に気は合ってただけに、寂しいわよね、棄てられたようで」
 私は銜えていた煙草を消した。
「もう、いいか」
「……」
「言うだけ言って、清々したか」
「ええ。少しは清々したわ」
「そりゃよかった。それじゃ、そろそろはじめるとするか」
「犯すのね」
「そうだ。犯してあんたを裸のまま大の字に縛り、置き去りにする。由梨絵は殺されたが、俺はあんたを殺しはしない。大和田に俺の覚悟を報せる。その手段に過ぎない」
「何よ。何で私を好きだと言って抱こうとしないのよ。みんな、そう。大和田も最初は強姦して私をモノにした。やさしい夫とともに、幸せの絶頂だったこの私をーー」
 聴く耳を持たず、私は乱暴に衣服を破いた。夫人の抵抗は素振りだけだった。あきらめているというよりは、開き直り、愉しもうとしているようでもある。
 感じさせる。悶えさせ、夫人が達した瞬間、大和田が帰宅すれば、演出としては言うことはない。そう都合よくはいくはずもないので、私は敢えて、夫人を全裸のままで、置き去りにする計画をたてていた。
 「由梨絵より」。
 夫人の裸体の上に、その五文字を残すことを頭に描いていた。その後、半月ほど、この地域を離れるつもりでいる。夫人はまったく抵抗しなかった。覆い被さり、両肩を押さえたとき、夫人は抗うどころか、燃えるような眼で私を見つめ、
「この私を、本当に裸のまま置き去りにするつもりなのね。姦られたままの私を晒して、もっと辱めるのね」と言った。
「決めたことだ」
「面白いかも知れない。こんな生活、反吐が出るほどに飽き飽きしちゃってるの。変化としては面白いわ。犯されて裸のままの私を見て、大和田が離婚すると言ってくれれば、さらに面白い」
「それこそ丸裸で追い出されるぜ」
「これって強姦でしょう。浮気じゃないわ。私に落ち度はない。もし離婚するにしても、いただけるわよ」
「それじゃ、この肉体のどこかに、疵の一つもつけておこうか」
「厭だわ。痛いのは厭。縛られて姦られた証拠だけで充分よ」
 眼が潤み、夫人は自ら導いた。それからは獣そのものだった。
 犯されている。私のほうがそう錯覚する。夫人はひどく餓えていた。当然かも知れない。大和田はもう、年齢的には爺いで、若い妻を充実させるほどの体力はない。あるのは金だけなのだ。二度目は夫人が上になり、私はたしかに、犯されていた。一息つく。
「激しいな」
「どうせなら、堪能したいもの。それに、久しぶりだから」
 苦笑するしかなかった。女は例外なく、強かなものだが、こうまで堂々としていると、私のほうが被害者に思えてくる。
「大和田は何時ごろ帰るんだ」
「帰らないわ」
「ホテルか」
「仙台。東京にも行くと言ってた。例の入札がおかしくなって、あちこち飛び回ってるみたい」
 高村の関係する筋に対する動きだろう。その高村は、依然として消えたままだった。深谷は当然、大和田の動きは把握しているはずだ。
「あの男たちはどこの者だ」
「用心棒かしら。どこの人かは知らない。それにしても、私が二度も姦られちゃったというのに、頼りないったらありゃしない」
「大和田はいつ町に戻るんだ」
「明日の昼には戻るって言ってたわ」
「それだと、大和田よりも、あの男たちのほうが、先にあんたの裸を拝むことになる」
 夫人は眉間に微かに皺を寄せ、
「意地悪ね。それとも、サディストなのかしら」
「あんたはマゾっぽい。犯されても厭な顔一つしない。さっきはいろんな不満を言ってたが、それでも大和田に従っている。大いにマゾっ気があるということだ。あの用心棒たちにも、その豊満な肉体を自由にされるかも知れないと思い、内心、期待しているんじゃないのか」
「マゾの気があるかどうかは知らないけれど、変な昂ぶりはたしかにあるわね。大和田の妻ですもの。それを思うとあなたの言う通りかも知れない。でも、あの男たちには指一本触れさせないわ。もっとも、あの人たちにはそんな度胸もないでしょうけど。大和田は今日、あの人たちのトップと会っているはずだし」
 どこの者かは知らないと言いながら、こうして知っていることを白状している。抜けているのと強かさが同居しているようだ。
 男たちの力と常識的な知恵があれば、ロープは意識を取り戻してから一時間ぐらいで解くことが出来るだろう。私は予定通り、夫人を寝室に導き、ベッドに大の字に縛った。顔が小さい。長い髪が真っ白なシーツに舞う。うっすらと肉がつき、全体に丸みをおびた曲線。微かに垂れはじめているが、それだけに男の眼を惹きつけるような、量感たっぷりの乳房。気の強さを示すような活きのいい炎のような陰毛。
 私は再び昂ぶった。なにしろ、夫人の眼が、もう一度、と誘っているのだ。
「このまま帰るのが惜しい」
「私も、帰すのが惜しいわ」
「余分なことはしない」
「いいわよ。準備はずっと出来ているから。久しぶりに燃えたから、蜜が退かないの」
 私は無言で接した。見つめ合う。そのまま激しく、動いた。夫人も眼を逸らさなかった。感じ、充血した眼が、私の顔を脳裏に焼き付けようとしているようだった。
 三度。裕美や由梨絵とでも不可能な回数だった。五十歳。余計なことは考えない。したいようにする。大和田の妻。それが倒錯的な昂ぶりを生む。私に活力を与える。
 終えて、離れ、後始末もそのままに、私は勝手口から出た。夫人は複雑な笑顔を向けていた。納屋を覗いた。騒々しい。そろそろ男たちが藻掻きはじめている。夫人を眼にした大和田の顔を想像する。
 男たちが縛りを解き、駆け付け、衣服を纏っても、夫人は言うだろう。私が言えと言った。いいのね。夫人は言った。私はうなずいた。
「キレてるのね、あなた。でも、悪くないわ」
「チャンスがあったら、また、いただきに来る」
「無事でいてね」
「ああ」
 私は去る間際の、夫人との会話を思い出していた。路に出て、駅に向かった。上りの最終に間に合うはずだった。
 
 都会には営業を除いて、もう訪れることはそうないような気がしていた。普通、田舎に身を置くと、やすらぐ、癒される、と人は言う。
 私は都会の雑踏の中にいてこそ、安らぎや癒しがあるように思う。都会から逃避したはずなのに、何故、いまもそう思うのだろう。
 その都会の片隅の、荒川べりに、綾がいる。六年、夫婦として暮らした。別れても帰郷するまでの二十年、同居した。綾はいまも一人でいる。同い年だった。以前、離婚した後、二、三、再婚話があったらしい。綾はそれを拒絶した。結婚は一度だけ。男も一人だけ。綾はおそろしく古風な女だった。
 私は綾以上の女を知らない。しかし、女はいつか必ず裏切る生き物、という強い想念のようなものが、綾をも認めようとはしなかった。綾は言っていた。あなたはあなたと同じ思いを抱いて、男を信じようとしない女を、1人つくりあげようとしている、と。
 男は裏切るものと頑なになり、普通の幸せーー営みを棄てる女をつくろうとしているのか、と綾は言ったのだ。
 綾はいま、必ず、私と過ごした時間を後悔していることだろう。何一つ得ず、唯一、私の裏切りを何度もはっきりと見続けて、歳を重ね着している。
 五十歳なのだ。綾はすでに、いまを余生と感じているのかも知れなかった。いまの私を見たら、綾は何を感じるだろう。一度、会わなければならない。しかし、それはいまではない。まずはあの二十歳のころに舞い戻り、繭子に会うのが先だった。
 綾は私の命が尽きる寸前に会い、憎悪が染み込んでいるはずのあの小さな手で、この首を絞めさせてやりたかった。綾にはそうする権利がある。私は明日、葉山に向かう。鳴り砂の浜が偶然に遇わせた、繭子の父親。
 顔は会った瞬間にわかったが、その名が源蔵、だということを、いま思い出していた。
 いまのおまえなら、娘をやれた。そう言っていた。が、いまはそんな気などさらさらない。会ってどうしようという目的もない。それでも会いたいのだ。繭子は三十年もの間、私を去勢した。会えば、思い残すことがないような気がした。
 ふっきれる。大和田と真正面から対峙する前に繭子と会い、過去を清算したかった。逆に、綾には私の命を差し出してでも、清算させなければならない。綾の気の済むように。
 私は都心のホテルから一歩も出ず、明日を迎えようとしていた。ぼんやりと天井を見ていた。電話が鳴った。携帯を引き寄せた。深谷からだった。
「いま、どこだ」
「新宿だ」
「好都合だ」
「用事が済みしだい、帰る」
「止せ。おまえ、大和田の女房をーー」
「よかったよ」
「呆れた。おまえに絞められた男たちからの通報で、大和田は急いで帰宅し、赤鬼のような形相で、おまえの行方を追っているらしい」
「わかった」
 電話を切った。再び、電話があった。幸一だった。
「部長」
「もう、部長じゃない」
「勝手に俺の前から消えたんですから、俺にはまだ、部長ですよ」
「親父にどやされるぞ」
「どうぞ、って感じです。それよりーー」
「何だ」
「俺、尊敬することにしました」
「親父を、か」
「まさか。親父、カンカンになって部長を探してます。俺にまで行方を訊くんですから。俺の義理の母親に悪さしたでしょう。だから、俺は部長のこと、本気で尊敬することにしたんです」
「いい歳をして、今度は親子断絶か」
「あいつは俺の母親を殺したようなもの。俺はいつだって、そう思ってます」
「だが、大和田はおまえや娘を重用している。償いの気持ちからかも知れないだろう」
「まさか。そんな殊勝な人間じゃない。女将だって母親を追い出されているんですから、内心は今度の入札の件や部長がしたことも、喜んでいるはずです」
「それで、どうしようと言うんだ」
「協力したいんです」
「何に対する協力だ。まだ、何もない」
「俺に出来ることがあったとき、俺の顔を思い出していただければ」
「そうしよう。せっかくまともになりかけているおまえを、再び馬鹿な男に逆戻りさせたら、裕美に叱られるからな」
「すみません」
「何が」
「裕美のことです。俺、部長と裕美とのこと知っているのに」
「勘違いするな。裕美はおまえを選んだ。それだけだ」
「……」
「安心しろ。おまえが裕美を大事にしている限り、俺は黙って見守っているだけだ」
「はい」
「うまく、いってるんだろう」
「--と、思います。でも、自分らしさを殺してまで親父に従うようなら、俺は即刻、裕美に棄てられます」
「裕美に気に入られようとしてのことなのか」
「正直いって、それもあります。だけど、俺だってずっとこのままではあき足らない。いくら大和田家の一人息子とはいっても、財産は親父のもので、俺のものではない。俺はそう思ってます」
「嫌いじゃないな。その考え方は」
「そうですか」
「ああ」
「嬉しいです」
「まるで、高校生だな」
「ぶん撲られた夜は絶対に復讐してやろうと思ったけど、付き合ううちに、敵いっこないと気づいたし、俺の復讐は母親を殺したも同然の親父に対してのもののほうが強いということを最近再認識したということです。グレてたのも、親父への反抗心からだった。三十過ぎまで、ヤサグレていたんだから」
「もう、いい。裕美を大事にしろよ。ただ、ありきたりに大事にするんじゃない。裕美は決して、平穏な幸せなど希んではいない女だからな」
「わかるような気がします。裕美は危険な匂いのする、あなたのようなヤバイ人の傍にいることを希んでます。だから裕美はずっと、部長を愛してる。俺もそう思われるような男になるつもりですよ」
「俺を愛してるんじゃない。退屈しないから傍にいただけだ。だが、俺の真似したって駄目だ。おまえはおまえなりに裕美を引っ張ることだ。仕事もな」
「わかりました。頑張ります。でも部長。さっき言ったように、俺で役立つことがあるときにはーー」
「わかった。そうしよう。裕美によろしく伝えてくれ」
 電話を切ってテレビを点けた。観ようとは思わなかった。水割りを呑み、ベッドに横になる。眠りにつくまでに、二分も必要とはしなかった。
 
 もう、何年になるのだろう。葉山はかつて二年ほど暮らしていた、三浦三崎のすく傍だった。長者ケ崎、葉山、佐島、と続く一帯は懐かしいところだった。
 このような形で、再び訪れるとは思わなかった。逗子までJRで行き、バスに乗り換えて葉山に降りた。眼の前がハーバーだった。路沿いに町があり、その後ろ側の丘陵地もすっかり拓けて、高級住宅地となっている。私はその丘陵地に向かった。
 中学のときの同級生が四十二の同窓会に集まったときのアルバムから、繭子の住所と電話番号を知ることが出来た。小さい町なので、その住所から家を探すことは簡単だった。
 しかし、私は家を訪ねるつもりはなかった。その地を確かめて、電話で呼び出すつもりだった。会うだけでいいと思っていたのが、繭子のいまを踏み躙りたいと思うに到った。それなのに、こうして繭子が棲む町に降り立つと、その思いがすっと消えた。依然として強くあるのは、繭子の現在を、この眼で見たい。それだけだった。
 夫は死に、繭子は会社を経営している社長なのだという。鳴り砂の浜で会った繭子の父親は、想像出来ないほどの金を持ち、裕福に暮らしている、と言っていた。だが、いまでは子供たちも独立し、一人だという。いずれは子供たちに会社を譲るとしても、いまは自分が先頭に立ち、業績をのばし続けているということだ。
 家はすぐにわかった。想像以上の豪邸だった。あの大和田の邸宅と遜色ない。周囲をぶらついた。外見は幸せそうでも、不幸を背負っている場合もある。姿を見れば虚実がわかる。眼が繭子を幸せと感じたとき、私は二十歳の夏に私との決別を決断した繭子を、認めなければならない。
 不幸を感じたならば、私はそっと笑い、溜飲を下げようと思っていた。振り返る。すぐそこに見える江ノ島は、もう夏のような陽を浴びていた。あちこちにヨットが浮いている。海面が陽を反射して煌いていた。私はしばらく、海を見ながら佇んでいた。すぐそこに繭子がいる。複雑な心境だった。
 不意に湧いた悔しさ。それはあの夏の日そのままに、私を包んだ。陽射しが呪いたいほどに熱かった。空の真ん中めがけて陽が動いている。眼を瞑った。私は過去に浮遊し始めていた。珍しく、雨の少ない夏。テレビがたしか、そう言っていた。
 
 繭子をはじめて女として意識したのは、中学二年のころだった。淡い初恋などというものではなかった。クラス替えが初対面で、瞬間、私は繭子を女として意識した。
 島の中学生。喫茶店に入っただけで、不良のレッテルを貼られた。気持ちを打ち明けるなど、論外だった。男と女。一緒に歩くことさえタブーだったのだ。
 夏。私たちは群れを成す不良だった。島の夏は昔から無数の人々が訪れる。陽に肌を晒しているのは、殆んどが遠来の客で、私たちは小さく群れて、人気のない浜をアジトにしていた。
 男五人。女も五人。誰が先導したのでもない。自然に群れた。繭子もいた。全員が私の繭子に対する気持ちを知っていた。むろん、繭子も。
 けれど、私たちはお互いを理解していた。まだ、中学生だということも。群れは高校生になってからも続いた。さらに親密になった。夏も冬も、休みになれば群れた。
 男たちは女たちを護った。高校卒業間近にして警察に捕まったのも、過剰なまでに繭子たちを護った結果だった。捕まって、誇らしかった。護ったからだ。私たちはどこでも雑魚寝した。私の家。他の仲間の家。砂浜。松林。すべてが塒だった。
 当然、いくつもの白い眼が突き刺さる。しかし、十人の家族は赦した。島でも町でも、当時としては奇跡に近いことだった。仲間の女たちには指一本触れていない。それは徹底していた。
 女たちに近づく敵からは、警察に捕まるような暴力沙汰になっても護った。家族はだから信じた。女五人は充分すぎるほどに魅力的だった。
 卒業後、早く上京したのは繭子のほうだった。大手の繊維会社に就職が決まっていた。焦った。私はまだ先が見えず、島にいた。一日でも早く、後を追いたかった。逢いたい。それだけだった。
 三ヶ月後、私は目的もないままに上京した。拠り所は伯母だった。三崎に棲んでいた。だが、繭子に逢いたい一念で島を出たにも係わらず、逢うことが出来なかった。当時、繭子の会社は品川にあり、寮生活を余儀なくされていた。門限がある。真っ直ぐに寮に帰る。私はそれらのことを、やっと逢えた半年後に知った。
 私はアルバイトで喰いつないでいた。下宿の傍に棲んでいる伯母に、何度も叱られた。伯母は下宿に反対だった。家に来い、と再三言われたが行かなかった。
 ある日、やっと連絡がつき、繭子は三崎に来た。城ヶ島で遊び、油壺で時を忘れ、剣崎の海を見て、島の海を思い出していた。繭子は私の顔を見て、懐かしい、逢いたかった、と叫ぶように泣いた。わかる。私は抱き締めたいのを我慢した。
 寮に帰る時間が迫まった。京浜急行は厭だった。当時、三崎口という駅はなかった。最寄は三浦海岸駅だった。すぐわかれるのはたまらなかった。
 逗子からにしろよ。うん。
 私はバスで、逗子まで送った。午後八時。駅に隣接する小さな空き地。資材置き場のようだった。材木が五、六本、積み重ねられていた。街路灯の電球が切れていて、薄暗かった。はじめて言った。
「好きだ。好きだった。ずっと、好きだった」
「うん」
 握手のように握り合った両手。繭子は私の両手を自分の頬に触れさせた。泣いていた。送り、帰りのバスの中で、私は微動もしないで舞い上がる。
 うん、と言った。まだ繭子の頬の熱が生々しい。私は自分の手のひらを、頬に何度も擦りつけた。そこに繭子が残っていた。--その後、繭子は何度も、三崎を訪れた。
 
 半年後、繭子は会社を辞めて、新宿に移った。私も一緒だった。西口には何もなかった。甲州街道から青梅街道が見えた。中央公園の傍にガスタンクがあった。アパートは甲州街道沿いだった。いまにも朽ち果てそうな、木造のアパート。三畳一間。唄の神田川そのものだった。
 廊下の隅に公衆電話があり、風呂は銭湯。だが、充実していた。はじめての夜。繭子は私を棄てないで、と私の胸で泣きじゃくった。棄てる? 何故? 妙なことを言う。そう思った。
 インスタントラーメンが珍しかった。いまの手の込んだラーメンよりも数段美味かった。繭子がつくったからだ。半年が瞬く間に過ぎ去った。相変わらず、バイトでその日を暮らしていた。繭子は中小企業ではあるけれど、まともな会社に就職した。
 その気にさえなれば、仕事などいくらでもあるのに、まるでヒモだった。駄目だ。島では繭子たちを絶対的に護って来た。いまは護られている。仕事に就かなければ。
 探した。新聞の募集欄。無数にあった。人不足の時代だった。金の卵だったのだ。
 職を選ぼうとした。選んだ。水商売。報酬がよかった。浅草だった。すぐに電話した。担当者に会った。即決だった。
 離れて暮らすことになる。二人の将来のためだもの。繭子は同調した。半分、事実だった。いま思えば、二人の将来のためではなかった。繭子のためにはよかった、ということだ。
 しかし、当時は純粋だった。言葉と顔の表情を信じた。浅草に移り、寮に入る。純喫茶。千束通りではいちばんの大箱だった。一ヶ月、毎日繭子に電話した。
 取り次ぐ人が呆れているよ。繭子はそのたびに苦笑した。廊下の公衆電話からはもっとも遠い部屋なのだ。土日が来て、店は吐き気がするほどに混み合った。月曜日。逸る気持ちのままに電話した。夜、いつもの取り次ぐ人の声。
 昨日、引っ越しました。そう言った。耳を疑った。呆然とした。その二日後のことだった。島に残っている群れていた仲間の一人から、手紙が届いた。愕然とした。夏で、一日中、暑かった。私は何故か、カミュの小説を思い出していた。
 
 手紙は笑いたくなるほどに、淡々としたものだった。
 ーー「寂しかった。そこにおまえがあらわれた。すべてをおまえで癒そうとした。それだけなのだ。愛からではない。だから、あきらめろ」ーー
 効いた。打ちのめされた。寂しいというレベルではなかった。堪えられなかった。余計な言葉は何一つなかった。仲間は真実だけ伝えて来た。それだけに、染みた。
 三ヵ月後だった。繭子が結婚したという報せが届いた。夫とともに島を出た、と耳にしたのは、それから一年ほど経ってからだった。私は川を越え、立石にいて、繭子に対する憎悪に痩せ、癒そうと、傍にいた女をモノにした。
 それが綾だった。綾を繭子に置き換えて、不幸に陥れるためーーその理由だけで、私は綾と結婚したのだ。結果、綾は見事に不幸になった。二十代後半で離婚し、綾はそれから、ずっと独りでいる。しかし綾は、別れても尚、私に尽くした。いまでも時折、衣服などを送ってくる。これからは思うがままに過ごそうと、五十歳で決心したが、当時を振り返るまでもなく、綾に対してだけは、本能剥き出しだった。いや、違う。綾へのそれは、繭子に対する反動でしかなかった。綾はほぼ、生贄だった。
 けれど、後年、綾という一人の女の姿勢は、ジワジワと私に浸透していた。もう、だいぶ前に死んだ母に共通するような何かが綾にはある。私の五十歳からの旅の終着駅。そこに綾がいる。そんな存在なのかも知れない。
 
 群れて鳴く海鳥の声に、追憶は断ち切られた。
 変わらず、真夏日のような陽が照りつけていた。私は邸宅の周囲を歩いた。中から車の音がする。私はゆっくりと歩いた。一方通行だった。車の音が後ろから近づいてくる。道幅は狭かった。徐行している。ほぼ、繭子だろう、と確信していた。一人住まい。お手伝いでなければ繭子のはずだった。
 振り返った。メルセデスワゴン。運転席を見た。繭子。間違いなかった。眼が合う。一瞬だった。車が追い越していく。構わず歩き続けた。十メートルばかり前方だった。車が停まった。繭子には充分に当時の面影が残っていた。それに妖艶さが加わっている。私は違う。面影など微塵もなく、とくに顔は著しく変わった。私は停まっている車を無視するように、通り過ぎようとした。窓が開く。再び、眼が合った。
「龍介、さん」
 繭子は怪訝な顔をしていた。すっかり変貌した私を、覚えていたことのほうが不思議だった。
「元気そうだな」
 私は落ち着いていた。
「元気よ。あなたもお元気そうで、何よりーー」
 繭子が笑う。その笑顔が寂しそうだった。助手席のドアが開く。乗って。乗った。無言だった。繭子は本道に出て、横須賀のほうに車を走らせた。
「私に逢いに来たのね」
 林を右にカーヴし、三浦海岸を過ぎて左にカーヴする。剣崎に行くつもりだろうか。途中、小さなモーテルがある。何度か過去に利用した。真っ白な建物だった。繭子と行った記憶はない。
「おまえを毀そうと思って来た」
 左前方にモーテルの看板が見えた。懐かしかった。まだ潰れずにある。波打ち際に建っているように見える。夜しか入ったことはなかった。真っ白だとばかり思っていた外観は、薄い茶色だった。
 塗り替えたのか、年月が色を変えたのか。利用した最後は、いつだったろう。相手も覚えていない。繭子は堂々としていた。左にウィンカーを出し、そのモーテルの駐車場に入った。
「愕いたな。家とは目と鼻の先じゃないか」
「私、自由だもの。子供たちは巣立ったし、夫は亡くなったしーー」
 繭子の父親の顔が甦る。
「厭なら、引き返すわよ」
 私はそれには応えず、
「用事で出かける途中ではなかったのか」
「男に逢いに行こうとしていたの。久里浜で待ってるはず。若いというだけで、セックス以外何の取柄もない、丁度あのころのーー」
「俺のような男か」
 激しく込み上げてくるものがあった。むろん、嬉しさではない。堪えた。妖艶なのに、傍にいて話していると、繭子は別人のようだった。セックスだけが取柄の男に逢いに行くところだった、とあっさりと言う繭子は、私の知らない繭子であり、まるで男のようだった。
「龍ちゃん、変わったわね。あのころとはすべてが違う」
「おまえほどじゃない」
 爪は綺麗にマニュキァされていた。足の爪もそうしているのだろうか。私は繭子のフィットしたジーンズに包まれた下半身を眼にしながら、そんなことを考えていた。どう見ても、五十歳には見えない。三十代半ば。厳しく見てもその程度だった。調子が狂う。私は繭子の現在が極上の幸せに包まれていることに、ある種の期待を抱いていた。しかし、繭子は艶やかでいながら、枯渇しているようなのだ。
「どうするの」
 私を見つめてくる。
「俺は三十年前、おまえによく似た女に夢中になっていた」
「いまの私では駄目なのね。それなら私、久里浜へ行くわよ。感傷になど浸るつもりはないの」
 言動が激変していた。繭子も何かにキレているのだろうか。
「入ろう」
 私は腕をひいた。繭子は微笑む。サングラスをしていた。車を降りるとサングラスを外し、私の腕に腕を絡め、密着してきた。三十年ぶりの再会だった。私はまだ、何の感慨も湧かないままに、行きずりの女を買った男のように、繭子を伴い、エレベーターに乗る。
 三階だった。海が一望出来た。薄いレースのカーテンを開け放つと、久里浜の突端や長い煙突が見え、房総半島までもが見渡せた。
「違うわね。島の海とは」
 声に振り向くと、繭子はジーンズのファスナーを半分降ろした姿でソファに坐り、煙草を銜えていた。眼を細くし、窓から海を見ている。感傷には浸りたくない、と言っていた。それが投げやりな姿勢のまま、感傷に浸っているようにしか見えなかった。二十歳のときもそうだった。はじめての夜。棄てないで、と泣きじゃくった繭子が、私を棄てた。私も煙草を銜えた。繭子がライターの炎を近づける。
「愕くだろうな、奴ら」
 仲間たちのことだった。繭子は微かに笑い、
「今日こうしてあなたと私がホテルの部屋に二人でいる。それを知ったらってことでしょう」
「ああ。パーティをやろうと言い出すかも知れない」
 繭子はうなずき、
「宝ね。この歳になると、当時の仲間たちと過ごした時間が、とても貴重な宝のように感じられてならないわ。ああ、久里浜に行けばよかったかな」
「俺は腐った宝かも知れないな」
「いつからなの」
「二十歳のときから」
「気づかなかったけど、私もあの夏から少しずつ変化して、それでいまがあるのかも知れないわね」
 お互いに見つめ合う。
「恨んでたのね」
「恨んでたよ。今日、逢うまでは」
「いまも、でしょう」
「期待が外れた。俺はおまえに選ばれなかった。だから、おまえは幸せでいてくれなければならなかった」
「幸せには見えないか」
「金は腐るほどありそうだな。だけど、幸せそうには見えない」
「それじゃ、二度も裏切ったことになるわね」
「ああ。男に逢いに行くところだったと平然と言う。想像もしていなかった」
「だから、言ったでしょう。私もあの夏の日を境にして毀れたの。子供が出来、巣立つまで、私、装ってたの。演じてたのよ。だから、子供が自立した瞬間、私は気の向くままに暮らそうと決めたの。雌としてよ。もともと夫に愛情を感じていたわけじゃないし」
「罰当たりだな。あんな豪邸に棲める旦那だったのに」
「会社があるから。夫は社長だったけど、実直だけが取柄で、実質的には私が社長だった。そうすることに何の支障もなかった」
「おまえはセレブに、俺は相変わらず貧乏してるが、似たようなプロセスを辿っていたようだ」
「あの夏の日に、何故、私が消えたと思う?」
「さぁ、その理由を探し続けて、今日まで来たようなものだ」
「賭けていたのよ。好きだった。愛していたけど、不安だった。でも、子供が出来たら、あなたと一生過ごそうと思い、それに賭けていた。だけど、出来なかった。いまの私なら思わないけど、当時の私は、これは結婚しては駄目だと神様が言っているような気がしたの」
「啓示に従ったということか」
「そう。でももし、あなたが私のヒモでいさせてくれって言ったなら、別れなかったかも知れない。変に期待を持たせるから。それなのに決めたことに向かわないあなたに失望したし、赦せなかったの」
 符合する。繭子の父親も、いまのおまえなら、娘をくれてやった、と言っていた。しかし、いまさら、という思いだった。何が真実なのか。
 三十年前。繭子の結婚を報せる、かつての仲間からの手紙。繭子は寂しかったのだ。そこにおまえがあらわれた。愛からではない。だから、あきらめろ。そうあった。私が真実と感じたのは、この手紙だけだった。三十年経ったのだ、繭子も私も、何食わぬ顔で、真実を糊塗する術を育んでいた。
「抱いて」
 遠くを見るような眼差しだった。両腕を差し伸べる繭子に、私は近づいた。坐ると、二人の重さでベッドが軋んだ。肌はしっとりとしていた。当時ははちきれるようだった。五十歳の女。いま流行の、とても魅惑的な熟女を拾った。そう思うことにした。いまは自由だと言っていた。若い。どこかに老いを忘れて来ているようだ。私は繭子を全裸に剥くと、乳房を鷲掴みにして、荒々しく揉みしだく。
「好きにして。気のすむようにして」
 熱に浮かされたような、うわずった口調で叫び、繭子は唇を求めて来た。熟女を拾った。繭子の叫びがその感覚を押し流す。強く深い、貪るようなキス。瞬間、繭子は軽く達した。微かな口臭。当時、私が発見し、耕した近道だった。
「あれからはじめて。ほんとよ。この深いキスだけで、私が達することを知ろうとする男は1人もいなかった」
 再びキスをした。全身が痙攣する。繭子のはじめての男は私だった。私はいつの間にか現実を忘れ、二十歳の繭子を抱いている。
 しかし、当時とはあきらかに違う鋭い反応が、私がどっぷりと三十年前に浸るのを赦さなかった。雌だった。カーテンは開けたままだった。窓も少し開いている。海からの風が入り込む。海面に反射した陽が、部屋に切り込み、壁にうねるように咲いていた。
 私は下方から繭子を見ていた。産毛よりはいくらか芯のある体毛が、身体のあちこちでそよいでいた。成熟が漲っていた。熟し、繭子は内部から溶け、その熱で私をも爛れさせた。憎悪も懐かしさも、さらに何故こうまで繭子に執着したのかさえも、忘れ、密着し、離れ、汗ばむ雌の肉に夢中になった。
 私が喘いだ。五十歳の男女の交わりではなかった。気持ちの餓えと肉体の餓えがぶつかり一体となり、理性が摩滅し、私たちは月の下で咆哮する狼のようだった。
 終わった。繭子はうつ伏せのままだった。私は肩肘をつき、全身を見つめていた。曲線。見事な女体のラインだった。若いが、単なる若さとは微妙に異なっていた。そこにはたしかに、三十年という時間が横たわっている。私の力では取り戻す術もない、途方もなく長い時間。
 繭子は清純を脱ぎ棄て、通り過ぎた男の数を、正直に身体にあらわす女になっていた。私は煙草を銜えた。
「私にもちょうだい」
 気配を感じたのか、ベッドに顔を埋めたまま、繭子は言った。声がくぐもっていた。
「煙草はいつから喫ってるんだ」
 あの当時、私は煙草を喫うたびに叱られた。身体に悪い。私から去る前日まで、電話越しにそう言っていた。
「三十年前から」
「身体に悪い」
「最初はハイライトだった。いまはキャビンのウルトラ」
 二人同時に苦笑した。私も最初はハイライトだった。それは繭子も知っている。が、いま喫っている煙草も、私と同じものだという。その偶然性に愕いた。
「本当に恨んでたんだろうね」
「ああ」
 すべてがあの一日に起因している。
「忘れたことはなかったわ」
 嬉しいとは思わなかった。聴きたくもなかった。魅力がなかった。もっと好きな男がいた。寂しかった。そこにあなたがいたの。そう言われたほうが楽だった。
「最初の男だったしーー」
「女は男とは違う。最初の男なんか、次を見つければ忘れてしまう」
「最初の男で、大事な仲間でもあったから」
「聴きたくないな」
「そうよね。あなたにとっては、裏切られたってことだものーー」
 感傷はいまは私のほうが希まない。
「もう、それもいい」
「苦しんだのよ。行動を起こしたのは私だけど、夫となった人は、やはり、あなたとは違った。当時の私は、あなたが持っているものは夫にもあるものだと思ってた」
「俺は俺だ。他の誰でもない」
「安定を望むだけの、退屈な人だった」
「聴きたくない。選んだのはおまえだ」
「真面目で、仕事場と家との往復だけがすべての人」
「希みどおりだろう。正解だった。俺とならそうはいかない。おまえはおそらく、のた打ち回っていたはずだ。子供も出来なかっただろう。多分、いまごろは二人でどん底を這いずっていた」
「そうかも知れない。でも、日々、緊張しながら過ごし、退屈はしなかったでしょうね。セックスでも」
「結局はそれが不満だったのか」
「私、いろんな男と寝たの。身体があなたを探していた。私は求めていた。はじめての男で、女としての喜びまでも植え付けた、あなたを探し求めていたのかも知れない」
「俺はどこへも隠れていなかった」
「知ってた。川崎にいたことも。十年ぐらい前に島に戻ったことも。でもーー」
「もう、止せ。おまえらしくもない。逢えばこれまでの三十年を消せると思ってた。それは幻想に過ぎないことがわかった。おまえもだ。おまえの身体には三十年が纏わりついている。どう思うと勝手だが、亡くなった旦那を否定するようなことだけは言うな。これまでの三十年、その年月を過ごしたおまえをつくり上げたのは、俺ではない」
「冷たいのね。もし逢うことがあれば、きっと撲られる、と覚悟してた。私にはもう、撲る価値もないってことね。あなたには、こんな私を、撲る優しさもない」
「撲れば抑えがきかなくなる。一度撲れば、女だという意識もなくなる」
「それでいいのに。私は殺されてもいいと思ってたのに」
「慰めにもならん」
 三十年前がそうなら、私は震えるほどの充実を感じただろう。いまは、虚しい。裏切り。それにより、二人には、三十年後のいまがある。繭子は煙草を消し、
「私、どうすればいいのかな」
「もう、やり直すことは出来ないよ」
「そうね」
「しかし、おまえはいつまでも若い」
 繭子は笑い、
「おそらく、急激に老けるわ。あなたに逢ったから」
「逆だろう。俺に微かに残っていた体力を根こそぎ吸い取るようなセックスを、おまえは求めていた」
「馬鹿」
 繭子は私の胸を軽く叩き、
「本当のあなたにまた逢えたんだもの。当然じゃないの。夫とも他の男とのときも、少しは慎みを残していたけど、あなたとはそれだけに夢中になれる」
「俺は動物か」
「鳴り砂の浜で、父と遇ったでしょう。電話があって、それからよ。もしかしたら、来るかもしれないと思ってた」
「本当に三十年が過ぎたのだろうか」
「いまからじゃ、遅いのかな」
「これで、忘れられるよ。やっと、吹っ切れる」
「駄目か。やっぱり」
 私は綾の顔を思い浮かべていた。綾は繭子を知らない。だが、綾を不幸にしたのは、私であり、繭子なのだ。
 携帯が鳴る。深谷だった。しばらく帰るな。そう言った。忘れていた。私は自分のいまを忘れるほどに、繭子に没頭していた。繭子は深谷と電話で話す私を見つめていた。当然、何も事情は知らない。かつての仲間が島から、町を変えようとしていることも。
 大和田が体裁を棄てて、牙を剥き始めた。だから、まだ姿を見せるな。そう言う深谷に、私はすぐ帰ると言い、電話を切った。
 大和田は夫人が思う以上に、夫人を愛していたということだろう。大和田の牙は、夫人を私に陵辱された、と知ってのことだ。それは幸一も知っていた。身内なので当然だろう。深谷も知っているということは、表はともかく、裏社会の殆んどに知れ渡っている、ということでもあった。
「変わったわね」
 繭子はポツンと言う。見つめる私に、
「あなた、生き生きしてる。まるで高校生のときのよう。あのころ、喧嘩で手錠をかけられたときよりも、数段、生き生きしている」
「もう、逢いに来ることもない」
「私はもう、仲間ではないのね」
「俺の女ではない。だけど、仲間だよ。それはずっと、続く」
「私も島に帰って、昔のようにみんなにひっついていたい」
「俺たちはおまえたちを必死で護った」
「そうだった。でも、私たちはそんなあなたたちの心配をよそに、あなたたちが戦っているのをすぐ眼の前で見ていた」
 蘇る。安全な場所は男女ともに好まなかった。女たちも、眼はともに戦っていた。会えば何日でも群れていた。五人の男たちが、繭子たち女を囲むようにして歩いていた。
「何かあるのね」
「すぐ、済むことだ」
「1人で?」
「太一がいる。奴は昔のままだ」
「深雪や紀江たちはーー」
「島にはいない。幸せに暮らしているはずだ」
「会いたいね」
「そうだな。いつか、十人、顔を揃えられたらーー」
「あなたの女、としては無理なのね」
「それ以前に戻る。指一本触れようとせず、おまえたちを護っていたころに」
「そこまで戻れば、またやり直せるかしら」
「この三十年の記憶を消すことが出来るなら」
 綾。私の三十年を懸命に支えようとした。あなたに棲み付いている魔物を退治する。そう繰り返し、言っていた。決して消えない、記憶だった。いま、その魔物と向き合っている。
「死なないでよ」
「一度、死んでるからな」
「あの夏の日に、私があなたを殺したの?」
 私は唇だけで笑い、
「暑い日だったから、そこだけ記憶が薄れてる」
「私だって苦しんだのよ」
「もう、いい。いまの俺はこのホテルを出るまでに、何度おまえを抱けるか、それしか考えてない」
「私、棄てないで、なんて言いながらーー」
「もう、いい」
「抱いて。何度でも。私、あなたが駄目になっても可能にしてあげる。あなたをあのときの夜に戻してあげる」
 当時、一晩に七回、繋がった。朝、まだ可能だった。仕事があったから、断念した。どう足掻いても、あのころの勢いはない。未練が辛うじて、私に若さのようなものを貸してくれる。繭子はすでに、迎える姿勢になっていた。
 
「いま、帰った」
 電話での私の一言に、「馬鹿か」深谷はため息混じりにそう言った。帰宅し、島の家から電話した。
「静かじゃないか。俺は堂々と船に乗ったのに」
「偶然だ。裏では凄まじいことになってる」
「もう島に渡った。一安心だろう」
「いまは島だって絶対ではない」
「わかった」
 電話を切り、すぐに太一にかけ直す。
「龍介か。いま、どこだ」
「家にいる」
「何故、戻る前に連絡しないんだ」
「心配するな」
「油断するな」
「大丈夫だ。船に乗っているのも島の人だけだった」
「いまでは島にも、権力者に靡いている者がいる。その中の誰かがおまえが戻ったことを大和田に報せているはずだ」
「俺も有名人だな」
「おまえだけだ。いつになっても青春してるのは」
「気楽なものだ。おまえたちと違い、俺には失うものがない」
「俺や他の連中も、もう一度昔に戻り、戦わなければならないな」
「逼迫しているのか」
「おまえがそうして、無事に島に戻れたのが不思議なくらいだ」
「わかった。気をつけよう」
 電話を切った。町からの船上。何もなかったわけではない。町の港を出て、島との中間海域あたりで、私は襲われた。デッキで煙草を喫っていた。笛のような音がした。頭上だった。不審に思い、体勢を低くしながら見上げると、ロープが垂直に立ち、鞭のようにしなりながら振られてきた。
 強い風が吹いていた。咄嗟に両腕で顔面をガードした。鈍い衝撃。痛いとは思わなかった。潮に濡れ、鉄のように硬く引き締まったクレモナのロープ。凶器だった。以前、同じような体験をしていた。ヨットだった。そのときは拳で受けた。簡単に指の骨が折れていた。潮に濡れたロープは、風と組むと凶暴な武器となる。
 周囲を見回した。人は客室にいるだけで、外にいるのは私だけだった。ロープの端が短いマストに括られていた。狙われた。偶然とは思えなかった。何者かが、狙いをつけてロープを風に乗せたのだ。もう一度周囲を見回して、両腕を見る。太い蚯蚓腫れになっていた。血が滲んでいる。頭に受けていれば、間違いなく意識を失う。
 深谷が当分は帰るな、と言っていたが、予想が的中したようだった。船の中に敵がいる。ということは、島にも敵がいるということだ。私はそれを、深谷にも太一にも言わなかった。当然、大和田には報告されていることだろう。夫人の喘ぎ。あの夜が私を主役に押し上げた。
 お茶を淹れようとした。そのとき庭に車が停まり、太一が姿をあらわした。電話だけでは気持ちが済まなかったようだ。言わなかったことを言う。蚯蚓腫れも見せた。何故すぐに言わないんだ。太一は眼を剥いた。大したことではない。その油断が命取りになる。言い合った。止せ。俺たちは敵同士じゃない。笑いが二つ、重なった。
「漁師くずれだろう」
 太一が蚯蚓腫れを見ながら言う。私がうなずくと、
「それにしても、大した腕じゃない。俺なら一発で仕留めていた」 太一の眼は、笑ってはいなかった。
 
 夜。再び、太一が来た。島の男たちを伴っていた。八人。太一以外、顔見知りは少なかった。が、二、三人、見覚えのある顔がある。私と太一の昔はいずれも暴れん坊だった。喧嘩だけは人後に落ちなかった。いまの若い者たちは知らない。だが、男たちの眼は豹のように耀いていた。当然だろう。男たちは私とは違い、町や島を、自分たちの手で改革しようとしているのだ。私のように、邪なものは何もない。
 彼らを太一が纏めている。太一とは若いころ、昼夜を問わず、島の将来について語り合った。太一にとって、これは昔見た夢の実践でもある。果たして、当時語り合った夢を記憶しているかどうかは知らないが、いま、太一の影響下にある様々な年代の島の男たちが、私の眼の前で燃え滾っている。
「島もいまは、一枚岩ではなくなった」
 ビールを呑む。太一を中心とした円陣となる。群れを成していたころも、太一がリーダーだった。
「町が島に手を出しはじめてからは、ほんの一部だが、目先の欲に駆られて町の権力者に尾っぽを振りはじめた者もいる」
「時流だからな。仕方のないことかも知れない」
「そうだ。べつに恨んでいるのではない」
 時勢に乗るのは悪いことではない。都会も田舎も、それは変わらない。綺麗事だけでは喰えないのだ。とくに田舎は、地元大手の企業を頼りにし、経営者も自分の傘の中だけを潤わせようとする。
 権力者とは名士でもあるのだ。その中で、島は特異だった。海が生活の中心だった。企業とは無関係ではないが、それでも独自の生き方を続けていた。だが、権力者たちは市場を押さえ、傘に入らない島の人々の手足をもぎ取ろうとする。島の漁協は町の市場に頼らず、遠方に市場を求めて、今日まで栄えてきた。しかし、限界はもう、眼の前だった。
 靡く者がいる。このまま内通する者が増えると、島の歴史が毀れる。立ち上がるしかない。太一は言った。町を変える。それは島を維持することでもある。システムを斬新にする。大和田や市長を死滅させる。太一たちには大義名分があった。目的を持ち、戦おうとしている。私には何もない。キレて、それだけで、大和田を敵にした。偶然に、太一たちと敵が一致しただけなのだ。
「極道が絡んでる」
 私は言った。
「高村か」
 知っているようだった。ただ、いまは消息を絶っている。しかし、いずれあらわれるはずだった。
「若いころは、俺たちにヤクザがビビッていた」
 全員が笑った。事実だった。島の砂浜にいくつものキャンプを張り、背中の刺青をこれ見よがしにし、ヤクザたちが遊んでいた。夜、ネコいっぱいに積んだ砂を、三つのテントに同時に撒き散らし、私たちは戦いに挑んだ。無謀だとは思わなかった。怖いものなど何もなかったのだ。唯一、あと少しで仲間たちと散り散りになる。それだけが怖く、不安だった。
 出入り口から砂を放り込まれ、ヤクザは慌てていた。十五人。ヤクザたちは砂塗れだった。追ってきた、逃げた。海に走る。私たちは五人だった。追ってくるヤクザたちを振り返り、私たちは笑った。夜目の利く太一が合図する。散った。十人ぐらいのヤクザが飛沫をあげて海に入って来た。武器は網だった。投げた。瞬間、ヤクザは魚になった。
 何が起こったのか理解出来ず、残りの五人も突進して来る。胸が隠れるほどの浅瀬。網の中で十人が藻掻いていた。救けようと近づくヤクザたちが次々に倒れる。潜って奴らの足をとる。簡単なことだった。手足をバタつかせて、必死に立ち上がろうとする刺青の男たち。私たちは歓声をあげながら撲り、蹴り続けた。
 理由はない。背中の刺青。島には似合わない風体。それだけだったかも知れない。繭子たちも海に入って来て、周囲を優雅に泳ぎはじめていた。翌朝、ヤクザたちは躍起になって、私たちを探していた。闇で顔をわからない私たちを、だ。騒動を見ていた周囲の嘲笑。ヤクザたちは術もなく、午前中に島を去った。
「あの当時とは違う、今度は相手にも俺たちが見えている」
「わかってる。だが、島での喧嘩なら」
 ゾクゾクする。昂ぶる俺は本当に五十歳なのだろうか。私はいま、気持ちとしては、二十歳にも届いていなかった。
「町に人相のよくない、素性の知れない者たちが集まっています」太一の隣りに坐る男が言った。
筋者だろう」
「高村も一緒でした」
 高村。どう決着したのかは知らない。町を歩いていたということは、赦されたということか。そうなると手ごわい。高村の力は深谷と拮抗する。面子を取り戻そうとする。手負いの獅子なのだ。
「本意じゃないだろうな、高村は」
 太一は言う。窺う私に、
「奴は骨のある男だ」
 私はうなずいた。
「町は荒れるな。素性のわからない奴らを見過ごしていたら、深谷が嗤われる」
「竜彦か」
 太一は言った。
「知ってるのか」
「親友だよ。仙台の高校での同窓だ」
 太一だけが仙台で、高校生活を送った。私立だった。愕いた。深谷はそれについては、一言も言わなかった。
「おまえのことも話してある」
「いまじゃ、俺も仲間のようなものだ」
 太一の後ろ盾が、深谷を私に近づけたようだった。
「そうらしい。極道が舌を巻くとおまえのことを言っていた」
 周囲から笑いが弾ける。私は煙草を銜え、
深谷こそ堅気のようだ。顔を見ただけじゃ、たしかに俺のほうが極道のようだ」
 再び周囲が笑う。
「ヤクザだが、俺は奴を嫌いではない」
「裏切らない男だよ」
 それにうなずきながら、裏切らない、という一言で、私はふと、剣崎のホテルでの繭子を思い出す。
 ホテルを出て、三浦海岸まで私を送ってくれた。車で東京まで送るといって引かなかった。断った。三浦海岸駅の改札口で言っていた。
 私、まだ仲間なんだよね。そうだ。私は応えた。繭子は仲間を裏切ってはいない。私という、一人の男を裏切っただけなのだ。
「繭子と別れた」
 私は唐突に言う。訝しげな視線が集まる。太一以外は、理解出来ないのは当然だった。無理もない。年代が違う。
「三十年も会わないでいたのに、腐れ縁とはおまえたちのことを言うんだ。いまごろになって別れたか……。おまえらしい」
 太一が笑う。
「やっと別れられた。別れて、繭子は仲間に復帰した」
「違う。ずっと仲間だったよ。おまえも繭子も」
 取り巻く情勢が逼迫している中で、いい酒になりそうだった。
「これで、本気で綾を愛せるかも知れないな」
 太一の言葉に、私は曖昧な微笑を浮かべただけだった。綾との時間。もう、私の都合だけでは近づくのは無理だろう。しかし、会わなければならない。改めて、いまの綾に、いまの私はいつか、会わなければならない。
 
 島には警官の駐在所が一つあり、ダンポさんと親しまれている警官が一人いた。交番なのだが、他とは形態が違い、一軒家を借り、玄関に駐在所という表札のような小さな板切れがぶら下がっているだけだった。町の警察とは付き合いはあるが、頻繁な行き来はないらしい。
 昔から、不思議なことばかりが罷り通る島だった。駐在している警官は島民に親しまれているが、得体が知れなかった。体格こそ屈強そうだが、普段は目立たない老人で、時折、自転車や軽自動車で島内を巡回し、暇を持て余しては、島でもっとも大きい浜の堤防で、釣り糸を垂れたりと、実にのんびりとしていた。
 これまで、島では事件と呼べる問題は殆んど起きていなかった。年に何度か、鳴り砂の浜近くに打ち寄せられる溺死体の処理や、緊急の病人などが出たときだけ、金井という老警官は、おっとりとした表情を棄てて、敏速に動き回る。金井は警官というよりは、よそ者にも係わらず、島民になりきろうとしているようだった。その金井が、若い男を伴い、私の家にあらわれたのは、午後だった。
 私は家に籠もり、もっぱら電話で、深谷や太一たちと連絡を取り合っていた。若い男は一目で刑事だとわかるほど、顔に体制を描いていた。好きなタイプではなかった。柔道か剣道の有段者なのだろう。スーツの上からでも筋肉が見えるようだった。首が太く、短い。短髪で、人相は悪くないが、所謂、いきがりが如実で鼻息が荒い。。
「ごきげんよう」
 金井は近くまで来たついでに立ち寄ったという感じで、人懐っこい笑顔を向けた。縁側に坐り、霞んで拡がる海を見ながら、少し曲がった煙草を銜えた。若い刑事は立ったまま、私を最初から凝視していた。獲物を見つけた動物のような眼をしていた。
「仕事以外には動きたくないんだがーー」
 金井は眼を細めて、相変わらず、海を見ていた。庭の角にある一本の桜は、もはや葉桜だった。
「仕事以外ってことはないでしょう。これ以上の仕事がありますか」
 気負いがそのまま、若い刑事の口調にあらわれていた。
「大和田社長を知ってるな」
 最初から横柄だった。まるで被疑者に対するように。
「以前勤めていた会社の社長の名前が大和田だった。それしか知らんな」
「その大和田様から被害届が出されている。告訴だ。おまえは訴えられたのだ。婦女暴行、住居不法侵入。町の署まで来てもらおうか」
「おまえにおまえ呼ばわりされる筋合いはない。ふざけてんじゃないぞ、小僧」
 由梨絵の顔を思い出す。由梨絵は私に「おまえ」と呼ばれることを嫌っていた。そして、おまえと呼ばれることが嬉しい、と言った直後に殺されたのだ。
 大和田。直接手を下してはいなくても、殺したのは大和田なのだ。若い刑事が気色ばみ、私ににじり寄ろうとする。
「止せ」
 地鳴りのような声。金井だった。
「同行してもらうほど、整っているわけじゃない」
「しかし、大和田社長自ら、この男を告発してるんですよ」
「歳上の人に対する言動には充分に気をつけるんだな。ここは島だ」
「しかしーー」
「たしかに、大和田が訴えているらしい。それを教えようと思ってね」
「金井さん、社長に対して呼び捨てはないでしょう。それに、整っているわけじゃないと言いますが、あと何が必要ですか。この男、社長のおっしゃるには、世話になった社長に背き、深谷なんかと組んでかなり社長の妨害をしているとのことです。放っておいていいわけないでしょう」
「大和田が襲われたわけじゃあるまい」
 何を今更、という顔で、若い刑事は金井の横顔を見据えていた。
「夫人が自分で訴えたんなら話は別だ。現行犯ならともかく、当事者である夫人からの訴えもないし、物証は何もない。あの夜いたという、人相のよくない奴らも、この人の顔は見ていない」
「夫人がご主人である大和田様に告白したということでしょう」
「作り話とも言える。それに、わしの聴いたところでは、夫人は公にするつもりはないらしい。夫人はいま、社長とは別居しているしな。事実関係はともかく、夫人が訴えたんじゃない以上、早坂さんが否定すれば、事件として成り立たない」
 金井は視線を私に向けた。
「夫人は東京の知人のところにいるらしい。浅草とか言ってたな。ま、大和田があんたを訴えたことは事実だ。夫人の委任状はないがね。少し、自重してもらおうと思いまして、今日はお邪魔しました。わしはあと少しで定年ですからな。余り、面倒は背負いたくない」
「金井さん」
 若い刑事の剣幕にも、金井は飄々としていた。
「どういうことかわかってるんですか」
「何がだ」
「町の署からの指示なのですよ。大和田さんの力をもってすれば、俺たちの首を飛ばすぐらいは簡単なことなのですよ」
「ふざけるんじゃない」
 鋭い声だった。不気味な迫力があった。言葉を呑み込む若い刑事に、
「町の署だと。それがわしと何の関係がある。この早坂さんの周囲を考えたことがあるか。この人を囲んでいる人々は、島の有力者ばかりだ。町の大和田、いや、それ以上の力が、この人を取り囲んでいる」
「そんなもの、この小さな島の中だけの力じゃないですか。どうにでもなることだ」
「見縊るな。今日は暇だからおまえに付き合ってやっただけだ。そうでなければ、おまえなどこの島から帰ることは出来んところだ。言っとくがな。わしはもう、島の人間だよ」
 金井の迫力に、若い刑事は怯んだ。私は無言のままだった。金井という老警官には、常々、得体の知れない何かを感じていた。それは一体何なのか。いつもは茫洋としているが、違う一面をまざまざと見た。
 この島の派出所に流された理由などはどうでもよかった。流されたのではないようだ。肩書きも知れ渡っているものとは違うような気がしてならなかった。嫌いなタイプではない。だが、敵に回せば、手こずりそうだ。金井はなにごともなかったように、ゆったりと煙草を喫いはじめた。
「とにかく、俺は署に戻って、ありのままを報告しますからね」
「好きなようにしろ。所長の近藤に言っておけ。俺はまだ、元気でいるとな。それに、余り阿漕な奴のケツをいつまでも持ってると、前途はなくなるとも言っておけ」
 金井は私に向き直った。
「わしは善悪は別にして、信念を持っている人が好きでね。ま、それが悪ならば、立場上追わなければならんが。そんなことは別にして、あんたとは一度じっくり一緒に呑みたいものですな」
 と言った。町の警察署署長を呼び捨てにした。喧嘩を売った、と言ってもいい。唯の警官ではない。やはり、どこまでも得体の知れない人物だった。
「一緒に釣りでもして、そこであがった魚で一杯やりましょう」
 私は応じた。
「いいですな。鳴り砂の浜周辺は、よくアイナメが釣れると聴いてます」
 金井は立ち上がる。若い刑事は依然として、憮然としたままだった。行くぞ。金井は言った。
「あなたは署長を呼び捨てにした。そのことも報告していいんですね」
「勝手にしろ。近藤はおそらく、何も言えんだろうがな」
 金井はそう言い、
「ま、元気なのは結構ですが、程々に」
 振り向いて、私の顔を見ると、人懐っこい笑顔に戻った。私はうなずいた。しかし、程々には、無理だ。思ったことはやる。襲う者がいれば石を持ってでも自分を護る。死ぬときはどんなに努力しても死ぬのだ。それが最近得た、死生観だった。私は庭先まで金井を送りながら、改めてそう思った。若い刑事は相変わらず怒気を含んだ視線を向けていた。促され、足早に歩きはじめる。金井は散策するような歩みだった。時間を気にする素振りもない。鼻歌でも口ずさんでいるような後姿だ。縁側に戻ったとき、電話が鳴った。太一からだった。出るなり、
「見馴れない男たちが島に入った」と言った。 
 慌てている様子は微塵もない。
「何人だ」
「五人。宿は山里だ」
 山の中腹にある旅館だった。家からそう遠くない。そろそろ観光客が島に入りはじめていた。しかし、目的が違う客は、一目でわかる。島の出入り口である連絡線の発着所はチェックされている。ただ、島には人気のない小さな浜が無数にある。夜なら、そこから入られる可能性がある。しかし、いずれの浜も辺鄙な場所にあり、島民以外では人が棲む集落まで到達するのは難しい。
 連絡船は島の有志が株を持ち合い、町とは無関係に運営されていた。市との係わりは、町の発着所の土地を借りていることだけに過ぎない。毎月、地代を払っている。最近、町側にその権利を取り戻せ、との動きがある。それにも大和田が一枚咬んでいた。
 官から民へ、とあちこちで問題提起されている中、町の権力者たちは時代に逆行するような画策をして、平然としている。
 画策はこうだ。一度、町が島にとんでもない難癖をつけ、連絡船確保に動く。権力で連絡船の権利を手中にし、一、二年運営する。その後、やはり、民間の優れた経営者に、という目論見済みの判断を下し、そこで大和田が手を上げる。誰もがそれをわかっていた。そのように、島には町と敵対する理由はいくつもあるのだ。当然、島へ出入りする人々へのチェックは厳しくなる。
「どうするんだ」
「待つ」
「ガードさせよう」
「いや、一人でいい」
「危険だ」
「ここは島だ。夜は月でもないかぎり真っ暗だ。地の利は俺にある」
 晴れていたが、昨夜も月はなかった。昼、遭遇する確率は低い。島を知っている者の入れ知恵なのだ。昼の行動は無謀だということは叩き込まれているはずだった。だが、島は夜動くほうがもっと怖い。太一との電話を切ってすぐ、深谷に電話した。巨大水族館建設工事を深谷の関係する企業が落札し、騒然となり、工事はまだ、着工していなかった。
 市長が新聞で言っていた。談合の懸念があると。その疑惑を追及し、白黒があきらかになるまで、着工は延期する、とのことだった。談合の黒幕の片割れが、談合を告発していた。それにはもう一人の黒幕である、大和田も当然絡んでいる。
 深谷のところは談合になど加わってはいない。私を通じて、入札値を盗んだだけなのだ。大和田の全面的ミスだった。大社長とはいっても、田舎社長の脇の甘さに他ならない。大和田は値を盗まれた腹いせに、元愛人であり、死ぬ直前まで私の愛人でもあった、由梨絵を殺した。もっとも、それは口が裂けても言えないことだ。どう足掻いても、工事は必ず着工される。不正はないのだ。世論が赦さない。メディアが動き始める。深谷は市長側の陰謀に備えて、様々なスキャンダルを用意しているようだった。
 市長と大和田。さらに高村の関係する裏社会との繋がり。由梨絵の死の真相までを織り交ぜた告発文を、ある週刊誌に提出するプランを抱いていた。それはまだ実行されていないが、おそらく、高村側にリークし、牽制しているはずだった。
 この先、私や島をも取り込んだ抗争は必至なのだ。大和田たちは私たちが消えて、はじめて安堵する。そうなれば、この町ではどのようにも繕える。あの若い刑事の動きから、警察署長までが大和田たちに動かされているような印象を受けた。町では不利だった。島におびき寄せてこそ、勝機がある。
 島はずっと、そうして外敵と戦って来たのだ。太一たちは島の一部に存在する、大和田たちの息のかかった者たちを特定し、囲みはじめていた。彼らは一人として、もう、島の外には出られないはずだった。団結したときの、島は怖い。もっともいまなら、情報の一部は電話で筒抜けだろうが、しかし、町に内通している者たちには、その情報も、操作されたものしか入ってはいないはずだった。
「島に若いのを入れる」
 深谷は事情を知るとそう言った。断る。そう言っても納得しなかった。それでは自ら島に渡る、と言う。
 おまえは恩人だ。そうも言う。入札の件を言っているのだ。勝手にしろ。そうさせてもらう。私はそれ以上。断り続けることは出来なかった。深谷は勝ち誇ったように電話を切った。
 
 午後五時。外はまだ、明るい。庭でゴルフスイングの練習をしていると、家に続く坂道を近づいてくるタクシーが見えた。庭に来て、停まり、降りたのは裕美と幸一だった。
「よくここがわかったな」
 裕美とはホテルを辞めてから、一度会っただけだ。電話をしなくなってからでもだいぶ経つ。幸一とは川崎のホテルで、電話で話して以来だった。裕美は以前、幸一から正式に交際を求められたと言っていた。反対はしなかった。死んだ由梨絵とは異なり、可愛くて都合のいい女という意識が強かっただけに、本人が他の男と付き合いたいと希めば、快く送り出すつもりでいた。二人であらわれたのだ。幸一を受け入れているということだろう。むろん、二人とも私の家に来たのははじめてだった。
「港で部長の名前を言ったら、連れて来てくれたの」
 裕美が会社以外で部長と呼ぶのもはじめてだった。
「入れ」
 玄関に向かって歩きはじめた。幸一は照れ臭いような顔をしていた。当然だろう。かつては裕美の男だった私のもとを訪れたのだ。電話で裕美のことを打ち明け、赦しを乞おうとしていた。自由だ。そう応えたが、直に会うのはその後ははじめてなだけに、緊張しているようだった。父親である大和田と私の現状も、気になっているのだろう。
「部長、益々若くなったみたい」
 茶の間に坐り、裕美は私にあれこれ質問しながら、お茶を淹れた。
口調が私と付き合っていたころよりも、幼くなっていた。先月、一つ、歳を重ねたはずだった。女はありのままを曝け出すと、いくつになっても口調は幼くなる。それは男も同じかも知れない。これまでは私に合わせていたのだろう。背伸びしていたのだ。巧みに。
「毎日ブラブラしているからかな」
「そうかしら。久しぶりに会ったせいか、精悍な印象だけど」
 それには応えず、
「どうなんだ、仕事は」
 幸一に言った。
「客が減りました。俺なりに努力しているつもりですが、でも、外に出て実感したことですが、部長は単なる一つのホテルの営業部長ではなく、エージェントにとってはブランドになっていたんですね」
「買い被らないでくれ」
 ホテルとエージェントの繋がりなど、複雑なようでいて単純なのだ。様々な会合があり、私はそれらの殆んどに参加した。そうした時間の積み重ねが私を押し上げた。
 激しく動き、何人もの人がリタイヤしたり新参入する中で、私はいつしか古参になり、エージェントとの会合でも、地位が少しずつ上昇し、いつの間にか上座に位置していた。役を引き受け、名刺の裏にはそれらの肩書きが羅列されていた。
 単なる肩書きではなく、エージェントとはむろんのこと、町近郊ばかりでなく、それが各方面への力となってあらわれる。極めて特殊なものだった。それが私が退職した時点でご破算となった。
 ホテルとではなく、あくまでも営業マンとしての私との関係だったからだ。そうなると、それらとの関係は一からやり直さなければならない。辞める前に、私が後任者を連れ歩き、禅譲していれば多少の恩恵はあっただろう。しかし、私は一切を棄て、ホテルを辞めた。ベテランの営業マンたちでも、私の抜けた穴を埋めるのは容易ではないはずだった。
「俺だって、最初から上手く回せたわけじゃない」
「それはわかってます。だけどーー」
「親父がうるさいか」
「はい。何故肩書きすべてを譲り受けなかったのかと」
「親父も業界の仕来たりの入り組んだところまでは把握していない」
「どうにでもなるはずだと思っているようです」
「怒っているだろうな」
「早坂一人で何が出来る、と喚いてます。あいつの外での信用も、ホテルをバックに背負っていてのものだろうと」
「一理ある」
 たしかにそうだった。いくら私に営業マンとしての才能があったとしても、ホテルというバックボーンがなければどうしようもないことだった。ただ、迎えるホテル側に魅力がないと、見向きもされなくなる、というのが現実なのだ。しかし、もし復帰となれば、私にはそこそこの客を集める自信はあった。
「内容が充実していれば、そう客は落ちることはない」
「そこなんです。部長が抜けてから、全体の箍が弛みはじめてーー」
「それを絞めるのがおまえたち幹部の仕事だろう」
 幸一はため息をつき、
「実を言うと、身が入らないんですよ」と言った。
 お茶からビールに変えた。裕美も呑みはじめていた。深谷はまだ来ない。
「最近の親父、仕事そっちのけで変なのです。だから、古い社員たちもやる気をなくして」
「あの社長はホテルだけじゃなく、系列のいろんな会社の社長だからな。忙しいのだろう」
「それならいいんですが、どうもおかしい」
「入札に失敗してからか」
「それもあります。しかし、それ以上にショックだったのは、あの、俺といくつも変わらない、義理の母親のことです」
「部長が姦ったんだってね」
 裕美が眼を耀かせる。
「いつも放りっ放しにしておきながら、嫉妬だけはするのか。あの社長らしくもない」
「嫉妬はどうか知らないけれど、おそらく面子ですよ。あの晩、用心棒として家にいた二人の男たちは、さっそくひどい目にあったって話です。それによって、高村というヤクザも、再び拙いことになり、一度消息を絶っていたのですが、それの後始末をつけさせようと、復帰させたみたいです」
「夫人はどうしてるんだ」
「東京からは戻りました。開き直っているようです」
「おまえはどうなんだ」
「本当はあの二人、上手くいってなかったんです。ただ、不思議なことに、俺はあのオフクロのこと、嫌いじゃないんです。部長が犯人だと聴いて、オフクロにそのことを問い質したんですが、否定も肯定もせず、微笑んでいました」
 私も微笑んだだけだった。
「いま、夫人はどこに」
「ホテルです。あ、これ」
 そう言って、幸一はポケットから手帳を取り出し、数字を書き込むと、私に渡した。携帯の番号だった。
「オフクロのです」
「変わった奴だ」
「これが最初で最後かも知れませんから。部長と一緒に戦いたいって気持ちは強くあるんですが、しかし、一応、俺はホテルの役員だし、そうそう勝手なことをするわけにはいきません」
「大人になったな」
 幸一は笑い、
「ひょっこと言われながら、部長の傍にいて悪さをしているほうが愉しそうですけど」
「おまえの天下になったら、すぐ、会社は社長個人の持ち物だというくだらない考えは棄てて、社員全員の職場にすることだ。そうすれば、自然に客は来る」
 幸一がうなずく。覚悟はあるようだった。
「ところで、おまえたち、うまくいっているようだな」
 少し窓が開いていて、弱い風が入り込んでくる。まだどこかに残っていた桜の花びらが、二つ三つ、庭に散るのが、ガラス越しに見えた。外は薄暗くなりはじめていた。
「最初は乗り気ではなかったのに、この人、本当にあたしに夢中だってことがわかったら、何となくーー」
「すみません」
 幸一は私に向かって頭を下げた。
「謝ることはないだろう」
「ね、変な人でしょう。部長は由梨絵先輩を好きだったのだからって説明しても信じないの、この人」
 由梨絵のことは裕美には告白した。部長は由梨絵先輩が好きだった。そうだろうか。違うような気がする。しかし、いまとなってはどうでもいいことだった。由梨絵は死んだ。殺されたのだ。復讐はしたかった。好きだったからとは違う。由梨絵は私の女だった。殺されて何もしないのでは、俺の女としての由梨絵が浮かばれない。
 夫人を犯すのも復讐の一環だった。ただ、犯すつもりが合意になっていた。激しく揺れ動く尻がそれを証明していた。私だけが知っている。裕美も幸一も経緯は知らない。それでも由梨絵の死の背景には薄々気づいているだろう。裕美が私を見つめた。
「もう、二ヶ月になるのね」
「そうなるな」
「由梨絵先輩、生き生きしていたのよ」
「あれは親父が殺したも同然だ」
 押し殺したような幸一の声だった。
「オフクロを姦ったのだって、復讐だったのでしょう、松永さんの」
 私は無言だった。私が夫人に近づいた経緯も薄々は感じていたようだ。やはり、ボンボンではあるが、愚鈍ではない。
「忘れたよ」
 私はぶっきら棒に言う。誰が殺そうと、由梨絵の死は私との係わりからだった。大金庫を開け、入札に関する書類を探れ、と言ったのは私なのだ。由梨絵はためらわなかった。危険だとは充分に知りながら、由梨絵はそのときどきを燃焼しようとしていた。
 殺された。しかし、殺したのは私も同然だった。それでも私は、殺した相手に復讐しなければならない。電話が鳴った。太一からだった。
「たったいま、深谷が島に入った」
「何人だ」
「一人だ。おまえの家に行くと言っている。俺も一緒に行く」
「わかった」
 電話を切る。
「泊まるか」
 二人に言った。
「帰ります。まだ船はあるでしょう」
 午後六時。最終便までにあと二便ある。私はタクシーを呼んだ。二人が去る間際、私は幸一に言った。
「余計なことは考えるな。ホテルの仕事と裕美のことだけを考えろ」
 幸一はうなずきながら、
「しかし、俺だって部長のようにいつキレるかわかりません。そのとき、自分がどこに立っているのか。もし、部長と違うスタンスでいたとすれば、そのときは俺、必死になって部長とも戦うかも知れません」
「ね、この人、少しずつ、あたしのタイプになっていく」
 うなずいた。幸一を好ましいと感じた。
 六時を過ぎて、釣瓶落としのように闇に変わった。二人を乗せたタクシーが坂を下っていく。ヘッドライトが交差する。深谷を乗せた太一の車とすれ違ったようだ。車は庭まで入って来た。
 空を見上げた。曇っているようだ。星一つ見えない。十軒ほどの家がある山間だった。周囲が鬱蒼とした雑木林に囲まれていて、吹く風に木の葉が揺れ、葉っぱが擦れ合う音が静謐を際立たせていた。
 
「久しぶりだな」
 電話では何度も話してはいても、深谷と会う回数は減っていた。二人はずかずかと家に入り、太一はまるで自分の家のように、台所へ行き、冷蔵庫からビールを出す。肴は持参していた。ホヤがある。まだハシリだろう。鰹もあった。もう、そんな季節なのだ。
「深酒は出来ないな」
 言う深谷に私はうなずく。呑む前に太一が再び台所に立つ。鰹を卸しはじめる。深谷とともに行ってみた。頭を刎ねる。腹を割り、腑を出す。背骨を外し、包丁を入れる。鮮やかなものだった。
 瞬く間に刺身が出来上がる。骨や臓物は器に入れラップをかけて保存する。それでつくるアラ汁が絶品なのだ。太一は普通の刺身盛りにはしなかった。漁師式だった。大きな鉢状の青磁皿に玉ねぎのスライスを敷く。その上に削いだ鰹を無造作に放り込んだ。それでいて見栄えよくおさまっている。上から、紫蘇の葉、レモンの薄切り、葱、浅葱などを刻んで全体に振りかける。すべて太一が持って来たものだ。
 最後にい汁をかける。魚醤とも言う。これはこの島独自の、魚を原料にした醤油のようなものだった。それで出来上がりだった。ホヤは六個あり、身を取り出して二つ切りにして丼に入れた。黄桃のような身が丼からはみ出ていた。小さく切る必要はない。漁師は海水で洗っただけで丸ごと口に放り込む。私も小さいころから、そうして味わってきた。美味かった。毎日のように見たり造ったりしているホテルの厨房で使うものとは格段に違う。乱暴この上ないが、新鮮だった。アルコールは意識的に余り口にしなかった。だが、肴だけはたらふく喰った。一息つく。深谷は何度も、「美味い」を繰り返していた。
「仙台で昔喰った鱈チリも美味かったが、これは美味すぎる」
 二切れ残っていた。漁師式鰹の叩きを具ごと寄せ集めながら、深谷はご満悦だった。太一も、
「昔は喰うものに餓えていた。いま思えば半分腐ったような鱈だったが、たしかに美味かった」
 そう言った。太一と深谷が仙台の高校で同窓だったことは、最近知ったばかりだった。その繋がりで、深谷が私に近づいたことも。
「喰った。あとは軽い運動が必要だな」
 太一が腹を擦る。
「八時か。まだ、早いな」
 私は時計と闇の外を見た。あと一時間ぐらいか。外の闇は不気味なほどに濃くなり、外灯もない細い路を歩くには、懐中電灯が必需品だった。濃い闇を見馴れない男たちにとって、この暗さは行動するには絶好ではあるが、不馴れな地形と、町では体験不可能な分厚い闇では、リスクのほうが圧倒的に大きいはずだった。
「ここで大人しく待っていることもないだろう」
 やはり、腹を擦りながら、深谷が煽る。
「行くか」
 男たちが泊まっている旅館と私の家は、目と鼻の先だった。私を狙おうとしているのだろう。しかし、それが達成出来ても出来なくても、問題を勃した男たちが、自力で無事に島を出られる可能性は低かった。
 町と島。人々の意識がまったく違う。町で島を潰そうとしているのは、大和田を中心とした、金力を背景にした苔むすような黒幕たちだった。一般の人々にはあずかり知らぬことなのだ。
 島は違う。大和田に内通しているという一部を除き、島は全員が構えているのだ。それが遠い過去からの教えだった。島民はそこいらに散らばる、小石の位置さえ把握しているのだ。深谷だけが濃い闇に戸惑っていた。歩きはじめた。振り向いた。二、三メートル後方を歩く太一の銜えた煙草の火が、闇の中に浮遊していた。その太一が立ち止まり、携帯を取り出す。短縮呼び出し。相手はすぐに出たようだ。
 わかった。太一は一言で電話を切った。
「部屋にいるそうだ。呑んではいないらしい」
 男たちが泊まっている旅館に電話したようだ。五つ歳下の男が経営している。以前、顔を見ても思い出せなかった。剃り上げたと思わせるほど、見事に禿げていた。
「こっちからお邪魔してやろうか」太一が笑う。
「旅館に迷惑がかかる」
 深谷は極道らしくないことを言う。
「奴らしか泊まっていない。何の動きもないので、山に夜景見物に誘うと言ってた。あの旅館の売りがそれだからな」
「それはいい。山頂に置き去りにするか」
 と言う私に、二人は笑う。
「あいつもそう言ってた。はじめての客だし、何かあるといけないので、前金で宿泊料は受け取っているらしい。奴はどんなときでもしっかりしてる」
「おまえたちの後輩らしい」
 深谷が吹き出した。
「だけど、山頂への夜景見物などに、あの無粋な奴らが乗るか」
「乗るさ。奴らにしても、夜の山は興味があるだろう」
 夜しか行動は出来ない。山頂からなら、家々の灯により、島の大よその輪郭は一目瞭然なのだ。見て損なことはない。
「それじゃ、先に行ってるか」
 歩調を速めた。山とはいっても、小高い丘のようなものだった。だが、いったん鬱蒼とした山中に入ると、とくに馴れない者には西も東もわからないはずだった。
 島全体が平坦な地形なので、異様に聳えて見える。山頂からは遠くに町の灯も見える。路は曲がりくねっていた。車が来れば、ヘッドライトが報せてくれる。中腹まで歩いても、光は見えなかった。旅館の主人が私たちの歩調を測っているのだろう。山頂の手前まで登ったとき、光線が見え、木々の間を縫うように車が近づいてくる。
着くまでに、私たちは煙草を一本、喫い終えた。
 
 車は旅館の主人、自らの運転だった。男、五人。降りて周囲の闇に威圧されたように佇んでいた。一人ひとりの動きがよく見えた。声も聴こえる。
「四十五分後にお迎えに参ります」
 主人は少し大きな声で言い、ドアを閉めると短くクラクションを鳴らした。男たちに対してではない。私たちへのものだった。
 テールランプが遠ざかる。男たちは山頂を見上げていた。徒歩で五十メートルぐらいある。濃い闇での急勾配だった。はじめての者には過酷な距離だろう。
「こんなことしてる場合か」
 男たちの一人が言う。
「仕方ないだろう。表向きは旅行者だ。旅館の常々のサービスを強引に断れば不審がられる。一般人にまで変な眼でみられたくはない」
 島を知らない。一般人などいないのだ。
「まぁ、いいだろう。明日の夜までは予定はない。夜景も悪くない。缶ビールまでサービスにくれたんだ。呑みながら、一晩ぐらい寛ごう」
 少しは眼が馴れてきたらしく、小道を登り始めた。それにしても何て暗い夜なんだ。足を滑らせた男が舌打ちしていた。私たちは小道の両側に根を張る太い松の木に身を隠し、奴らが近づくのを待っていた。
 造作もないことだった。一発で男たちは、車を降りた地点まで転げ落ちていくだろう。まず、私が動いた。四人やり過ごし、最後の一人を不意に引き摺り込んだ。気配に他が振り返る。一斉に飛び出し、相手を錯乱させた。すでに二人が坂を転がっていた。足もとにある小石を拾い、頭を直撃したのだ。瞬時に気を失った。転げ落ちたことも記憶にないはずだ。三人、残っていた。ナイフが光った。一人だ。こいつは俺がやる。深谷は言った。怖いとは思わなかった。圧倒的に有利だった。深谷はナイフを出した相手に刃物を取り出した。匕首だった。
「誰だ、おまえたちは」
 男の声が怯えていた。
「自己紹介している暇はない」
 深谷は苦笑と同時に動いていた。悲鳴があがった。相手が倒れた。
「大したことはない。眼を一つ抉っただけだ」
 充分すぎるほどに大したことだった。相手よりも、深谷の冷静さが怖ろしい。太一が一人の男と組み合い、坂を転げはじめた。他の男の視線が追う。私の靴先が相手の向こう脛にめりこんだ。蹲る。ためらわず後頭部を蹴り上げた。転げ落ちていく。
「行こう」
 深谷を促し、坂を滑るように駆け下りた。一人立っていた。太一だった。
「すっぽんみたいな奴だった。縋りついて放そうとしない」
 太一の息が荒かった。
「大丈夫か」
 肩で息をしている太一が、私と深谷を心配していた。
「物足りないぐらいだ。深谷が1人の眼を抉った」
「相変わらず、人の心ってものが感じられないことをする奴だ」
「膝間づいて懺悔でもしろってのか」
「匕首を供えて」
 笑った。倒れている男たちに近づいた。
「医者にーー」
 眼を斬られた男が呻いていた。
「探すんだな。自分たちで」
「はじめてなんだ、島は」
「大和田に言っておけ。島はミサイルでも使わなければ、侵略出来ないってな。それと、今度人を送るときには医者も帯同させるように言っておけ」
「殺して海にでも棄てるか」
 深谷は淡々と言う。男たちが硬直した。気絶から醒めた男たちは、現実を理解出来ないようだった。つくづく思う。若いころに鍛えた眼が役立っていた。十代のころ、何度も深夜の海に潜った。さすがに裸眼では難しかったが、小さな灯一つあれば、岩と同系色の鮑も見えた。漁師は海で闇など苦にしない。私も真似事だけはしてきた。町にはない闇。差は歴然だった。私たちには一部始終が見える。男たちは、いまだに顔さえ定かではないだろう。
「どうすればいいんだ」一人が言う。
「こうするのさ」
 太一の足が、男の顎を捉えた。顎を蹴られながら、男の両手は斬られている眼を押さえたままだった。先に転げ落ちた二人の男は、戦意を喪失したままだった。極道なのだろうが、修羅場体験が足りないようだ。気迫がまるで感じられない。私たちは山を降り始めた。私はナイフを握ったままだった。深谷が眼を抉った男のものだった。棄てるのが惜しかった。
「奴ら、どうする」
 太一が振り返る。
「足はある。歩けるはずだ。眼も死ぬほどの疵じゃない」
失明するぐらいか」
「一応、手加減はした。良心の呵責ってやつだ。運がよけりゃ、見えるようになる」
 他人事のように言う深谷に、
「何とかに刃物ってこのことだな」
 太一が混ぜっ返す。
「診療所の医者に電話しとくか」私が言うと、
「おまえも良心の呵責か。放っておけ。ヤバイと思えば這ってでも病院まで辿り着くだろうし、大丈夫と判断すれば町まで我慢するだろうよ」
 太一が応える。
「島から出すのか」
「あんな奴ら、抱えてたって無意味だろう。棄てるにしたって、島の海が汚れるだけだ」
 太一も充分すぎるほどに極道だった。
「これからは何かとメリハリの利いた毎日になりそうだな」
 争い事が大好きな深谷らしい科白だった。
「おまえはいつ帰るんだ」
「明日の早朝。身内の体勢を再チェックするつもりだ」
「油断するなよ」
「油断はしないが、あくまでも前向きにいく」
「ヤクザの前向きってのは何だ」
 太一と深谷とのやりとりを聴きながら、私は苦笑していた。一歩先の危険を充分に知りながら、まったく動じてはいない。五人の男を相手に立ち回りしたことさえも忘れたように、実に淡々としたものだった。掠り疵一つ負わない。争ったという実感がない。家に近づいた。近所の犬が吼えはじめる。
 
「裕美が大変なことにーー」
 幸一の声が震えていた。男の眼を抉った、三日後のことだった。その幸一からの電話で眼醒めた。
「落ち着け」
 間があった。嗚咽している。幸一が泣いていた。背筋に冷気が走る。
「事故です。東町の銀行前の路上で、トラックに跳ねられてーー」
「トラックだとーー」
 跳ねられるほど、裕美は鈍くない。
「それがどうも様子がおかしいんです」
「わかった。それで、様態はどうなんだ」
「まだ、何とも言えない状態です」
「おまえはいま、病院か」
「はい。総合病院です。裕美は集中治療室にーー」
「わかった。すぐに行く」
 臭かった。匂う。幸一もおかしい、と言っていた。微かな動揺はあった。が、すぐに落ち着きを取り戻した。五人の男。あの夜に起因している。直感だった。立ち上がった。町へ行く。深谷に電話した。
 止せ。いや、事態は緊迫しているんだ。行く。私の決心に、いまはおまえにまで手が回らないんだ。深谷は言った。わかってる。そう応えた。すぐに太一に電話し、舟を用意させた。尻に船外機を付けた小舟だった。地上のオートバイのようなものだ。華奢だが、スピードだけは出る。
 太一も町へ行くことには反対だった。私は聴く耳を持たなかった。太一はため息をつき、若いのを一人出す、と言った。浜に走った。連絡船の発着する港ではない。小舟は来ていた。貞夫という名の若い男がいた。屈強そうな身体をしていた。乗った。舟はバウを空に突き刺すように上げ、町に向かった。
 町でも港には着けなかった。河口に着けた。降り、少し歩いてタクシーを拾う。町外れのそこは平穏そのものだった。病院に入った。昼前だった。待合室や薬局の前は、人の群れが犇いていた。二階に駆け上がった。
 感じた。複数の眼が刺さる。覚悟していたことだった。集中治療室。幸一とともに、私と同年代の男女が、憔悴しきった顔で、廊下の椅子に坐っていた。幸一が気づき、走ってきた。顔を見た。瞬間、私は一つの大事な命を失ったのを知った。
「たったいまーー」
 うなずくしかなかった。言葉など無意味だった。幸一を胸に受け止めた。背中を軽く叩いた。私は弔いだけを考えていた。事故ではない。私に係わった。だから、殺されたのだ。弔いは、報復によってしか成し得なかった。それでなければ、成仏は出来ないはずだ。
 私と同年代の男女は、やはり、裕美の両親だった。裕美は二人の顔を半分ずつ、受け継いだような顔をしていた。
 裕美は家に帰ったことがあったのだろうか。不意にそう思う。私は二人に向かい、黙って頭を下げただけだった。遺体を運ぶ車を待っているようだ。私はドアを開け、横たわる裕美に近づき、顔から白い布をとった。死に顔。裕美は私の口癖を真似、ゾクゾクすると何度も言っていた。そのときの顔そのままだった。どんなにゾクゾクしようと、二十代で消えるのは早すぎる。私は裕美の冷たい額と頬にキスをした。唇にしたかった。幸一に遠慮した。
 背後から啜り泣きが聴こえた。見ると、幸一が眼を真っ赤にしていた。両親の啜り泣きが号泣に変わった。幸一と眼が合う。心底惚れていたのだろう。廊下に出た。幸一だけがついて来た。
「俺がちょっと離れた隙でした。トラックが狙うように歩道に立っていた裕美に向かって来てーー」
「見覚えは」
「社名も何も、車体にはなかった。運転していた男の顔も知らないーー」
「その男はーー」
「警察に連れて行かれました」
「狙われたとすればどうする気だ」
「おそらく、ひき殺した男は不起訴になるかも知れない」
「そういう町だったな」
「殺したい。たとえ、親父でも」
「調べる。そして、俺が裁く」
「手伝います。仇をとる。そう決めたんです」
「親父を敵に回すということだ」
「以前、その覚悟は伝えたはずです」
「このまま行けば、おまえは大コンツェルンを率いる立場だ」
「それと裕美の命を秤にかけることなんか、いまの俺にはとても出来ない。会社と人の命を相殺するなんてーー」
「人の命のほうが軽い。殆んどの大企業の幹部はそう思っている。裕美はそう信じている奴らの手先に殺されたのだ」
「手伝います」
「ひょっこの手は借りん」
 気負い。感傷。そうなのだろう。幸一の女になったとはいえ、私は自由にして来た女を失ったのだ。由梨絵の決着もまだだった。これは私が背負えばいいことだ。幸一の手を借りるつもりはなかった。昂ぶりが必要以上の言葉を吐かせている。すべてが客観的に判断出来るようになった時点で、それでも復讐を選ぶというのなら、異論はない。
 いまの幸一には冷静さが見られない。ホテルは裕美の死を知り、由梨絵のとき以上に騒然としているはずだった。私と係わっていた、二人の女の死。社員はどう見つめているだろう。
 大和田の顔色を窺いながら、黙々と仕事をし続けているのが精一杯だろうか。自分を大事にする。そのように長いものに巻かれるのが、この田舎町での、もっとも優れた処世術だった。
 気が動転しているに違いない両親に、葬儀日程を訊くのは酷だった。まだ、青天の霹靂そのもので、それらの段取りまでは手が回っていないだろう。
 冷静になれ。私は幸一に一声かけ、病院を後にした。幸一は裕美の両親とも懇意にしているようだった。裕美との思い出が胸に残っているうちは、両親の力になるはずだった。
 葬儀には出るつもりだった。唯、その前にすることがある。私は病院から真っ直ぐにホテルに向かった。ホテルに入った瞬間、眼の合った社員全員が、悲痛な顔をした。無視し、ロビーを突き抜ける。数人は懐かしそうな顔をした。私の顔を見て、それまで堪えていたように泪を溢れさせる者もいた。裕美と気の合う同僚だった。私はそれに軽く手を上げただけだった。昼一時。町の中よりもホテルのほうが安全だった。四ヶ月ぶりだった。
 エレベーターに乗る。チェックイン前の時間帯で、客の姿は疎らだった。私と顔を合わせた社員は、私のことを口外しないという自信があった。
 社長室は最上階だった。パーキングに車があった。成り上がりらしく、リンカーンに乗っている。似合うと信じているのだ。最上階には客室はない。社長室の前に立つ。大和田はどこまでも自信家だった。施錠していないのだ。誰も指示がないかぎり、近づかないと思っている。中に入った。大和田は留守だった。事務所にでもいるのだろうか。事務所の隣りにも、狭いが大和田の専用室があった。私は大和田の豪勢な椅子に腰を降ろし、テーブルに足を上げ、投げ出し、大和田が戻るのを待つことにした。十五分後、来た。一人だった。
「呼んだ覚えはない」
 机に足を投げ出してふんぞり返っている私を見て、大和田は一瞬、息を呑む。が、すぐに冷静さを取り戻す。自分の城内。それが余裕に繋がっているのだろう。私はすでに非常用の館内電話のコンセントは抜いていた。
「自分の情婦だった由梨絵を殺し、今度は自分の倅の女である裕美まで手にかけた。サディズムにも程ってものがある。反吐が出るぜ」
「たわけたことを。何故、この俺がそんなことをしなければならん」
「仮面の紳士か」
 大和田のこめかみがひくついているようだった。
「言葉に気をつけろ。妻にしたこと、忘れているわけじゃない。あの決着はまだついてはいない」
「何のことだ」
「この期に及んで恍けるんじゃない。妻がおまえだと白状したのだ」
「嬉しかった、よかった、とは言ってなかったか」
「貴様」
 近づいて来た。私も立ち上がる。睨みあう。
「間違いだった。目をかけていたのに何てことだ。おまえの変化には気づいていた。間違いだった。あのときに馘にしとけばよかった」
「回顧録を聴くために来たんじゃない」
「いい度胸だとは誉めておく」
「べつに嬉しくもないな」
「帰れ。顔を見るのも汚らわしい」
「覚えておけ。必ず報復はする。今日はそれだけを言いに来た」
「おまえはこの俺を理解していないようだな」
「表と裏を跨ぐおまえのことを、か」
「おまえだと、俺に対しておまえだと。貴様、以前も俺をおまえと言った」
「主従関係は終わったんだ。そんなことはいまもいる社員だけに言え。田舎の社員にはまだ、おまえのような高慢さも通じるだろう」
「帰れ。二度と顔を見せるな」
「奥さんは美味しかった。由梨絵は素晴らしかった。裕美は可愛い女だった。この落とし前は必ずつけるぜ」
「おまえ一人に何が出来る」
「まぁ、見ていろよ。首を洗って待ってるんだな。市長もおまえも根こそぎ潰す。俺には島がある」
 大和田の顔が引き攣る。島はまだまだ治外法権的なのだ。大和田の力をもってしても、一部にしか及ばない。その一部も、太一によって自由を奪われている。
「もう一度言う。覚悟だけはしとけよ」
 私はドアに向かった。傍を通り過ぎる瞬間、私の肘が大和田の顎にめり込んでいた。呻いて崩れた。振り向かなかった。
 
 尾行する車には気づいていた。ホテルを出てから、ずっと付けている。白い車体。車種は確認出来なかった。事件の少ない町だった。実力者に支配されているからだ。平穏になれているせいか、タクシーの運転手は、尾行する車にも気づいていない。安全運転だった。車を降りた。白い車は五十メートルばかり後方に停車した。タクシーは何の疑いも持たずに走り去る。三人、降りてきた。知らない顔だった。堤防から貞夫が顔を出し、私と男たちを確認すると、姿を消した。が、すぐにあらわれて、小走りに近づいて来た。三人の男たちの足が止まる。貞夫は私と並んで立ち、
「やるしかないですね。ヤクザだと思い、一応、深谷さんに電話を入れときました。すぐに来るそうです。それまでは二人でーー」
 私は笑った。太一によく仕込まれているようだ。人通りは少ないが、真昼だった。たまには車も通るし、少し離れた土手では釣り人が数人、川面を見つめている。刃物などは出さないだろう。陽射しが強かった。私はジーンズに少し厚手のTシャツだった。三人の男たちは、暑いのにきちんとスーツを着ていた。
「大和田の番犬か」
 私はのっけから挑発した。
「何!」
 右端に立つ、二十代に見える色黒の男が眼を剥く。制したのは、真ん中に立つ男だった。三十代後半ぐらいだろう。
「もういい歳なんだろう。余り出しゃばらないほうがいい」
 男は唇の端だけで嗤っている。ナルシストを思わせた。
「おまえのような赤の他人に指示されたくないな」
「年寄りの冷や水って言うぜ」
「冷えた水も熱ですぐ温まるよ。おまえらこそ水そのものだ。大和田の手から零れ落ちた泥水。やがて土に落ちて染み込み、熱に蒸発させられて一巻の終わりだ」
「こいつ、何言ってるかわからないな」
 男がパチンと指を鳴らした。と同時に、二人がダッシュしてくる。身体が動いてくれるだろうか。私は突進して来た二人の動きを見極めながら、呑気なことを考えていた。一人が貞夫と向かい合う。私の前に進み出た男。地面は砂の混じった土だった。湿り気を帯びている。靴先を土に入れた。蹴り上げる。泥土が飛び、砂が舞う。男の顔を直撃した。眼は屈強な男でも、ほんの一粒の砂に堪えられない。男が呻いた。股間を狙った。蹴る。入った。男がたまらず蹲る。さらに蹴り上げる。顎。男はもんどりうち、仰向けに倒れた。
 隣りを見た。貞夫はなかなかのものだった。相手の腰にタックルし、下から膝で蹴られても怯まず、組み倒し、馬乗りになって相手の顔面をためらうことなく撲り続けていた。私は足もとの小石を蹴る。貞夫の傍に小石が転がる。その石で頭を割れ。私は言った。貞夫は石を手にしなかった。
 試合ではない。喧嘩であり、戦争なのだ。眼に入るすべてを武器にする。一瞬のためらいが勝敗を覆す。男が懐に手を差し入れた。陽光が反射した。真ん中の男だった。匕首を出していた。近づいてくる。私は側溝近くに刺さっていた、一メートルほどの杭を引き抜いた。手ごろだった。男が立ち止まる。
「ヤクザも地に落ちたな。素人相手に光り物とは」
「やかましい。おめえのやってることが素人のすることか」
「嗤わせるな。裏表の顔を使い分けている大和田の番犬風情に言われたくはねえ」
「てめえ」
 男は体勢を低くして、匕首を構え直した。刃先を上に向けている。私は杭を持ち直し、男の動きを窺っていた。恐怖感はまったくない。逆に血が騒いでいた。ゾクゾクする。貞夫の姿が眼の端にある。戦意を失った相手の股間を、靴底で執拗に踏みつけた後、私の相手の匕首に気づき、状況を見守っていた。車の音がした。
「早坂さん、、深谷さんの車です」
 舌打ちが聴こえた。男が匕首を仕舞う。まだ音が微かに聴こえてくるだけで車は見えなかった。遥か後方に砂煙が上がっている。
「おい、起きろ。情けねぇ奴らだ」
 男は蹲っている男たちの尻を蹴り上げた。二人の男たちはフラフラと立ち上がる。貞夫に股間を踏み潰されていた男の顔が、蒼白だった。
「早くしろ。竜神の奴らが来る」
 二人が反応した。
「運がよかったな」
 棄て科白だけは忘れなかった。
「おまえのほうだ。運がよかったのは」
「ほざいてろ。借りはきっちりと返すからな。昼夜お構いなしに返していくぜ」
 川原の向こうから、砂塵を舞い上げて数台の車が近づいて来るのが見えた。三人の男たちは慌てて車に乗り込み、反対方向に逃走した。男が言った竜神とは、深谷の親筋の組織名だった。
 
「強いな。貞夫が愕いていた」
「坊やに救われたよ。俺一人ではやられていた」
 島に戻り、シャワーを浴びた後に、太一から電話があった。貞夫が逐一報告したようだった。ヤクザ三人を相手にしての抗争。勝ったのだろうか。そうだとしても、貞夫がいたからだ。
「育っているな、あの坊や。大したものだ。プロ相手に怯む様子もなかった」
「島の若い奴らに怖いものなんかないよ。俺たちだってそうだったじゃないか。十代で必ず、海という怪物と戦う宿命にある。あれを体験すると、生きてる人間など自然にナメてしまう」
「そればかりでもない。機転もある。すぐに深谷に電話したような」
「ヤバイと感じたときにはまず電話しろと言ってある。まだこれからってときに、怪我でもされたんじゃたまらんからな」
「まったくだ」
 電話を切った。何十年ぶりかの戦いなのに、昂ぶりは少ない。砂と土が味方した。舗装された路なら、不利だった。相手は三人。しかもプロ。真ん中に立つ男には不気味な迫力があった。唯、口数が多かった。甘さに見えたが、眼は狡猾そうだった。
 深谷なら、一言もなく仕掛けて来ただろう。太一との電話の後に深谷にも電話し、礼を言い、争った相手のことを訊くと、仙台から来た男たちだろう、と言っていた。仕切っていたのはおそらく川藤。そう言った。得体の知れない奴だが、川藤は目端が利く。近い将来、高村の足を引っ張るかも知れない。そう言われ、名前を記憶した。電話を切った。広い家に一人でいると、理由もなく気が滅入ってくる。こんなとき、裕美の存在は便利だった。由梨絵も何を置いても駆けつけて来ただろう。
 二人はもういない。寂寥感。俺に深く係わったからだ。
 私は拘っていた。不意に思い出す。綾。二人への拘泥が綾を思い出させた。二十歳からの私というものを、全身で受け止めていた女だった。結婚し、離婚し、再び同居し、結局、置き去りにした。
 綾は三十年前の、あの夏の日の私そのものかも知れない。対象に裏切られ、自分を毀したという意味で。
 一度、正装して会わなければならない。何度もそう思う。いまはそのときではなかった。綾の顔を振り切り、私が電話したのは、川崎の女だった。都合のいい女になってあげる。そう言っていた。携帯に電話した。
「いま、どこだ」
「呑んでる。もう、へべれけ寸前」
「都合がいい」
「どういうことなの」
「声が聴きたかった」」
「どこに行けばいいのかしら」
「いや、俺のところは遠い。声が聴けた。それだけでいい」
 絶句した様子が伝わってくる。
「水臭いのね、相変わらず。何故、いますぐに来いって言わないのかしら」
 そう言いたかった。言えば来る。だが、抗争の真っ只中なのだ。これ以上、犠牲者を増やしたくはなかった。
「いいんだ。言ったろう。声が聴きたかっただけだ」」
「行くわ。お酒の勢いで」
「そこまで希んではいない」
 優子は何かを感じたようだった。
「そうか。わかった。いまはまだ十時。行かなくていいんなら、わたしは夜っ引いて呑んでるわよ」
「それがいい。酒臭い女はごめんだ」
「寂しいこと、言うのね。わかった。わたし、呑んだくれてやる」電話を切った。何故電話をしたのか。寂しさだろうか。後悔した。
 
 愕いた。優子に電話した翌日の夕方だった。その優子が眼の前にあらわれた。
 来ちゃった。そう言ってはにかんだ。まだ、アルコールが残っているのだろうか。目元が微かに赤かった。賀状のやりとりで、住所は知られている。島に着き、タクシーに乗り、あなたの名前を言ったら、ちゃんと連れて来てくれた。優子はそれが信じられない、と笑った。
 困惑した。これも私の無節操な電話が原因だった。唯、嬉しくもあった。私は優子を抱きながら、思う。結局は、私が呼んだのだ。独りに堪えられずに電話した。それは優子にしてみれば、誘われた、ということなのだ。
 溺れる。一瞬でもいまを忘れようとし、女の肉の奥深くに埋没する。係わらなければ、由梨絵も裕美も死ななかった。理解していながら、私はこの町とは縁もゆかりもない女と、いっときの愉悦に溺れようとする。近くにいれば、必ず火の粉が降りかかる。火傷する。女にとっては理不尽この上ない状況に、否応もなく追い込まれていく。優子は尻を高く上げ、私を迎え挿れていた。
「あたし、まだ酔っているのかしら」
 優子は気だるそうな顔をしていた。無理もない。一方的な電話に反応し、本当に一睡もしないままに新幹線に乗ったらしい。酒が身体も思考も麻痺させていたようだった。
 優子は、馬鹿よね、と笑い、あたし、乗車券買ったら一文無しだったのよ、と言ってため息をつき、田舎の町にだって銀行はあるんでしょう、と真面目な顔をして言った。
「仕事はいいのか」
「強引に呼んどいて、それはないでしょう」
「呼んだ覚えはない」
「駄目よ。来た女にそんなこと言っちゃ」
 甘く睨まれた。
「嬉しいよ」
「仕方ないわ。約束したんだもの。あなたの都合のいい女になるって。少し、アルコールが抜けてきたかな。もう一度抱いてもらえば、頭がすっきりしそう」
「欲張りな女だ」
「だって、こんな遠いところまで来たんだもの、とことん搾り取って帰るわよ」
「すぐ帰ったほうがいい」
「わからないわよ。酔いが完全に醒めたなら、自分の馬鹿さ加減に気づき、とっとと帰るかも知れないし、田舎の生活が気に入って、長逗留になるかも知れないわよ」
「今度は脅迫か」
「だから抱いて。メチャクチャにして。あたしを身体で繋ぎとめていて」
「それでいいのか」
「それ以上を希んだって、どうなるものでもないでしょう。無理だってことは充分に知っているわよ。はじめてあたしを抱いた夜でさえ、あなたはあたしを見ていなかったもの」
「忘れたよ」
「いいの。あたしの勝手で来たんだから。あなたの危険な匂いが、たまらなくあたしを惹きつけるの」
 口調。表情。ともに四十歳近い女のものではない。恋に溺れている少女のようだった。肉体がいやらしいほどに成熟しているだけに、ギャップが私に二度目を可能にさせた。
「素敵。小鳥の囀る中でスルなんて」
 優子は唄った。激しく、そしてしっとりと。次第に我を忘れた。言葉通り、家の周囲の雑木林に小鳥が群れ、けたたましく鳴いている。優子は私の腰に両足を絡み、何度も自ら迎えに動き、薄目を開けたまま、小鳥たちよりもけたたましく鳴き始めた。
 昼前の陽射しが斜めに切り込んでいた。優子の体毛が金色に耀いた。赤い舌が唇を舐める。顔が激しく左右に振られた。腰の動きが不安定になる。直後、優子は動物になり、野太く吼えた。
 
 優子には、いまの私のことは何一つ話さなかった。ずっと疎遠でいて、不意に近づき、押し倒し、まるで強盗が金銭を奪うように肉体を汚されたにも係わらず、優子は途中から私を積極的に受け入れた。あれからでもだいぶ経つ。今度島に来てからも、私のいまに何かを感じながらも、優子は一日を有意義に過ごすことだけに専念しているようだった。いつかは「帰れ」と言われることを知りながら、優子は陽を浴びてキラキラしていた。
 私だけではない。優子にも測り知れない、時間の経過があったはずだった。私は幼女のように海ではしゃぐ優子の姿を見るたびにそう感じた。何も訊くつもりはなかった。
 一度、散策がてらに連れて行った鳴り砂の浜を、優子は殊の外気に入っていた。家から歩いて十五分ほどの距離なので、日中、一人でも浜に遊びに行っては、帰宅すると空腹を訴え、いそいそと台所に立つ。傍目には仲のいい夫婦のように見えるだろう。しかし、私はつねに他の事を考えていた。それをわかっているから、優子ははしゃぐ。
 時折庭に出て、夜空を仰いでいるときがある。月に照らされて、闇が薄くなったときに流れる細く薄い雲などを見上げ、何を思っているのか。
 優子は島に来てから、一度も川崎に帰りたいとは言わなかった。都会に知り合いもいるだろうに、電話もしない。
 ひたすら自然に浸り、夜はその豊饒な肉体で私を癒すことに努めようとした。あくまでも、都合のいい女に徹しようとしている。それも度が過ぎると逆に重荷になるものだが、優子は機微に長けていた。優子を抱きながら、私は由梨絵をも抱き、裕美と交わっているような錯覚に何度も陥った。そんな気がした。
 鳴り砂の浜を好む優子に、打ち寄せられた由梨絵を見る。私の車で何度も島を観光する優子に、私はトラックに跳ね殺された裕美を思う。その倒錯した一瞬、私は熱く、爛れる。
 
 島は町全体と敵対しているのではなかった。牛耳る大和田や市長のような巨悪に対してのみ、敵視する。町も同様だろう。巨悪たちが島を毛嫌いしているだけなのだ。出入り口である島の港も、つぶさにチェックはしているが、漏れることもある。普段、人々は船に乗り、自由に町へ出かける。優子もある日その中の一人になる。島に来て十日ほど過ぎたころ、優子は町も見たいと言った。
 止める理由はない。一緒には行けないだけだった。そのまま川崎に帰ろうとしているのかも知れない。それでもいい。すべて優子の自由だった。私は優子のパッグに、当座は困らないほどの金を押し込んだ。
 こんなにもらっていいの? ああ。このまま消えてもいいのかしら。
 私はそれには応えなかった。いい、と言うのも、戻ってほしい、と言うのも、似合わないような気がした。身勝手に呼んだも同然なのだ。優子がどう判断しようと仕方のないことだった。割り切ろうとしていた。優子は眼を細くして空を見上げ、くしゃみが出そう、と笑い、一度振り返ると、呼んでいたタクシーに乗り、手を振った。敢えて自分の車では送らなかった。特定の者以外、私との繋がりを眼に触れさせたくなかったからだ。見送り、私も出かけることにした。気まぐれからの散歩のようなものだ。
 山に登ろうとしていた。以前、太一と深谷と三人で、大和田が差し向けたと思われる男たちを、散々な目に遭わせた。島に戻ってから、山に登ったのはあの夜がはじめてだった。今日が二度目になる。私は携帯だけを手に、歩きはじめた。変わっていた。車で島を走ってみても、以前とはだいぶ様変わりした印象は受けていた。山頂に立つと、それは一目瞭然だった。二度目だが、昼登ったのは帰郷してからはじめてだった。島内には昔から豪勢な家は多かった。漁の絶頂期で、島は町以上に裕福だった。
 昔ながらの瓦葺の屋根に混じり、原色の屋根が増えている。時代の推移というものだろう。遥か後方に、町が小じんまりと見えていた。遠くから見ると、手のひらに乗るような光景だった。しかし、激しく蠢いている。小さいだけに、それが遠く離れた山頂から、すべてが見えるようだった。私は小一時間で山を下り、家に戻った。優子はまだ戻らないだろう。いや、すでに川崎への電車の中か。
 
 午後七時。優子は戻らない。島への最終便は八時だった。連絡があれば、夜だけに港まで迎えに行くつもりだった。途中、太一の家で道草を喰うのもいい。時間まで待ってみる。テレビを観て過ごした。八時十分。連絡はない。携帯に電話した。通じない。川崎のマンションに電話してみる。帰っているならばいい。が、留守電だった。着いたら連絡を。留守電にメッセージを入れた。九時五十分。携帯が鳴った。非通知だった。
「早坂か」
 男の声だった。聴き覚えがある声だ。何度も耳にしたものではない。一度か二度。その程度だ。
「誰だ」
 呼び捨てに心当たりはなかった。
「この前は川原で世話になった。二人はまだ本調子ではない」
 川藤。あのとき真ん中にいた男。
「何の用だ」
 私の番号などすぐわかる。大和田あたりから仕入れたものだろう。敢えて番号は変えていなかった。厭な予感がした。
「いい女だな。具合もよかった」
 不安はあった。やはり、優子の身元は割れていたらしい。
「俺たちだって、いつも指銜えてのほほんとしているわけじゃない」
「誉めてほしいのか」
「蛇の道は蛇って言うだろう」
「俺はまっとうな人間だよ。大和田やおまえたちは、蛇というよりは毛虫のようなものだが」
「減らず口はそのへんにしとけ」
「具合もよかっただと」
「大したものだ。都会の女は違う」
「ふざけるな」
「いい歳したおっさんが、女一人のことで頭に血がのぼったか」
「何が希みだ」
「わかるだろう。おまえ一人で来るんだ。高村の事務所で待ってる」
「高村まで呼び捨てか」
「俺が引き継いだ」
「そりゃよかった。出世したじゃないか」
「減らず口はいい加減にしとけって言ったはずだ」
「わかった。行こうじゃないか」
「わかってるだろうが、変な動きを見せたら、女を殺すぜ。何度もみんなで輪姦してからな」
「俺もその中に加えてくれ」
「正気か」
「おまえらよりはな」
「てめえ」
 電話を切った。厭な予感が的中した。私が係わらせたのだ。逃げることは出来ない。指を銜えて傍観していることは尚出来なかった。
 太一と深谷に連絡した。優子が拉致されたことを伝えた。二人は申し合わせたように、わかった、と言い、一人だけでは絶対に走るな、と言った。
 わかってる。そう応え、私は走り始めていた。が、真っ直ぐに高村の事務所には走らない。ホテルに向かった。夫人がホテルに滞在している。東京から戻っても、夫人は大和田の屋敷の敷居を跨いでいない。それは情報として得ていた。
 あの大和田がそれを赦している。愛情なのか体裁なのか。情報は幸一からだった。幸一はいまのところ、従順な息子として過ごしている。裕美が死に、まだ動揺はあるだろう。殺された。幸一もそう思っている。それがこの先、どのように幸一を動かすのか。見物だった。
 ホテルの少し手前でタクシーを降りた。見上げる。全室点灯されていた。幸一に電話した。夫人の部屋番号を知るためだ。私は歩き始めた。ホテル内はすべて熟知している。表玄関の他に、出入り口が三つある。従業員用と業者用などだった。もっともエレベーターに近い出入り口に近づいた。入る。午後九時。夜警の巡回は三十分後だった。一時間に一度、夜警は館内を回る。かつて、私が決めたことだった。
 館内を映すカメラなどはない。大和田はそういうことに金を惜しむのだ。クラブの傍のドアはスタッフが煙草を喫うたびに外に出るので、普段は施錠されていなかった。エレベーターまでは十メートルぐらい。宿泊客が数人うろついていた。日帰り客もいる。私服の私を見ても、スタッフでないかぎり、怪しむ者はいない。それがホテルなのだ。
 エレベーターに乗った。五階まで行く。廊下を歩いた。年に何度か、観光地ロケのために、有名人を泊まらせる目的で誂えた部屋だった。大和田はスターが好きだった。一緒に写真に収まり、満足している。成り上がりの典型だった。ドアの前に立ち、ノックする。五階は静かなものだった。
「どなた」
 インターフォン。私はこの部屋だけにあるスコープからは姿をずらして立っていた。
「俺だ」
 大和田の声色を真似た。真似する人は少ない。似ているはずだった。似ていなくても、私が来るなどとは夢にも思ってはいないはず。ロックが解除された。ドアが開く。私は素早く中に入り、夫人を見据えた。夫人は一瞬だけ、呆然としていた。直後には普段の顔に戻った。
「いつも、愕かせるのね」
「一緒に来てもらう」
「今夜は抱かないのかしら」
「あとでゆっくり、そうさせてもらう」
「着替える時間、あるかしら」
 相変わらず妖艶だった。夫人は風呂上りか、ガウンを羽織っているだけだった。
「簡単にしてくれ。時間がない」
「お風呂も済ませたのよ。出かけるんだったら、少しはお洒落もしたいわ」
「ピクニックに行くんじゃない」
「私は今度も、仕返しの犠牲なのね」
「あんたに対する大和田の愛情を確かめたい」
「もしないとわかれば、あなたが私の面倒をみてくれるのかしら」
「いい話だ」
「待ってて。すぐに着替えるから」
 夫人は別室のドアを開けた。私は館内電話のコードを引き抜いた。夫人は笑い、電話なんかしないわよ、と微笑んだ。着替えている間、私は深谷に電話した。夫人を島に渡してくれ。そう頼む。
 交換する気か。ああ。わかった。俺が自ら行こう。
 電話を終え、着替えの終わった夫人を伴い、エレベーターで一気に地下まで降りた。第二駐車場。五分待った。何の変哲もない車が近づいて来た。深谷だった。夫人を押し込んだ。深谷を見て、夫人は艶かしく微笑んだ。
 イッてるぜ。この女。深谷は苦笑し、おまえはどうするんだ、と私を見つめた。今日中に帰る。午後十時。まだ、二時間ある。
「気をつけろ。十二時に舟を手配しておく。太一にそう伝えておこう」
「わかった」
「ヤバイことはするな。切り札を手に入れたんだ。無茶だけはするな」
「確かめたい。それだけだ」
 高村の事務所に行く。川藤にそう言った。優子が気になった。私があらわれない以上、皺寄せは優子にふりかかる。夫人という切り札。いつまでも持っているつもりはなかった。私はすぐホテルに電話し、大和田を出せ、と言った。
 新人らしく、私の声を聴いてもそれに対する反応はなく、マニュアル通りの受け応えだった。名前を問われ、本名を名乗った。一分、待った。
「何か用か」
 大和田の声には余裕が感じられた。まだ夫人が私の手にあることは知らないようだ。
「盗んだ女を返してもらおうか」
「何のことだ」
「綺麗で、色っぽい奥様をあずかっている」
「何!?」
 声が途切れた。内線電話をかけている様子の大和田の声が、受話器越しに聴こえてきた。
「貴様、女房をどこに」
「取り引きだ」
「何のことだ」
「俺の女。ずいぶんと阿漕な真似をしてくれるじゃないか」
「俺は知らん」
「そうかい。あの色っぽい奥様が、いろんな男たちに犯された後に、肴の餌になってもいいんだな」
「何を言ってる。わかってるのか。おまえのしていることは犯罪だぞ」
「おまえにだけは言われたくない。犯罪でも何でもおまえには負ける」
「俺は知らん」
「切るぜ」
「待て」
「応じるんだな」
「いま、どこだ。会って話し合おうじゃないか」
「馬鹿か。切るぜ。応じるなら俺の携帯に電話しろ」
 一方的に電話を切った。午後十時三十分。舟が迎えに来るまで、一時間半しかなかった。私は高村の事務所に向かった。タクシーでワンメーターの距離だ。暗い。タクシーを降り、周辺の様子を窺う。事務所には煌々と灯が点っていた。人影は見えない。三階建てのビルだった。一階が事務所で、二階には二つ三つ、息のかかった飲食店が入っている。三階は組員の寮みたいなものだ。
 おそらくそこだろう。優子を監禁するには理想的な場所だった。近づこうとしたときだ。後ろから肩を叩かれた。全身に電気が走った。振り向く。
「鉄砲玉にでもなるつもりかね」
 さすがに愕いた。金井が気配を消して立っている。島の駐在所にいるときとは別人だった。私服姿をはじめて見た。
「珍しい。町にもたまには来るんですね」
「島できれいな空気を吸いすぎた。たまには濁った空気にも触れんと、菌に対する抵抗力が弱くなる」
 金井は路地に私を誘った。煙草を銜えた。両切りのピースだった。マッチで火を点け、そのマッチを路上に棄てた。
「警官らしくもない」
「島でなら、マッチ一本路に棄ててもとっ捕まえる。景色に失礼だからな。だが、この町に来ると、そこいらじゅうを汚したくなる」
「若い」
 金井は苦笑して、
「あんたも周囲がハラハラするほどに若い。こんなところにたった一人で乗り込もうとする。物騒な人だ」
 私は懐にナイフを忍ばせていた。以前、五人のヤクザを島の山で襲ったとき、手に入れたものだった。研ぎ、手入れを欠かさず、毎日使いたい誘惑に駆られるほど、大事にしていた。
「俺は善良な一市民。どこを歩こうと勝手だと思ってますよ」
「たしかにそうだ。わしには全然善良な市民には見えないが、島の人だからな。気になる」
「あなたは何故、ここにーー」
「職務上とでも言っておこう」
「不思議ですね。どう見たって、そうは思えない。普通、市警と一緒でしょうに。その市警は不穏な空気が町に蔓延しているのに、動く素振りもない」
「わしだけがまともだということだろう」
「何を調べてるんですか」
「捜査の内容を明かすわけにはいかないね。大切な任務で来ているのに、あんたが眼の前をうろうろして迷惑してる。それで、お引き取り願おうと思ってのこと」
「そういうことなら、俺は素直に消えましょう。金井さんが来ているんだ。そんな物騒なところは俺だって敬遠したい」
「気をつけてな。あんたのお陰で、この町の悪党どもは少なからず手負いになっている。狙っているだろうから」
「島へ戻るとしましょう。あまり、心臓は強いほうじゃない」
「見方を変えれば礼をしなければならない。悪党どもをふん捕まえられれば、あんたのお陰だ」
「金井さんは危険じゃないのかな」
「中央がついてるよ」
「市警は違うとでもーー」
「いまは、な。もう少しで選挙がはじまる。それで全容があきらかになる。あんたのような荒っぽいのが邪魔をしなければの話だが。悪党も悪徳警官も排除する。あと少しでな」
 私は肩を竦めた。かなりのことを把握しているらしい。金井は大きな力を与えられているようだった。優子の件は言わなかった。それは私の問題だった。金井は何をしようとしているのだろう。町の署とは一線を画しているという。地域に根付き、警察の実態を把握する査察官のようなものなのか。しかし私には、果たしてそんな役職があるかどうかさえわからなかった。
 河口のほうに向かって歩き始めると、金井は軽く手を上げた。タクシーを拾う距離ではない。町はひっそりと、微かに息だけしている生物のように、闇に覆われたままだった。街路灯までもがぼんやりと耀いている。歩いた。すると不意に眼の前に人影があらわれた。咄嗟に殺気のようなものを感じ、身構える。高村だった。
「おめえとははじめて会ったという気がしねえ」
 ダラリと両腕を下げていた。深谷同様、中肉中背で、端正な顔立ちをしている。そのぶん、印象は研ぎ澄まされたように、鋭い。
「隠れんぼはもうやめたのか」
「誰のお陰で破門になったり逃げ回る破目になったと思ってるんだ」
「知らんな。ヤクザの世界に興味はない」
深谷もヤクザだ」
「奴は俺の仲間の親友だ。いまは俺の親友でもある」
「ヤクザだよ、深谷は」
 間は三メートルぐらいのものだった。
「俺をどうしようってんだ」
「落とし前をつける」
「俺とやり合って、始末すれば復帰出来るのか」
「そんなものは関係ない。これは俺自身の問題だ」
「ヤクザな奴だ」
「ヤクザだよ」
 間合いが詰まった。右足が飛んでくる。早い。避けきれず、辛うじて股間をガードしただけだった。よろめいた。拳がくる。頭上でかわして高村の腰に組み付いた。突進する。折り重なるように倒れた。顔面を打つ。そう思った瞬間、投げられていた。私は一回転し、背中から地面に叩きつけられた。足が来る。右肘で受けた。転がる。矢継ぎ早に足が来る。二つ。腰にめり込んだ。体勢を立て直さなければならない。私の右手が土を掴んでいた。相手は違うが、以前、川藤に対したときの二番煎じだった。振り向きざま、投げた。後退さる。高村は眼をこすっていた。立ち上がり、腰にタックルした。倒れた高村の腹に膝を入れた。離れる。まだ眼を擦っていた。蹴る。狙いを定めているわけではない。蹴る。ひたすら蹴る。高村が路面を転がる。凄まじい殺気を感じた。私は後方に跳んだ。転がりながら、高村は匕首を出していた。
「素人相手に刃物か」
「うるせえ。眼に砂を飛ばすなんて子供の喧嘩みたいなことしやがって」
「俺には刃物がないからな」
 持ってはいた。しかし、まだ使おうとは思わなかった。喧嘩にルールはない。それは重々知っていた。それでも、刃物だけはなかなか使えない。忍ばせているだけだ。
 俺はヤクザではない。拘りがあった。使いたい。抜けば必ず、刺したくなる。刃物とはそういうものなのだ。高村は砂が入った眼を尚もしょぼつかせながら、匕首を握り、少しずつ、間合いを詰めてくる。距離一メートル。光が斜めに走る。間一髪だった。はじめて威圧された。匕首が身体と一体になっている。馴れた武器なのだろう。河口まで百メートル。逃げられるような気がした。しゃがむ。高村の足が止まる。土を手に持つ。投げた。今度は通じなかった。高村は両腕で顔をガードした。
 それが隙だった。真っ直ぐに蹴る。靴先が高村の脛にめり込んだ。呻いた。深攻めはしなかった。走った。脛を渾身の力で蹴った。すぐには動けないはずだった。向こう脛は格闘技の有段者でも悲鳴をあげる。走る。背中で気配を窺った。なかった。河口が見えた。
 緑と赤。航海灯が揺れていた。近づき、飛び乗った。貞夫がいた。私の息遣いを見て緊張し、周囲を見回しながら、舫いを解いた。
「急げ」
「はい」
 舟はバウを沖に向けた。河口までの路を、高村が足を引き摺りながら走っていた。
「高村」
 貞夫が言う。
「危なかった」
 実感だった。素手ならばどうにか五分に戦える。たとえ相手がプロでも、一対一なら勝機はある。捨て身になれば怖さは消える。だが、匕首を出されたのでは勝ち目はなかった。チンピラではない。深谷クラスのプロなのだ。私は恐怖を感じていた。
「大丈夫ですか」
「何とか」
「よかった。相手が悪すぎます」
「現役と五十のオヤジだからな」
「いいえ。そんなことはありません。ウチのオヤジさんから聴いてます。オヤジさんの親友に喧嘩の弱い人なんていません」
「買い被らないでくれ」
 貞夫はそれには応えず、
「高村のことですから、簡単にはあきらめないと思います。島に乗り込んで来る可能性だってあります。なにしろ、深谷さん同様、ウチのオヤジが認めている男ですから」
 私はうなずいた。
「大和田夫人はどうした」
 話題を変えた。
「早坂さんの自宅に連れて行きました。二人、付けておきました」私は煙草を銜え、急ごう、と促した。スピードが増す。島が近づいてくる。
 
 家に着いた。私の顔を見た時点で、太一が付けた二人の男たちの仕事は終わった。二人は太一に電話を入れ、私の家を去った。夫人は私の顔を見て、多少、安心したようだ。妙な気分だった。拉致されているのに、寛いだ顔をしている。
「何か不自由なことがあれば言ってくれ」
「ないわ。それよりもあの子たち、躾がよかったのね。魅力的な女が一人、無防備のままいるってのに、見向きもしてくれなかった」
「鎖を解けば獣になる。我慢していただけだろう」
「素敵」
「俺の女がどうされているかは知ってるな」
 夫人はきょとんとした顔になる。
「知らないわ」
 嘘を言っているようには思えなかった。
「輪姦されて、監禁されてる」
「私は姦られてないけど、監禁されてる」
 そう言いながら、夫人は、本当なの? と言った。
「俺の女だけが強姦されっ放しじゃ不公平だろう」
「いいわよ。あなたと姦るんでしょう」
「輪姦されてるんだ。だから、あと二人、呼んである」
「私をメチャクチャにするつもりなのね」
「そのつもりだ」
「興味と怖さが半々よ」
「あいつは怖さだけを味わっているかも知れない」
「そうかもね。でも女って、怖いなかにも多少は期待している部分も持ち合わせているんじゃないかしら。むろん、女によってその度合いに違いはあるでしょうけど」
「あんたにはあるようだ」
「三人に姦られても、あなたもいるんだもの。それに、他の二人だってあなたが選んだ人たちだから」
「好きよ。そう言われているような気がしてきた」
 私もこの婦人を嫌いではなかった。
「好きよ。あなたにもそうなってほしいと、求めはしないけど」
「女に対するそんな感情は忘れたよ」
「道具なのね、女は」
「大事にしている道具もある。毀されたと思うと、その相手を殺したいほど腹が立つ道具だってある」
「その一つに加えてはもらえないのね」
「あんたは大和田の女房だ」
「あの人も女を道具だと思ってる。唯、毀されても殺したくなるほどに大事な道具だとは、誰のことも思ってないわ。ケチで、金も何もかも手放すのが惜しいものだから、納屋にガラクタ同様に積み重ねて置こうとするだけ」
「それでもあんたにはだいぶご執心じゃないか。普通の道具ではないということだろう」
「どうかしら。手切れ金を出したくないだけよ。私、別れるつもりで法外な要求をしているから」
「殺されるぜ」
「そうかも知れない。でも、そのときは誰が見ても大和田の仕業とわかるような殺され方をするの」
「大和田はそんなに甘くない」
「私、大和田の影響力の及ばない銀行の隠し金庫に、大和田の秘密の一切を克明に記録して、預けてあるのよ。この町の銀行じゃないの」
「怖い女だ」
「大和田もそう思ってる」
「この俺がその金庫の中身を見たいと言えばーー」
「私を一人の女として大事にしてくれるなら」
 クラクションが聴こえた。ヘッドライトが闇を切ってガラス窓を突き抜けてくる。車が庭に停まる。夫人の顔に微かに緊張が走る。太一と深谷だった。入って来る。
「高村とやり合ったそうだな」
 深谷の口調はのんびりしたものだった。うなずく私に、
「不審な小舟を見つけた。町からもっとも近い小さな浜に舫われていた」
「高村か」
「おそらく。腹を括っているということだろう」
 深谷は煙草を銜えたまま、腰を降ろした。二人とも、大和田夫人は一瞥しただけだった。
「ヤクザが堅気の俺を付け狙う。世も末だな」
「誰がおまえを堅気だなどと思うんだ」
 深谷の一言に太一が笑う。夫人も微笑んでいた。
「それで、どうするんだ」
 太一の眼から笑いが消えた。
「大和田に電話した。この夫人を切り札にして取り引きする。その前に、優子と同じ体験をしてもらう」
 深谷が夫人を見て、
「いい女だな。大和田には勿体ない」
「まったくだ。大変だな、あんたも、大和田の女房やってるばかりに、怖い目に遇う」
 夫人は落ち着いた表情で、
「さすがに早坂さんのお友だちね。みなさん、それぞれに、素敵」 太一が吹き出した。
「大したものだ」と感心する。
「この状態で、全然動じてない」と深谷も舌を巻く。
「私、また犯されるのね」
「この前、犯されたのはこの俺のほうだった」
 太一と深谷が笑う。
「失礼ね。この歳だもの。たとえ犯されても途中からその立場ってものも忘れるわよ。自然に反応するものなのよ。いま捕えられているあなたの彼女だって、きっと同じなはずだわ」
 優子の顔が蘇る。時計を見た。深夜二時。まだ、電話もない。明日だろうか。そう思った矢先だった。電話が鳴る。私のではなく、深谷の携帯だった。
「おまえ、高村か」
 太一も深谷の顔を凝視する。高村が深谷の携帯に電話して来たところで、不思議なことは何もない。以前は仲良く、呑み歩いていたのだ。
「いま、どこだ」
 深谷は相槌を打ちながら、
「そのまま野垂れ死にする気か」と言った。
 その後深谷は数分、高村の話を聴いていた。
「どうしても早坂を狙い続けると言うなら、戦うだけだ。俺も唯、指銜えて見ているわけにはいかない」
 そう言い棄て、電話を切った。顔を見つめる私と太一に、
「やはり、奴は島に入ってる」
 深谷は飄々としている。
「島のどこか言ってたか」と急かす太一に、
「山の中だと言ってた。夜、山の中にいれば、奴にも自分のいる場所はわからないはずだ」
「近くだな」
 私は応えた。私の家は山の中腹にある。おそらく、高村は私の携帯の番号も把握しているはずだった。
「極道ってのはわからないな。龍介を殺ったからって、組織に戻れるのか」
 呆れ顔の太一に、
「それが奴のいいところでもある。自分を納得させたい。それだけなんだろう。多分、早坂への落とし前がつけば復帰出来るだろうが、そんなことよりも高村は、自分を納得させようとしている。それしか考えていない」
 深谷は煙草を揉み消した。
「ま、俺も似たようなものだ。だが、俺は破門になったとしても、おまえたちのような仲間がいる。早坂を知らなければ、俺だって高村と同じ立場なら、早坂を追っているはずだ」
「匕首を出されたときには身が竦んだ。さすがに迫力が違う。正直なところ、怖かったよ」
「奴はあれで三人殺してる。刃物を指先同様に使える。怖かった程度で済んだのは、おまえだからだ。普通の奴なら、簡単に殺されているはずだ」
 再び、電話が鳴った。私の携帯だった。夫人が私の携帯を見つめた。
「川藤だ」
「何の用だ」
「相変わらず鼻っ柱だけは強いおっさんだ」
「くだらない話に付き合ってる暇はない。切るぜ」
「取り引きだよ」
「大和田となら話をする。おまえでは役不足だ。声を聴いただけで虫唾が走る」
「何」
「もっとも、高村なら応じてもいいが」
 敢えて言ってみる。
「いま事務所を仕切っているのはこの俺だ。前にも言ったはずだ」
「棚からぼた餅ってのはおまえのことだな、川藤」
「てめえ」
「言うことはそれしかないのか。まるで安もののヤクザ映画のチンピラそのものだな。田舎ヤクザそのものだ」
「おまえ、女がどうなってもいいのか」
「勝手にするんだな。こっちも大和田の奥様を同じようにするだけだ」
 若い。狭量だった。すぐ頭に血がのぼる性格らしい。河口では落ち着いているように見えた。
「取り引きだ。するのか、しないのか」
 私の挑発に、川藤は辛うじて自制したらしい。
「何の取り引きをするんだ」
「大和田社長の奥さんを返してもらう。こっちもおまえの女を返してやろう」
「取り引きってものを知らないらしい。態度がでかい。おまえはお願いする立場にあるってことを忘れるな」
「調子に乗るなよ。ヤクザを舐めると後悔するぜ」
 私は鼻で嗤った。
「どうするんだ」
 相手の出方を窺う。周囲を見回した。大和田夫人は悠然としていた。太一が差し出した水割りを呑んでいる。ヘビースモーカーの深谷が、また煙草を銜えていた。
「港で交換する」
「馬鹿か。町の港での取り引きなら、おまえたちの思う壺だろう」
「他に方法があるか」
「島に向かう一時の船に乗せろ。夫人は町に向かう、一時十分に乗せる」
「それではおまえのほうが分がいい。第一、夫人が本当に乗ったかどうか、確認する方法がない」
「俺はおまえとは違い堅気だ。まっとうな人間なんだ。約束を破ったりはしない。それに夫人も俺も携帯を持ってる。何の仕掛けもなく船に乗ったと俺の女から連絡があったとき、夫人は無事に船に乗せてやる」
「胡散臭い」
「おまえにだけは言われたくない」
 川藤は舌打ちし、思案しているようだった。
「俺の女と大和田夫人だ。十分ぐらいのハンディは当然だ。考えることもない」
「いいか。夫人には指一本触れるな」
「俺の女にはどうした」
「……」
「不公平なことはしたくない」
「おまえは堅気のはずだ」
「ムシのいいこと言うな。おまえのような下衆野郎を相手にしてるんだ。俺もどこまでもおまえに合わせていくぜ」
「夫人には手を出すな」
「前にも一度、姦っている。気にするな」
「大和田さんを本気で怒らすことになる」
「俺はもう、とっくに本気で怒っているんだ」
 私はそれで電話を切った。
「川藤か。奴は高村とは違い、加減がない。性格が歪みきっている。気をつけるに越したことはない。もっとも、高村と比べれば、腕は大人と子供ほど差はあるが」
 深谷の分析だった。
「それで、この夫人はどうするんだ」
 太一は夫人の三杯目の水割りをつくっていた。
「好きにしてくれ。俺の女は蜂の巣らしい」
「気が進まんな」
 太一に深谷がうなずいた。
「大和田とは別物って気がする。姦れば、おまえの女を犯した川藤たちのレベルまで自分を落とすことになる。それに、この奥様、何か愉しそうで、犯す醍醐味など感じそうにない」
 私も同じ思いだった。夫人は期待しているようなのだ。止そう。優子は玩具にされたが、戻ったとき、強く抱き締めて清めてやればいい。疵つき、化膿して爛れているかも知れないけれど、それが夫人を犯したからって治るものでもない。大和田に土を舐めさせて、はじめて復讐となる。優子に逢い、必ず、大和田を地べたに這い蹲らせることを約束する。
「しないのね。少し残念だけど、しないなら、私、呑むわよ」
 夫人は私たちの中に入り、ホステスとなった。ずっとここにいてもいいな。独りごちる口調に、実感がもこもっていた。
 
 十分ほどで船が着く。私は港で待っていた。太一が貞夫を町に行かせた。優子をガードしてくるはずだった。
 無事、受け取った。貞夫からの電話を受けた後に、私は大和田夫人を船に乗せた。
 ーー私を放り出すのね。
 ーー約束だからな。
 ーー私を不幸に向かって旅立たせるのね。
 ーー大事にしてもらえ。
 ーーそうされても、私にその気がなければ。
 夫人は島に未練を残した。仕方のないことだった。夫人は大和田の夫人なのだ。貞夫の他に、顔の割れていない島の男が二人、夫人とともに船に乗る。これも太一が手配したものだった。船が見えた。肩を叩かれて、振り返る。老警官、金井が微笑んでいた。
「告訴してくれんかな」
 金井は船を見た。
「告訴、ですか」
「誘拐、婦女暴行」
 金井はすべて知っているようだ。
「いつか若い刑事に言ってましたね。こればかりは本人がしないことにはーー」
「彼女、してくれんかね」
「訊いてみましょう」
「川藤たちをパクれる」
「町の警察では駄目なんですね」
「腐ってる。上層部が動くよ」
「俺たちはどうなるんですか」
「大和田夫人のことか」
「ええ」
「単なる旅行者だろう。顔を見ていたが、名残り惜しそうだった」
 船が近づいてくる。優子は訴えるだろうか。旅行者なら、優子のほうだ。旅先での理不尽な出来事。恨んでいるかも知れない。
「あとで、家のほうにお邪魔しよう」
 金井は船が着く前に、バイクに乗って走り去る。上がが動くと言った。上層部とはどこか。高村の事務所前で夜遭遇した際には、中央だと言っていた。島にずっと燻りつづけていた老警官。何かを感じさせるものはあった。中央から放たれていたのだろうか。これは余りにも劇画的な発想だろうか。それでも、そう思わせる何かがある。少なくとも、いまのところ、私に対しては敵愾心はないようだった。
 船が着いた。優子は貞夫を含めた三人の男たちに護られるように下船した。弱々しい微笑。私は無言で肩を抱き、歩きはじめた。優子は再び、弱い微笑を浮かべた。
「姦られちゃったわ。何度も何度も、メチャクチャに」
「言うな。この後始末は俺がきちんとつける。家で俺が清めてやる」
 私の腰を抱き締めていた優子の腕に、力がこめられた。
 
「告訴はしないわ」
 全身を舌で清め、深く貫いた。泪も舌で吸い取った。体液が混じり、匂いが私たちをオブラートのように包んだ。優子の身体が、何度も魚のように跳ねた。声が震えていた。
「我慢した。気をやったら負けだと思い、我慢した。身体をつねったりして。でもごめん。私、強引に押し上げられちゃって」
 私は何度も、優子の頭を抱えて頬擦りした。あちこちに痣が浮いていた。仕方のないことなのだ。完熟した女体。我慢し続けられるものではない。精神と肉体の反応は別物なのだ。
 女が逆らえば死しかない場合、自ら進んで肉体を開く。当然だった。落ち着きを取り戻し、私は金井の言葉を伝えた。考える素振りなど微塵もなかった。優子は私に、決着をつけて、と言った。うなずいた。高村が島に潜入しているという。丸一昼夜経つ。そろそろあらわれても不思議ではない。
 電話があり、金井が来るとのことだった。あらわれたのは十五分後だった。告訴はしない。そう言うと金井はため息をつき、帰った。
 午後七時。優子は夕食を普通に摂った。疲れているようで、先に寝ると言い、風呂に入ると二階に上がった。電話が鳴ったのは、三十分後だった。高村からだった。声は落ち着いていた。
「一対一だ」
「どこだ」
「鳴り砂の浜」
「わかった。三十分後だ」
「断っておくが、俺は一人だ」
「わかってる」
 避けては通れないだろう。私はあの山での一件以来、自分のものにしたナイフをベルトに挟んだ。
 深夜だった。鳴り砂の浜。五分五分の勝負が出来そうだ。昼なら負ける。夜の中での自分の眼に賭けるしかなかった。二階を窺う。優子はすでに寝入っているようだ。携帯は持たなかった。鳴り砂の浜に向かった。
 
「おまえを殺す。次は深谷だ」
「意味ないだろう。すでにおまえは組織から除外されているんだ」
「そんなことはどうでもいい。これは俺自身の問題だ」
「どこまでもヤクザな奴だ。それも苔の生えたような古いヤクザだ」
「ほざけ」
「教えとこう。おまえの組は川藤が手に入れた。そこに俺の女を拉致し、輪姦した」
「女を拉致して輪姦だとーー」
「おまえも川藤に嵌められたのだ」
「馬鹿が。女を利用するなんて」
「三日天下だな、川藤も」
「どういうことだ」
「警察が動く」
 嘘だった。告訴はしていない。
「市警が動くわけがない」
「もっと上が動くんだよ」
「あの爺さんか」
 金井を知っているようだ。金井は高村でさえ認めている。
「そうかい。だが、いまとなってはそんなこと、俺には関係ない。俺は自分に従うだけだ」
 高村は腰を落とした。最初から匕首を手にしている。明るい。月が出ていた。白砂が月の光を照り返し、刃を青白く染めていた。私もベルトからナイフを抜いた。鞘を棄てた。乾いた砂から波打ち際に移動する。濡れている砂は鳴らなかった。刃物を持てば、高村はプロだ。私は使ったこともない。唯、持っていれば相手も慎重になるはずだ。刃物が砂に埋まれば……。活路はそれしか思いつかなかった。
 対峙する。二メートル。砂を蹴る。と同時に高村が横に跳ぶ。読まれていた。河口での失敗で学習している。再び向かい合う。息を吸い、止める。動く。波が足を洗う。あと少し。出来れば高村の膝あたりまで、海に浸したかった。そうなれば分は私にある。
 十代のころから、喧嘩はすべて海を舞台にしていた。倍以上の数の相手に楽勝したのも、海のお陰だった。
 仕掛けたのは高村が先だった。構えた私の腕を振り払うように、切っ先が闇を切る。避けた。動きに無駄がない。直線的だった。十センチ。深みに立っていた。これで多少、動きが鈍るはずだった。離れていては決着はつかない。一か八かだった。決心する。次の動きに賭けた。
 来る。見えた。切っ先が眼の前を通過した瞬間、私は体ごとぶつかり、高村に抱きついた。両手が高村の腕を掴んでいた。私はナイフを棄てていた。
 手のどこかが斬られている。痛みはあるが、どこを斬られたのかわからなかった。私は高村の手首を放さなかった。身体をあずけ、水中にあびせ倒す。匕首が高村の手から放れた。水深一メートル。共に沈んだ。見えなかった。立ち上がる。高村も立つ。腰まで水中に浸しての動きだった。二人とも肩で息をしていた。
 間合いを詰めた。高村が退る。さらに詰める。突っ込んで来た。腹で受けた。不安定な足もとが再び二人を水中に倒した。下になった。覆い被さってくる。息を止めていた。眼は開いたままだった。蘇る。水中での喧嘩。息をすれば海水を呑む。凄まじい喉の痛み、そうなれば負けたも同然だった。
 息を止めたまま、膝で尻を蹴り上げる。高村が前方に飛んだ。起き上がり、ダイビングした。高村が咳き込んでいた。海水を呑んだのだ。やはり、高村は海には素人だった。顔面に拳を見舞う。かわされた。喉の痛みに堪えながら、眼だけはしっかりと開いている。喧嘩のプロなのだ。海に係わらず、眼を閉じたら負けなのを知っている。顔が私の拳に見事に反応し、左右に動いていた。水が邪魔をする。正確にはヒットしなかったが、狙いがずれて、それが高村の左頬にめり込んだ。足が来る。膝が私の尻を蹴る。前方に跳んでいた。起き上がり、振り向く。高村は砂に走っていた。砂に刺さったままのナイフが月の光を浴びてはっきりと見えた。私が棄てたものだった。その気になれば簡単に手に出来る場所に高村はいる。が、高村はそれに振り向きもしなかった。気づいていないのだろうか。夜に馴れない眼には、月の光が降り注いでいても闇としか思えないのだろうか。そんなはずはない。高村はステゴロを選んだのだ。素手で私を待っている。
 そうなれば、私も砂浜に上がるしかなかった。疲れた。条件は五分と五分。いや、高村が一泊野宿したぶん、まだ私のほうが有利かも知れなかった。疲弊の量は高村のほうが大きい。それで私と対等なのだ。砂を踏む。土よりは動きにくいが、水中と比較すれば雲泥の差だった。右が来る。距離感が微妙にずれる。私は後方に飛ばされて尻餅をついた。足が来る。ブロックし、起き上がる。再び足。腰で受け、太腿を抱え込む。瞬間、私の左足が高村の軸足を払っていた。
 崩れる。膝で鳩尾を狙う。かわされた。砂に膝がめり込む。高村の左ストレートが私の頬を掠めた。仰け反った。ボディががら空になった。そこに右足が来た。まともに受けた。込み上げて来るものがある。胃の悲鳴。辛うじて押し殺した。アッパー。かわした。と同時に私の右足が高村の腹に刺さる。高村が前にのめる。顎を狙って膝を出す。両腕で私の膝を包むようにしてガードされた。反動が私を棒倒しにした。
 立ち上がる。眼の前に拳が迫る。そう思うのと同時に鮮血が飛んだ。倒れる。砂が散る。高村は月を背にして立っていた。小さく息をした。タックルした。足に組み付いた。膝が来る。顎に入った。利いた。それでも足は放さなかった。たまらず高村が倒れる。私が立ち上がる。股間。踏み潰すように蹴った。呻く。顎を蹴り上げる。疲れていた。動きが怠慢になっている。スローモーション映像のような蹴りを、高村は防げなかった。右手がまだ、股間を押さえていた。形相が凄まじい。立ち上がる。ふらついていた。右ストレート。ゆっくり近づいてくる。止まっているように見える。簡単にかわせる。そう思った瞬間、その拳が私の顔面を捉えていた。倒れる。立ち上がる。右を出す。情けないほどのスピードだ。その右が高村に当たる。かわせない。二人とも、繰り出される怠惰なパンチを防御する余力は残っていなかった。
 スタミナ勝負。見ている人がいたなら笑い転げるだろう。高村は現役のヤクザだった。一晩の野宿に体力を奪われている。空腹のはずだった。私は日ごろ、鍛えてはいた。それに十代のころに培った基礎体力がある。その貯金で戦っている。立ち上がる。二人同時だった。右ストレート。相討ちだった。腕がクロスし、双方が真後ろに倒れた。起き上がる。動かない。首だけ捻って高村を見た。起き上がろうとしている。起き上がれそうもなかった。致命的なものは感じない。顔面は凸凹だった。まだ気力だけは微かに残っている。身体だけが動かない。私は夜空を見たまま、砂に横たわる。全身が砂に塗れていた。
 十分。十五分。気配がした。見ると、高村が両手を砂につき、立ち上がろうと藻掻いていた。私も試みる。だいぶ息が戻って来ている。どうにか立ち、向き合う。高村は肩で大きく息をしていた。
「疲れたな」
「素人がプロを相手にするからだ」
「ビールが欲しい」
「俺は飯だ」
「まだ、やるか」
「飯を喰わせないなら、ここで殺す」
「俺は冷たいビールが欲しいだけだ」
「とりあえず、命拾いさせてもいい」
「それは俺の言うことだ」
「口の減らないおっさんだ」
 お互いに苦笑した。
「二十分、歩く」
「電話しろ」
「携帯は置いて来た。歩くしかない」
「出来るか、そんなこと。俺はヤクザだ。近場でも車だ。俺の電話を使え」
 高村は砂を這いずり、脱ぎ棄てたブルゾンから、携帯電話を取り出した。太一にかけるしかなかった。優子を起こそうとは思わない。太一はすぐ来ると言った。鳴り砂の浜。観光客を求めて路が出来ている。気のせいか、高村はふっきれたような顔をしていた。
 
「俺を殺すなら、飯喰った後にしてくれ。空きっ腹のままで死にたくはない」
 私と太一を前に、高村は悪びれた様子もない。眼が醒めたのか寝ていなかったのか、優子が二階から降りてきて、訳も訊かずに高村の食事をつくった。
 ビールも出されたが、高村が最初に手をつけたのは飯だった。よほど空腹だったのだろう。それでいながら、闘争心剥き出しだった。空腹に救われた。そうも思えた。あり合わせとはいっても、冷蔵庫や冷凍庫には、それなりに魚介類がストックされている。高村は貪るように眼の前に並んでいるものを、口の中に放り込む。
 私も高村も顔中腫れあがっていた。全身の節々が軋み、痛んだ。鳩尾周辺も足も時折激痛が走る。
 満身創痍だ。喉が渇き、ビールは受け入れたが、とても飯など喰う気にはなれなかった。その飯を貪る高村は怪物だった。敵の真っ只中なのだ。確信犯ということだろう。命を棄てているから出来ることなのだ。以前、深谷と呑んでいる姿を何度も眼にしていたが、会い、戦ってみて、この男なら、深谷も嫌ってはいなかったはず、とはじめて実感した。
 その深谷は、高村がいると太一の電話により知り、すぐに島に渡るとのことだった。早速、貞夫が舟を仕立て、深谷を迎えに町に向かったという。十五分も経てばあらわれるだろう。高村は深谷が来ると知っても動じず、そのとき、殺すなら飯を喰った後にしろ、と言ったのだ。優子が笑った。高村とはむろん面識はない。
「男って面白いわね」
 高村は聴く耳さえ持たないように、黙々と飯を喰っていた。
「若いなら理解出来るけど、もういい歳なのに、そんなに顔を腫らすほど撲り合うなんて」
「高村は面子。龍介はこれまでの自分と大和田にキレている。俺たち島の者は島を喰いものにしようとしている大和田たちと戦おうとしている。まだ少ししか牙を剥いていないが、深谷も殺し合いをするときには利益を守るというよりは面子だろう。しかし、それぞれが違うようでも、全員が何かを求めながら答を出せずにそれぞれに足掻いて、抑えきれずに爆発する。それだけなのかも知れない」
「いずれにしても、男って、可愛いわ」
 優子は太一に微笑んだ。
「但し、あなたたちのように戦う男は、ってことよ。昨夜の男たちは最低だった。可愛さの欠片もない溝鼠だわ。とくに、あの川藤っていう男」
 優子が吐き棄てる。
「川藤」
 飯を喰っていた高村がはじめて反応した。
「野郎はロクでもない奴だ。まだ若いのに不気味な男だ」
「おまえが甘いだけだ。ヤクザにロクでもないも不気味もあるものか。おまえという頭が消えたり破門になったりすれば、いの一番に探して無事を確かめようとするのが俺たち堅気。たとえその後を継ぐにしても、ためらい、苦しみながら受ける。だが、川藤はおまえが消えた翌日にはおまえの事務所を引き継いでいた。親筋の差し金なのか奴の独断なのか、いずれにしてもチャンスは絶対に逃さない、ということだ。おまえや深谷など足もとにも及ばないほど、奴は本物のヤクザだということだ」
 そう言った太一の顔を見ながら、
「私、わからないわ」
 優子は高村を見つめた。
「さっき面子って言ったけど、それってどういう意味なのかしら」素人で、女なら、もっともな疑問かも知れない。優子は理不尽な仕打ちを受けながらも、まだ、私たちの係わりさえ知らないのだ。
「水族館建設の入札の件。大和田夫人の件。悉く、この俺に邪魔されたと怒ってのことだ」
「この人の疑問はもっともだ。いま俺も同じような疑問を持った」 太一に視線が集まる。
「そうだろう。たとえ龍介が入札の重要書類を盗み出したにしても、盗まれた大和田も悪い。高村は何も悪くない。まぁ、夫人の件は高村が出した用心棒たちが間抜けだったのだから、龍介を追ってその埋め合わせをしようとするのはわからないでもないが」
「おまえたちとは違い、俺にはとことん拘らなければならない理由がある」
 私に視線が集まった。
「すでに二人の女が死んでいるということだ。いや、殺されている。二人とも俺に係わったばかりにそうなった。だから俺にとって、最早、自分にキレた云々ではなく、二人を弔うということに衝き動かされてのことなんだよ」
 由梨絵と裕美。自殺と事故で片付けられたままだった。全員の顔が曇った。高村は困ったような顔をしていた。ヘッドライト。深谷だろう。高村が口を開いた。
「夫人の件では散々だった。大和田は俺の本家筋にとっちゃ大きな金蔓だし、東京の総本家にまで顔が利いている。結果的には俺は役立たずってことだった。入札のことに関しては、俺はやるだけはやった。書類を盗み見られたことなど俺の知ったことではない」
「それで由梨絵が死んだ。殺されたのだ。殺したのはおそらく高村、俺はずっとそう思ってた」
「舐めるな。殺すぞ。俺は極道だが、女を殺したりはしない。指示もしていない。だが、何かがどこかで、変だ」
「おまえは疎んじられていたようだな」
 太一の一言に、
「筋の通らないことはしたくない。しようとも思わない。俺は仙台にもはっきりそう宣言していた。そういうところはヤクザとしては半端かも知れんがな。なにしろ、親筋に逆らっているんだから」
「由梨絵や裕美を殺したのは川藤かも知れないな。後釜を仄めかされて、奴が動いたんだろう」
「少し静かにしてくれ。俺なりに整理してみる」
 高村の顔が深刻だった。
「冷たい奴らだな。俺は来てはいけなかったみたいじゃないか」
 いつの間にか入り口に深谷が立っていた。
「心配して駆けつけてみれば、敵と味方で小難しい議論をしている。客が来たら出迎えるのが礼儀だろう」
 緊張が溶けた。深谷は苦笑しながら、高村を見ていた。
「おまえが来ると言ったら、殺すなら腹一杯飯喰ってからにしてくれって、開き直ってた。もう、腹一杯らしいや」
 太一の説明に、高村は口元だけで笑い、
「ああ、煮るなり焼くなり、どうにでもしろ」
 高村から殺気が消えていた。もとより、高村に対しては憎悪などなかったのだ。立場の違いで敵対していただけに過ぎない。言葉を交わしてみれば、高村が組織の中で浮いた存在であることがわかった。哀れさを感じさせた。
「あらましは聴いた。もし、川藤が高村を蔑ろにして陰で立ち回っていたとするならば、俺が調べた結果にも符合する」
 深谷は全員を見回した後に、大丈夫ですか、と優子を気遣った。優子は微笑み、うなずいただけだった。深谷は再び、私たちに視線を移し、
「おまえたちの想像通り、すべての画は仙台の高村の親筋が描き、それを川藤が実行した」
 高村の頬が痙攣した。
「川藤も仙台から来ていたが、野心が人一倍強い。川藤の他にも仙台から極道が集まっている。それらが親の命令で、全員川藤傘下になった。高村の若い者だって従わないわけにはいかない。」
「奴は何者なんだ」
「奴は欲深い。それを本家は利用している。所詮は歯車の一つに過ぎない。小さい町のわりには、大和田のような大物がいて、結構旨味のある町だからな。俺のお目付け役として送られて来たのだろう」
 高村が煙草を銜える。
「何故おまえが姿を消したんだ」
「明日はどうなるか知らんが、そのときはまだ、俺が頭だった。夫人の件は俺の不始末だ。極道だからな。姦った奴を探し、落とし前をつけようとして当然だろう。深谷だって同じ立場にいればそうしていたはずだ」
 私は深谷と高村のやりとりを、黙って聴いていた。どうでもいいことに命を賭けている。大切なことなのかも知れない。ただ、高村が疎んじられていたのは確かなようだった。おそらく、川藤自身の失敗も、巧みな根回しによって、高村の所為になっていたのだろう。最初から高村の失脚を目論まれ、嵌められたのだ。
「それで、どうするつもりなんだ」
 深谷は高村を見据えた。
「いまの俺の立場は知っているはずだ」
「おまえは破門された。回状が来ている」
「だが、そんなもので極道としての血が薄められるわけでもないし消えるものでもない」
「もう、お互い五十を過ぎたんだ」
「歳なんか考えたこともない」
「そうだな。破門されたからって、すべてをそれで割り切れるものじゃない。ましてやこの町での組はおまえのものだ」
「川藤に会わなければならないな」
「俺でもそうするだろう」
「俺を島から出してもらえるのか」
「それはこの二人との相談だ」
 深谷が私と太一を見る。
「蜂の巣になりに行くこともないだろう。すぐに腹も減るぜ」と言う太一に、
「強敵が島に留まることに反対はしない」私は言った。
「ここに居座れってことか」
「おまえ次第ということだ」
「そんなことすれば、俺は完全な裏切り者だろう」
 深谷は笑い、
「裏切られていて、何寝言言ってるんだ」
 さらに、
「おまえが向こう側にいなければ、俺も思い切ったことが出来る」
 そう言って、優子が注いだビールを一気に呑み干した。
 
 高村は二、三日だけ、島でブラブラしていた。深谷の頼みで太一の家に居候していたのだ。馴れない時間を過ごすのが、苦痛のようだった。私は優子とともに、一度だけ、釣りをした。ボウズだった。潮が悪い。勝手に解釈し、納得した。
 私、帰る。優子が唐突にそう言ったのは、磯から帰宅する間際のことだった。そろそろだろう、とは思っていた。拉致されてから半月経つ。優子にとってはひどすぎる半月だった。それでも半月留まれたのは、楽天的な性格もあるが、優子なりに何かを賭けていたような気もした。その何かにはまだ応えられなかった。
 受けた疵を私なりに舐めてやっただけだった。必ず、報復はする。その決心だけはしていた。優子は私に賭けていたのだろうか。それでも半分はあきらめていたはずだ。はじめて抱いたとき、伝えてある。期待はするな、と。
 だが、賭けてみる。現実的な眼と、それでもこの先を誰かに賭けてみたい、という願望。四十歳近い女にはあるのかも知れない。
 帰る、と言う優子に、私はうなずいただけだった。さらに周囲は緊迫していた。私は踏み出す一歩を、止める女の眼や一言に影響されたくなかった。女に意識はなくても、男は女の眼や一言にしばしば惑わされる。何もなく、一歩を踏み出したかった。帰宅し、太一と深谷を呼び、優子を囲んだ。高村も太一に誘われて来て、俺が送る、と言った。無関係だったとはいえ、責任を感じているようだ。
 理由は退屈だから。そう言っただけだった。責任も退屈も本音だろう。退屈ほどある意味、怖いものはない。私は私を襲った高村に、優子をあずけることにした。高村にしても、町に入るとなれば、身を賭している。その覚悟に応えたかった。
「仕事はどうするんだ」
「都会なのよ、私の故郷は。選ぼうとしなきゃ、いくらでもあるわよ」
 言えている。都会も田舎もない。選ぶから数が少ない。前は普通の会社に勤めていた。もう、そこには籍はないはずだった。
「いざとなったら、風俗にでも行こうかしら。最近は熟女ブームらしいから」
 全員が苦笑した。やりかねないからだった。それほど、受けた疵は浅くないということだ。
 
「無事に新幹線に乗せた。これから帰る」
 高村の徹底ぶりに唖然とした。町の駅までと思っていたら、東北新幹線の最寄り駅まで送ったようだ。その高村からの電話の後、優子からも電話があった。切る間際、優子は「ありがとう」と言っていた。言葉に詰まった。拉致され、蹂躙された。「ありがとう」はしかし、皮肉とは感じなかった。
 元気でいろ。来いと言われたら、また来てあげる。わかった。
 --もう逢えないだろう。未練を感じた。
 あれから二日経つ。すぐ帰ると言っていた高村が戻って来ない。連絡もなかった。厭な予感がする。深谷がそう言っていた。それが的中した。
 消息を絶って三日後、高村はあらわれた。硬直し、白目を剥いた状態だった。全身に刃物による刺し疵があった。遺体は町から数キロ離れた山間を流れる小川のせせらぎに、昼寝でもしているように横たわっていた。殺されたのだ。周囲に三人。やはり、死んでいた。高村はただでは死ななかった。三人、道連れにした。さすがだった。町の警察は少し動いただけだった。ヤクザ同士の諍い。事情聴取は二、三あったらしいが、死んだ者四人の個人的な抗争として、片付けようとしているようだった。しかし、金井が見過ごさなかったのだろう。見馴れない顔が数人派遣されて来た。愕くことに、金井がそれの指揮をとっていた。高村の死も、金井によって報らされたものだった。金井は島での温和な表情を棄てていた。
「嫌いじゃなかった。極道でも何人かは付き合ってもいいような奴はいる。高村には深谷やあんたに共通した何かがあった。しかし、わしは同情はせん。奴は極道だし、わしは警官だからな。そう割り切ることにした。そしてあんたも、いまや立派な極道だ」
 私は無言で、金井を見据えただけだった。高村の死は、市警の発表どおり、敵対する暴力団に所属する個人の先走った事件、とテレビなどでも報じられていた。
 しかし、ある局のキャスターは、単なる暴力団同士の抗争というよりは、もっと根深い何かがありそうだ、と報じていた。リークかも知れない。私には金井の仕業のような気がしてならなかった。
 深夜。なかなか眠れなかった。太一が十二時近くまで来ていて、今後を話し合った。冷静になれ。太一は繰り返しそう言った。冷静ではあった。唯、本能のようなものが、尻を叩くだけなのだ。大和田や川藤の顔がちらつく。気が逸る。抗争の発端は私なのだ。だが、いまのところ、推移を見守るしか術がない。
 キレず、大和田に追従はしないまでも、普通に過ごしていれば、由梨絵も裕美も高村も死ぬことはなかった。優子に生き地獄を味合わせることもなかった。元凶は私なのだ。いまさら引き返すことは出来ない以上、大和田と戦うしか道はなかった。報復しなければ死んだ者に申し訳が立たない。
 やる。一つだけ、気掛かりがあった。綾だった。午前二時。私は受話器を取り上げた。ためらった。一度、受話器を戻した。逡巡し、ついに番号をプッシュした。綾はすぐに出た。
「偶然ね。もう何年にもなるのに、あなたからの電話なんてはじめてじゃないかしら。いま丁度、私も電話しようかと思っていたのよ」
 綾の第一声だった。テレビでこの町で勃発した暴力団抗争のニュースを観て、心配してのようだった。絡んでる。私は言った。
「いまヤクザ、やってんの?」 
「いや、だけど、似たようなものだ」
「仕方のない人ね。あなたはいつも逆ね。普通、若いころにそんなのに首突っ込んでいても、あなたの歳になると足を洗うっていうのに」
「俺のせいで三人死んだ」
「辛いわね」
 三人が俺の背中を押す。
「私、行ってあげようか」
「また、疵つけることになる」
「もう疵つくところなんか探したってないわよ」
 私は応えられなかった。行くわ。綾が言った。
 優子は何かを感じながらも、その何かを知らないで来た。綾はすべてを言葉から見抜き、来ると言う。償わなければならない相手だった。命を投げ出してでも。いつもそう思っていた。
「私には失うものがないの」
 その一言に私は無言を強いられた。
「失うものはないけど、行けば一つ得るものがあるかも知れない。だから、行くわ」
 きっぱりとした口調だった。電話を切った。私はそれまでが嘘のように、すぐに深い眠りに引き込まれていた。
 
 優子の件もある。どこで誰が見ているかもわからない。私は綾を家で待つことにした。過去に何度か島を訪れている。電話でも迎えはいらない、と言っていた。庭に出て、綾を待っていた。
 午後三時。綾は来た。陽射しを避けるように、白い帽子を深く被っていた。屈託のない笑顔。しかし、皮膚は正直に五十歳をあらわしていた。優子のようなしっとりとした肌はない。同じ五十歳でも、葉山に棲む繭子のような妖艶さも持ち合わせてはいなかった。
 他人の眼には、ごくありふれたおばさんだろう。着ているものにだけは品がある。私は老いが見える綾の顔を見て、妙に落ち着いていた。
 癒された。と同時にその老いに拍車をかけることを思い、たちまち苦悩した。
「入るわよ」
 思いが複雑に交差して、束の間佇んでいた。
「ああ」
 小さなバッグと大きな紙袋。私は紙袋のほうを手に取り、元気そうだな、と言って、家に入った。
「島の土を踏んでからよ。空気がきれいだから、自然に元気にもなるの」
 自ら、私は病気のデパートだと言って憚らない。喘息、バセドー氏病、皮膚炎。未熟児として物のない時代に生れ落ちたことが影響しているようで、綾は気力だけで生きているようなものだった。
 島に来てからよ。その一言が胸を抉った。昨日までは違う、ということだ。そして、明日から再び病む。それを知りながら、島の地を踏んだのだ。居間に落ち着いた。
「腹、減ったろう」
「あなたもでしょう」
「減った」
「何かつくろうか」
「冷蔵庫と冷凍庫を見てくれ。食材はある」
「お風呂は」
「沸いてる」
「気が利いたわね」
「暑いからな」
「旅人には何よりのご馳走」
「旅人、か」
「そうよ。やっと終着駅に降りることが出来た、旅人」
「暑いな」
 気候のせいばかりでもなかった。一言一言が突き刺さる。決して責めているのではない。しかし、抉る。
「変わったかしら。うん、変わったわね。顔は昔から怖かったけど、当時とは違う怖さが漂っている」
「言ったろう。いまは極道と変わりないって」
「でも、あなた、嫌いじゃないでしょう。緊張し続ける毎日って」
「おまえはずっと、緊張しっ放しだったな」
「お陰で物事に動じないおばさんになっちゃった」
「返せないな。おまえから取り上げた時間だけは」
「あら、返してもらうわよ。だから、来たんだから」
「明日止まるかも知れない時間しか持ってない」
「だから、今日来て、正解だったのね」
「腹、減ったな」
 私は話題を変えようとした。勝てない。私にはない強靭さ。ずっと以前から、それに嫉妬し、私は距離を置いていたのかも知れなかった。
「つくるわね」
 綾は大きな紙袋を引き寄せて、中からエプロンを取り出した。愕いた。用意して来たのだ。女のエプロン姿など、何年も見た記憶がない。綾はテキパキと動きはじめた。
 吹っ切っている。眼が耀いていた。顔は間違いなく五十歳でも、動きは若かった。私はビールを呑みながら、綾の動きを見ていた。外は暮れ始めていた。せっかく綾が訪ねて来て再会しても、安穏とばかりもしていられなかった。私はまだ、何一つ、決着をつけていないのだ。
 由梨絵や裕美の顔を思い出しながら、最近、ぱったりと幸一からのコンタクトがないことが気になっていた。ホテルにも近づかず、私からは電話することもないので、仕事に没頭していることと判断し、忘れかけていた。
 大和田の夫人は再びホテル内の一室に籠もり、体のいい軟禁状態にあるらしい。何が起こっても、大和田のホテルは一見微動だにせず、威容を誇示していた。
 裏組織と大和田の繋がり、それに市長、さらには町の警察も加わり、事件は依然として究明されないままだった。金井の指揮のもとに中央が町に入ってからもだいぶ経つ。一度川藤の事務所へのガサ入れがあり、二人の逮捕者は出したものの、成果はいま一つだった。抜き打ちとはいっても、町の警察署が何一つ知らないわけがないからだ。
 川藤はいまでは生前の高村以上にのし上がり、深谷をも滅ぼそうと、野望を際限なく膨らませているようだった。いつまでも埒があかない。太一たちが堅気であるが故に出来ないこと。それは自ら攻撃することだった。あくまでも正当防衛という形でなければ、太一たちは何も出来ない。
 攻撃出来るのは私だった。それには誰を狙うのが妥当か。標的は川藤以外なかった。凶暴で冷酷ではあるが、攻めるなら川藤だった。特攻隊であり、裏返せば時限爆弾のようなもの。それを爆発させる。穴が開き、そこから活路が生まれる。動かなければいつまでもこのままだった。綾が一緒に暮らし始めたことで、私は一層、その思いに駆られはじめていた。
 時期を測る。それは当然だった。犬死だけはまっぴらだった。気晴らしに釣りにでも行こうか。唐突にそう思う。綾も勧めた。おかずを釣ってきて。そう言って送り出された。釣竿を担いだ。
 最後の休暇のよう気がしないでもなかった。
 
 三度目だった。夏が過ぎて、陽射しは多少、勢いを失いつつあるが、砂に照り返される陽熱は変わることなく眼を焼いた。
 十一月に行われる、市長選挙に向けた動きが活発になっていた。現市長はまだ、表立った活動は控えていた。しかし、水面下では大和田が動き回り、既存の勢力維持と、下請けたちを動員しての新勢力確保に躍起となっていた。
 水族館建設工事を油断から敵側に取られ、大和田は箍を引き締めにかかっている。初心に戻り、がむしゃらになりつつある。その水族館建設工事はどうにか着工し、鉄骨が組み立てはじめられていた。約束どおり、私の口座には、深谷からかなりの額が振り込まれていた。深谷も潤ったはずだった。
 大和田のなりふり構わぬ様子が伝わってくる。独自に現市長擁立を画策し、自分のホテルで決起集会を何度も行っているとのことだった。
 これまでにはないことだった。ホテルに政治色が染み込むことを嫌っていたはずだ。覚悟が窺えた。どうしても傀儡は必要なのだ。
 対して、太一が対抗馬として自ら立候補の意志を固めたようだ。島では絶対的なカリスマだった。町にも名前は浸透していて、浮動票は期待出来た。
 だが、町全体が過疎化しているだけに、現職有利は否めない。新聞の論調もそうだった。町の有力者が経営する御用新聞だった。露骨なほど、現市長を持ち上げていた。唯、左寄りの小さな新聞社が、市長や大和田たちの癒着にメスを入れている。告示されるころには、熾烈な争いが繰り広げられているはずだった。が、それらは私とは無縁だった。私にあるのは単なる怨念だった。それを晴らさなければ、本当の充実感は得られない。
 よく晴れ渡っていた。以前と同じ岩に腰を降ろして、釣具を点検し始めた。岩場の突端に、老人が二人、釣り糸を垂れていた。海を見ていた。私は綾がホイルに包んでくれた、おにぎりを出し、これも、と言って持たされた市販のお茶とともに、釣りの前に味わおうとしていた。
 朝飯は済んだのに、磯に来て、潮の匂いを間近にすると、空腹が感じられた。綾は家中を掃除すると息巻いていた。異様に汚れを嫌う。家は優子が帰ってからは荒れ放題だった。
 夕方まで帰っちゃ駄目よ。邪魔だから。午後には戻ると言った私を、綾はそう言って送り出した。
 午前十時。日中は真夏並みの暑さになりそうだ。一つおにぎりを平らげて、竿を仕掛けようとしたときだった。岩場の先にいた二人の老人が近づいて来た。
 金井と繭子の父親、源蔵だった。私は一瞥しただけで、仕掛けを遠くの海面に投げていた。
「こうして毎日、釣りでもしてくれれば平和なんだがーー」
 金井だった。
「退屈なんでね。毎日がもう、余生のようなものですよ」
 凪ぎていた。海面に微かな漣が時折浮かぶだけだ。あたりはない。
「一時間やってるが、二人とも今日はボウズだ」
 金井は私の傍にしゃがみ、汲んでおいたポリバケツの中の海水で手を洗う。源蔵も近づいて来て、
「逢ったそうだな」と言った。応えなかった。
「喜んでいた。もっとも、そう喜ばれると、俺としては困惑するがーー」
「わしは先に浜を歩いてる」
 金井は立ち上がると源蔵にそう言い、
「警察も町の署のような奴らばかりではない。面倒はかけんでくれ。始末はわしらがする。これ以上深入りすると、立場上、あんたにだって手錠をかけなければならん。そんなことまでして、わしはこの歳になって島の人々に海に突き落とされたくはない。とくにこの、源蔵さんのような偏屈な人たちにはな。なにしろわしは、引退したらこの島に永住するつもりでいるんでな」
 そう言って、岩場から砂浜に降りた。
「俺は自分に満足したいだけですよ」
「高村もそうだった」
 金井は振り向いて、大きなジェスチャーで、両肩を竦めた。
「戻ってる」
 遠ざかる金井の背を見ながら、源蔵はつぶやくように言う。訝る私に、
「繭子が島に戻って来た。葉山のすべてを子供たちに与え、いま、わしの家の傍に小さな家を建てて暮らしておる」
 初耳だった。太一も触れなかった。知らないはずはない。愕きはしたが、どうでもいいことのような気がした。三十年もの拘泥が嘘のように消えた。一度逢った。唯、もう一度逢うことだけに拘っていたのかも知れない。線を引くために。
 島に戻ったのは繭子の意志。私があれこれ言うことでもない。金は存分にあるのだ。充実だけがないと言っていた。男でいまを忘れる。一瞬に埋没する。しかし、男で充実を得るのはほんのひとときだけだ。快楽から解放されたとき、寂寥感は倍になる。それに気づいていながら、抜け出せなかった。だから踏ん切りをつけたのだ。変化を求めたのだ。仲間としては気になる。当時に戻れるわけもなかったが、仲間であることだけは未来永劫変わらない。これからは仲間として付き合う。それが戻った理由ならば、無関心ではいられなかった。けれど、残された時間は短い。
「狭い島の中だ、そのうち、仲間として顔を合わせることもあるでしょう」
「逢って、姦ったんだろう」
 娘の親の科白ではなかった。私は応えなかった。
「その一度で、これまでのケリをつけたのか。もう、それだけで、女としては逢う気がないということか」
「やかましいよ。親がうだうだ言う歳でもないだろう」
「確かにな。だが、帰って来た。夫に死なれてから何度も帰れと言ってきたのに、帰ろうとはしなかった娘が帰って来た」
「歳とったんだよ、歳とると無性に故郷が懐かしくなるものだ」
「そうかも知れん」
「仲間として戻って来た。俺とのことは超越しているはずだ。だから、戻って来れた」
「俺にはわからん。訊く気もない。唯、戻ったことは伝えた。あとは知らん。三十年前のように、たとえ繭子がこの先どうなろうと、俺はもう、口を出す気はない」
「護りますよ」
「おまえがか」
「島にいる仲間たち全員が護る。仲間だからね」
 私は海を見た。相変わらず、竿はピクリとも動かない。
「裏返せば、おまえも仲間たちに護られているということだ。繭子はとくに、これからのおまえを護ろうとするかも知れん。会社は子供たちに譲ったが、俺などには想像も出来んような大金を持ち帰った。何かに全部使うつもりのようだ。これまでの三十年をそれで清算する。俺はそう感じた」
「金なら俺にも多少はある。だが、繭子の考えそうなことだ。仲間には馬鹿が揃っている」
「だから、金井もいまのところは知らんふりしているんだろう。馬鹿ってのは何となく憎めないからな。本来ならとっくにとっ捕まっている」
 見ると、五、六十メートル向こうの砂浜の中央で、金井がしゃがみ、砂を見つめていた。蟹の穴でも探しているような光景だった。隙だらけの姿だった。
「俺は釣りを楽しみに来たんだ。もう、帰ってくれ」
「何て言い草だ。自分の女の父親に向かって」
「繭子への恨みは消えたが、その親父への憎しみが消えたわけじゃない」
 源蔵は皺だらけの顔で苦笑して、
「殺されんうちに退散するか」
 そう言い、真顔になると、
「せっかく島に戻って来たんだ。好きにすればいい」
「俺の家にはいま、別れた女房が来ているよ」
「それとこれとは別だろう」
 そう言い残し、砂浜に降りた。私はなにごともなかったように、糸を吸い込んでいる、海面に視線を移した。
 
「後悔してないか」
「気にしないで。五十歳なのよ。何の取柄も才能もない、五十歳の女。後悔があるとすれば、この先無意味に歳を重ねることにだけ。だから、私のことは何一つ気にしなくていいわ」
 綾は日ごろの私を見ていて、敏感に何かを感じ取っているようだった。優子もそうだった。振り返るまでもなく、まだ若い由梨絵もさらに若い裕美も、私に何か得体の知れないものを感じ、怯えるよりもむしろ、その緊張感に期待し、愉しんでいるようだった。
「三十年、おまえは女として、地獄だけを見てきたようなものだ」
「いいじゃないの。それに、私にとってあの日々は決して地獄でなんかなかったのよ。女って現実的なの。本当に地獄だと感じたならば、私だってとっとと逃げ出してどこかに雲隠れしていたわよ」
「そう言われると、かえって響く」
 綾は笑い、
「私の場合、地獄だったのは、追い出された瞬間だった。あの一瞬だけは、たしかに地獄だったわね」
「あれからでも十年になる」
「そうね。もう五十歳だもの。そろそろ、お呼びがかかるかな、と思ってた」
 食卓にアイナメの刺身があった。鳴り砂の浜で、源蔵と金井の姿が見えなくなったころから当りが来て、立て続けにいい形が五尾あがった。それを刺身にしたものだった。私たちはビールを呑みながら、過去を振り返っていた。それは私にとって、明日への予言でもあった。綾はそのことにも気づいているようなのだ。
「俺が原因で、女が二人、死んだ」
「電話でもそう言ってたね」
「係わらなければ、それなりに幸せに過ごせたんだ」
「辛いわね」
 綾は唇を少し突き出し、うなずいた。
「敵討ちとは違うような気がする」
「気が済まないんでしょう」
「知らんふりだって出来ることだ」
「三十年も悔やんで、また真新しい悔やみを抱えたまま、明日からもずっと、そのことを悔やみ続けたくはないものね」
「いずれにしても、おまえには迷惑な話だ」
「そうかしら。男はしないでする後悔よりも、して悔やんだほうが恰好いいわよ。女もそう。何もしないでうだうだ後悔ばかりしている男なんて見たくないもの」
 綾は空になった私のグラスに、ビールを注いだ。
「太一たちは、町を改革することにより、全体をよくしようとしている」
「目的と手段は違っても、目指すことは同じじゃないかしら」
「結果はあきらかに違う。奴らが悪を根絶やし、町を改革すれば英雄だし、俺はおそらく、刑務所か死ぬかだ」
「でも、もう自分を止めることが出来ないのね」
「刑務所は厭だな」
「じゃぁ、死ぬってことかしら。逃げるって選択肢もあるけど」
「おまえはどうするんだ」
「最後まで付き合ってあげてもいいわよ」
 綾は不思議なほどに淡々としていた。
「もう母親も亡くなって、私は一人だから」
 知らなかった。父親は私と夫婦のころに亡くしていた。ため息が出る。綾の母親は私を鬼畜と罵った。その通りだった。詫びなければならない大事な一人だった。
「成し遂げても、すべてが虚しくなり、何もかも棄て去りたくなるかも知れない」
「いいわよ、それでも、きっちり付き合ってあげるわよ」
 私は綾の顔を、まじまじと見つめた。
「苦労、かけたな」
 綾は首を振り、
「選んだのは私よ。だから、いいの。それよりも、あなたから亡霊が消えたようなので、安心したわ」
 綾は笑った。
「やっと、自分に折り合いがつけられた。そんな感じがするよ」
 綾はかつて言っていた。あなたには亡霊が棲み付いていると。
 それを私が退治する。そうも言っていた。別れのとき、綾は唇を咬み絞めて、
「あなたが背負っている亡霊を退治出来なかったのが悔しい」
 と泣いていた。
 亡霊。その通りだった。忘れていれば、いまの私はおそらくなく、綾との間に子供を儲け、画に描いたような幸せな生活に浸りきっていたかも知れない。それが綾の夢だった。私は家で洗濯や掃除をしながら、夫を待つ生活をするのが夢。そう言っていた。
 三十年後のいま、綾は足を地につけずに浮遊し続ける私を、否定しようとはしなかった。淡々と、ありのままのいまの私を受け入れようとしている。
 男冥利。そうなのだろう。二人の女を死なせたと告白した。当然、深い関係にあったことは理解している。綾の深さ。大きさだ。
「でも、犬死だけは厭よ」
 綾は私を見つめて言う。うなずいた。沖に漁火が見えていた。綾は立ち上がり、窓辺に行き、沖のほうを見つめていた。顔は老けていたが、子供を生んでいないせいか、身体の線は崩れていなかった。島に来てから半月が経つ。私は一度も、綾を抱いていなかった。

 小康状態にあった大和田たちとの争いが、再び激しくなりはじめたのは、市長選挙をあと一ヶ月余り残すころになってからだった。同時期、大和田のホテルより多少規模は小さいが、過去に一世を風靡したホテルが極度の不振で傾き、太一を中心にした島の人々が権利を買い取り、町に乗り出した。繭子が買い取る殆んどの金を都合したとのことだった。それを太一は受けた。何度も断ったものの、私はもう仲間じゃないって言うの。まだ仲間でしょう。その一言に屈し、受け入れ、ホテルを手中にした。繭子は社長も同然だった。従業員付きの居抜きだった。太一が来て、支配人を引きうけろ、と言う。
 繭子が承知するか。
 あいつは手錬れの経営者だよ。おまえが引き受けると踏んで金を出したようなものだ。
 繭子が俺を使うのか。俺が繭子に使われるのか。
 口は出さない。少なくとも、おまえがやっている間は絶対に口は出さない。そう言っていた。
 乗った。俺の女ではない。仲間。そう割り切ることにした。大和田の息の根を止める。このホテル買取りにあたり、繭子は億の金を動かした。もっとも地団太を踏んだのは大和田だった。大和田も狙っていたのだ。巨額の買収資金。それを出せるのは自分しかいない。大和田はそう高をくくっていた。これも油断だった。繭子は都会で巨額の富を得た。それを大和田は知らない。ホテルの仕事なら出来そうな気がした。条件を一つだけ出す。綾だった。女将としてホテルに入れる。綾には繭子が実質的なオーナーであることは言わなかった。太一に異論はなかった。繭子も納得した。私は早速ホテルに入り、動きはじめた。どこまで切り崩せるか。一度傾いたホテルだった。エージェントに頭を下げて回る。それだけだった。綾はホテルははじめてだが、接客のプロだった。何十年も客商売を続けていたのだ。才能には天性のものがある。
 
 水族館建設工事も、順風満帆とは言えなかった。妨害は執拗を極めた。攻防。深谷が先頭に立っていた。表面に出るな。イメージを大事にしろ。ホテル業にカムバックした私に、極道が能書きを垂れる。笑い、従うことにした。
 このまま眠るのではない。ホテルという箱の中で待機する。私はいつでも、一歩を踏み出すつもりでいた。会合がある。町の業界の集まりに、方々のエージェントが招待される。午後二時。それは大和田のホテルで行われる。出席することにした。業界人としてだ。いくつもの眼がある。危害のおよぶ心配はまずないはずだった。直接足を運び、いま大和田のホテルが持つ力を測る。それは可能だった。辞めて十ヶ月経つ。フロントの顔も変わっていた。燻っている。第一印象ほど確かなものはない。女将がフロント前に立っていた。眼が合う。軽く会釈して通り過ぎるまで、女将は床を見つめたままだった。
 懐かしい顔が並んでいた。お出迎えだった。私の顔を見て一様に愕いている。私がライバルにあたるホテルの責任者として業界に復帰したことは知れ渡っている。動揺は手にとるようにわかった。
 十ヶ月間に、客を根付かせていない証なのだ。巻き返す好機だった。エレベーターに乗る。四階。エレベーター内に貼り付けてあるパネルが薄汚れていた。荒廃は想像以上のようだ。幸一の姿が見当たらない。大事な会合。現場にいるのだろうか。会場前に受付があり、会費を払って中に入る。予定人数の三分の二ぐらいはすでに来ていた。開始まで三十分だった。幸一は席に着いていて、私の姿を認めると、立ち上がり、近づいて来た。人相が激変していた。ホテル同様、顔も荒んでいた。
「復帰、おめでとうございます」
「ライバルになったな」
「というよりは、敵になりました」
「そうとも言える」
「狭い町に小さな旅館ならともかく、同規模のホテルは二つもいらないと思っています」
 挑戦的だった。
「俺もそう思ってた」
「今度、社長に任命されました」
「親父は会長か」
「はい。むろん、代表権は会長ですが、しかし、それでも社長はこの俺なのです」
「それはめでたいことだ」
「早坂さんの言ったことは覚えています」
「何だったかな」
「ホテルは従業員のものだと言われました」
 私はうなずいた。
「しかし、ご覧の通りです」
「これからのおまえ次第だな」
「戦いだと思っています」
「希むところだ」
「裕美も生きていれば喜んだと思います。あいつもあなたに係わらなければ、死ななかった」
 不意に脈絡のないことを言う。が、その通りではあった。しかし、係わった。それだけで殺される理由にはならない。生贄にされたのだ。私の足を止めるために。
「何が言いたい」
「力に逆らっては駄目だということです」
 キレかけた。人相の変わり様。理由はあきらかだ。自分に負けたのだ。
「その力とやらを見せてもらおうじゃないか。俺はあくまでも俺だ。仕事も何もかも」
「俺もそうします」
「どうやら、おまえの変節を認めて、大和田はおまえを社長に据えたようだな。逆らうことを忘れたおまえだからこそ、社長になれた」
 幸一が眦を吊り上げて立ち上がる。辛うじて怒りを抑えたようだ。
「今日はどうぞ、ごゆっくり」
「居心地がよくない。あちこちの手入れも最悪だ。早々に退散しよう。だが、来た甲斐はあった」
 私が煙草を銜えると、幸一は踵を返した。こうした会合は、ホテルマンにとって、情報収集の場となるのは当然だった。見渡す。接客しているのは、かつての部下ばかりだった。何とかこのホテルを支えているのも、古参のそうした社員がいるからだ。彼らは眼が合えば会釈してくる。幸一の眼があり、堂々と近づいて来る者はいなかった。が、帰り際、偶然を装い近づいて来た営業課長が、私に言った。
 呼んでください。私はうなずいた。大和田を潰す。まずはこのホテルを潰す。様々な事業に手を染めているが、ホテルは大和田のシンボルだった。従業員の能力は把握していた。必要に応じてハンティングするつもりだった。いまは全員が携帯電話を持っている。接触は簡単だった。通常ならルール違反だろう。だが、これは戦争だった。
 
 動いた。会合の折に接触してきた、大和田のホテルの営業課長嶋中を窓口にして、ホテル内の体制に不満を蓄積させている人数を把握した。四人。能力のある順から、現状に不満を抱いていた。狩ることにした。それにより、大和田のホテルはがらんどうになる。一人ずつだと手を回される。一気に出ろ。私は言った。日を決めた。
 十日後。了承し、私は飛んだ。エージェントとの足場固めだった。大和田はまだ気づいていない。私の動向を模様眺めしているのだろうか。これも大和田の傲慢さだった。長い年月、この町に君臨している。自分に逆らう者などいない。さらには個人の力など知れている。些細なことまで気にすることもあれば、自惚れから大きなことを見逃す。それは大和田が、参謀と呼べる人材を育てていなかったことによる弊害だった。
 自分だけしか信じない。そこには自ずと限界がある。深谷との争いが続く中、川藤も身動き出来ない状態にある。嶋中たちが来るまでに、私はエージェントと旧交を温め、現場復帰をアピールするつもりだった。各地のエージェントは歓迎してくれた。ホテル内のことはある意味、ホテルスタッフよりもエージェントのほうが精通しているところがあり、会ってすぐ、大和田のホテルに於ける数々の不手際を指摘された。
 唯、口頭ではあっても、契約に似た約束で送客しているので、一変にホテルを替えることは難しい。だが、大和田のホテルから、中心になっている営業マンが一度に四人抜けるとあっては、事情が違ってくる。エージェントも生活がかかっている。弱体化しているサービスが、四人の移籍によってさらにおろそかになるからだ。私はすでに出来上がっている四人の名刺を見せた。次からはこの名刺を持って彼らが来る。エージェントは、わかった、と応じた。
 再び業界に舞い戻った私だが、まだ、昔の顔があった。顔が生きている。私は一応の成果を確信し、町に戻った。
 市長選挙も近づいている。太一の立候補も鮮明になった。現市長は町の有力者たちを最大限に頼り、組織票固めに余念がない。太一ははっきりしていた。大和田たちと市長、それらと癒着する裏社会の現状をあからさまにし、真っ向から対立することを戦術としていた。
 中傷が飛び交っていた。ゾクゾクする。約束の日の午後、辞表を出した嶋中から連絡が入った。すぐに引き払い、私のホテルへと移動中とのことだった。待つ。十分後、四人揃って私の前にあらわれた。
「腹は括って来たんだろうな」
 私は四人を見据えた。緊張しているようだった。覚悟は決めている。それはわかった。大和田を熟知している。温室で育った木々のの葉が、突然外に出されて震えているようにも思えた。風雨を体験する。倒れる者もいれば、根をのばし、太く成長する者もいる。倒れた者は淘汰される。ついて来る者を護るだけだった。馬鹿ではない。大和田に反旗を翻したのだ。戻れない。戦い、生き残るしかないのだ。
「根回しはしておいた。おまえたちは早速、あちこちに飛んでもらう」
 四人はホッとしていた。町にいるかぎり、修羅場なのだ。出て営業に没頭する。四人にとっては町にいるよりは安心のはずだった。話はそれで終わった。そして、はじまった。退けば負ける。俺にこの先何があっても気にするな。何があってもホテルは存続するように手は打ってある。客を集めることだけを考えろ。企画はもちろん、すべての戦略戦術は、女将を通せ。私は最後にそう言った。
 綾はもう、何かを見つけているはずだった。四人は顔を見合わせた後に、うなずいた。
 
 深谷から電話があった。二、三日、仙台に行く、と言う。上層部で手打ちがありそうだ。珍しく、声が昂ぶっていた。
 ーーどうなるんだ。
 ーーわからん。
 ーー収まるのか。
 ーーそうなれば上はいいかも知れない。
 ーー胡散臭いな。
 ーー掛け合うつもりだ。
 ーー止せ。高村の二の舞になる。
 ーー立場が逆なら、俺が高村だった。
 ーー止せ。
 止める私を無視し、深谷は電話を切った。不安が過る。島へ行こう。太一と話し合う。表面的には平和になっても、巨悪はそのまま残る。私のような、小さな悪が滅びるだけなのだ。滅びるのはいい。しかし、拮抗する勢力が手を握ることにより、得するのは大和田たちだった。その後は闇に紛れて狩りがはじまる。おそらく、大和田が動いたのだ。市長選挙を控えてなりふり構わず動きはじめた。四人の引き抜きに動きを感じないのはそのせいなのだろう。腹は煮えくり返っているはずだった。しかし、これはチャンスとも言えた。大和田のホテルを潰す。俺は戦います。そう言った幸一の顔が蘇る。夕暮れて、私はホテルを出て、港に向かった。歩いた。路地に入る。前方から人影が近づいて来た。二人だった。背後に一人。殺気のようなものを感じた。人通りはない。川藤だった。
 私は身構えた。三人が間合いを詰めて来る。私は腰に手をやり、携帯を手探りした。短縮。太一に通じる。繋いだままにした。出れば声は聴こえるはずだった。相手を見据えた。川藤。私は名を呼んだ。携帯に太一が出たことに気づいていた。声は川藤にはむろん、太一にも聴こえたはずだった。それで充分だった。太一が私のいまを知る。
「久しぶりだな、チンピラ」
 私は大声で言う。二メートル。いきなり、靴先が眼の前を掠めた。拳が来る。蹴りをかわすのでいっぱいだった。顎を引いたが、川藤の手の甲が擦るようにヒットした。倒れる。と同時に眼が捉えた足を払った。相手が仰向けに倒れた。痛みは感じない。神経のすべてが相手の動きに集中していた。後方。振り向く。拳だった。肘で受けた。右を返す。掠っただけだった。左を出し、踏み込んだ。相手の拳が耳を掠る。構わず懐に飛び込んで膝を股間にめり込ませた。
 蹲る。靴先で顎を狙う。瞬間、背後から脇腹に衝撃を受けた。川藤だった。股間に膝を受けた男はまだ、のた打ち回っていた。一人は立ち上がり、体勢を整えていた。ナイフを手に持っていた。高村が持っていた匕首とは違い、チャチなものだった。
「素人が調子に載りすぎたな」
 川藤の眼が嗤っていた。光のない眼をしていた。近づく。股間を押さえてのた打ち回っていた男たちも、どうにか立ち上がる。まだ、肩で息をしていた。私もだ。川藤だけが平然としていた。
 まだ嗤っている。爬虫類のような印象だった。あるいは変質者のようでもあった。跳んだ。私は川藤の腰にタックルする。虚を衝かれ、川藤が藻掻く。勢いで押す。電車道だ。塀に突進した。川藤の背中が塀にぶち当たる。呻きながらも私の背中に肘を落としてくる。放さなかった。腰を抱えたまま、一度退く。再び塀に突進する。背中を打つ肘が弱くなる。身体を少し離す。二十センチ。飛び上がるように頭を突き上げた。充分だった。
 私の頭が川藤の顔面を捉えた。血が飛ぶ。川藤は鼻を押さえながら、背中を塀に激突させた。離れる。蹴り上げようとした瞬間だった。背中に激痛が走った。振り向く。近づいていた男の手にあるナイフが、赤く染まっていた。刺された。怖さはない。激痛のはずだった。いまは熱い。それだけだった。川藤がヒューヒュー息をしていた。私の疵は大したことはない。身体は動く。急所は外れているということだった。川藤を蹴り上げた。二度、三度。繰り返す。背後に気配を感じて振り向いた。距離三メートル。刺した男が愕いた顔をしていた。眼が合う、見据える。男が二、三歩、下がった。私は全体重をかけて、川藤に体当たりした。胸のあたりが硬かった。一度ボディに膝をめり込ませ、胸を探った。
 拳銃。はじめて恐怖を感じた。私を見縊っていたのだ。それが薄嗤いとなり、拳銃を抜かせなかった。川藤の傲慢さに私は救われていた。拳銃を手にしたのは私だった。川藤が呻いている。拳銃は玩具のようにも見えた。だが、玩具ではなかった。私はそれを握ると、ためらいもなく、川藤の頭に振り下ろした。膝から崩れ落ちていく。振り返る。私の手にある拳銃を眼にして、他の二人は全身を硬直させていた。
「退け」
 声と同時に二人は路を空けた。二、三、人影が近づいてくる。パトカーの音も聴こえた。二人はうろたえはじめる。チンピラなのだ。川藤は気絶したままだった。ポケットに拳銃を入れた。走った。大通りに出る。連絡船が見えた。航海灯が揺れていた。走る。間一髪だった。私が飛び乗るのと同時に船は岸壁を離れ、バウを沖に向けた。パトカーの点滅灯が見えた。大通りに停まり、警官が小走りに路地に向かう。私は見ていた。二人の男は川藤を引き摺ってでも、現場から遠ざかっているだろう。
 深く息を吸い込む。疵が疼いた。スターンに行き、上着を脱いだ。「大丈夫ですか」
 連絡船のクルーだった。うなずいた。二人いた。彼らは救急箱を持って来ると言い、引き返す。私は脱いだ上着のポケットを探る。拳銃。感触を確かめた。腰を探った。携帯電話。表示板のガラスに亀裂が入っていた。クルーが戻って来た。
「済まないな」
「いいえ。当然です」
 処置に馴れていた。殆んどが漁船員のOBだった。遠洋に出ていた男たちだ。疵や怪我には馴れている。手際がいい。
「これで一応大丈夫だとは思いますが、島の診療所に連絡を入れておきます」
「悪いな」
 手当てを受けて、気のせいか、痛みも和らいだ。その程度の疵なのだ。人の眼が気になった。
「この船にはーー」
「それも大丈夫です。町に通じてる奴らは島から一歩も出しません」
 川藤たちの口から、今日のことが伝わるはずはない。素人にプロ三人があしらわれたのだ。プライドだけは異常に高いだけに、口が裂けても言えることではない。唯、それだけに、私への復讐心に燃えてはいるだろう。
「あとは島の大将に連絡しときます」
「大げさなことはしないでくれ」
「それでは私の立場がありません」
「わかった」
 クルーは敬礼して去っていった。

 島が見えた。岸壁に近づく。太一が迎えに出ていた。降りる。
「携帯から様子がわかり、すぐ深谷に連絡したが間に合わなかったようだな」
「船に乗ったころには警察が来ていた。近づくことが出来なかったはずだ」
「綾ちゃんには連絡してある。診療所にも手配した。あの藪医者が家で待っているはずだ」
「大した疵じゃない。赤面するよ。それに刃物疵だ。公になるとーー」
「なりゃしない。あの藪医者も、島の人間だよ」
「藪医者に俺をあずけるのか」
「無類の女好きでどうしようもないが、医者としての腕はたつ」
 会ったことはなかった。病院などに縁はない。医者は島の人間だと言うが、実際は島に棲みついたということだ。島には私の知らない人物が数人、根付いている。金井もその1人だった。応急処置をした連絡船のクルーも、顔に覚えがなかった。年齢差があるだけに、時折しか島に戻らなかった私には、馴染みが薄いということだろう。
 下船する際にも、男女を問わず、無言のま、私を囲むようにして降りた。昔から不思議な島だった。私は太一の運転する車で、家に向かった。拳銃を奪った。私は言った。太一は、飾り物にでもしろ、と言った。綾が庭に出て待っていた。刺されたことは知っている。動じた様子はない。
「大丈夫のようね」
 一言言っただけだった。

 シャワーを浴びる。疵は気にならなかった。さすがに浴槽には入らなかった。待っていた医者は、シャワーを浴びる、と言った私に、何も言わなかった。白髪をクシャクシャにした老医師だった。痩せているが顔は赤らんでいる。端正な顔なのに印象は崩れていた。それでいて飄々としている。汗を流した後に疵を見て、心配ないと言う。脈打つごとに痛みが走ったが、私も心配はしていなかった。
 身体は動く。医師は化膿止めをくれただけだった。口数は少なかった。処置が終わるとさっさと帰った。車は軽トラックだった。
「ヤクザ三人とやり合うなんて、若いな、おまえは」
 太一が呆れていた。
「まかり間違えば殺されていたかも知れないのに、いくつになっても乱暴なのね」
 辛辣ではあったが、綾の口調に批難は感じられなかった。覚悟を知っている。そうなのだろう。
深谷にも心配かけたな」
「間に合わなかったと言ってた」
「奴も大変なのに、悪いことした」
「それにしても、運がいい」
 私はビールを口にした。
「おまえはいいのか。こんなところに長居して。いま、大忙しだろう」
 気になるのは選挙のことだ。
「俺は神輿に乗ってるだけだよ。スタッフがちゃんとしてる」
 投票日はもうすぐだった。双方が街頭に繰り出している。現職市長との一騎打ち。敵は古色蒼然としていた。金を使っている。どこまでも古い体質を貫いている。街頭にサクラを用意し、車列を組み、選挙カーが町中を走り回っていた。ウグイス嬢の数も夥しい。が、島には来なかった。町にすべてを賭けているようだ。
 太一も島は歩かなかった。磐石なのだ。町に討って出て、一歩も退かなかった。ウグイス嬢はいない。男たちが声を枯らし、あるいはとつとつと、町や島のこれからを訴え続けていた。聴衆は太一のほうが多かった。が、敵は露骨だった。太一に情婦がいると喧伝した。悪いか。太一が応酬した。それが受けた。港町なのだ。女のことでとやかく言う者は少ない。島の陣営には強姦魔がいるとも言っていた。私のことだ。被害者の名前を言え。一言に敵は言葉を失う。大和田夫人の名前など出せるはずもない。
 太一はもっぱら、癒着を説いた。現市長で町は豊かになったか。潤っているのはその市長自身と、市長を囲む苔の生えた者たちだけだ。太一は敢えて、市長の選挙カーの傍にクルマを停めて訴える。市長側が激怒する。本当のこと言われて、馬鹿どもが怒っている。太一は挑発する。拍手が起こる。優勢は誰の眼にもあきらかだった。小競り合い。警官が物々しく、路を行き来していた。眼は太一たちを見据えていた。犬なのだ。連日の鬩ぎ合いだった。
「もうすぐだな。いよいよ熾烈になる」
「選挙が終わっても戦いは終わらない」
「当選しそうだな」
「それはわからんが、もしそうなったら、大鉈をふるう。すぐに役所全体の人事を一新する」
「議会も半数以上は敵だろう」
「無理難題を押し付ける」
「通らなければ」
「そうなれば解散させる」
 苦笑した。
「俺の出す政策は、傀儡どもにとってはとんでもないものばかりだ。否決しようと躍起になる。だが、それも希むところだ。出直し解散だ。選挙でかなりの人数を立候補させ、悪党どもを根絶やしにする」
「奴ら、腰を抜かすほど慌てるぜ」
「次は警察の改革だな」
「それは難しい」
「金井のオヤジが協力する。ああ見えて、かなりの人なのだ」
 私はうなずいた。綾は口を挟まなかった。異次元の話を聴いているようなものだろう。微笑を浮かべたままだった。電話が鳴る。太一の携帯だった。私のは毀れていた。受けて電話を切った太一は、
深谷が来る」と言った。
「一人で、か」
「そのようだ」
 太一はすぐにまた、携帯を開き、番号をプッシュする。河口に行け。深谷を乗せて来い。相手は貞夫のようだった。電話を切り、
深谷も、殺された高村と同じような立場にある」太一は言った。
「手打ちに反対して邪魔にされはじめたか」
「そんなところだろう。島に引っ越すなんて、ピクニックにでも来るようにはしゃいでた」
 異論はない。心強い援軍だった。

 犬が哭く。近隣に犬を飼っている家が三軒ある。何かを察知して一匹が吼えると、連動して、しばらくは闇を引き裂くように吼え続ける。
「ごめんよ」
 声がして、綾が立つ。金井がのっそりと入って来た。犬の哭き声は、金井に反応してのものらしい。
「同類だとは思わないのかね」
 犬の哭き声のほうに顎をしゃくった。自転車で来たのだろうか。車の音は聴こえなかった。哭き声が止んだ。
「どうぞ」
 綾が上がるように勧めた。
「何か、ありましたか」
「いまのところは、ない」
 金井はお茶を啜った。
「が、そろそろ、ありそうだ」
「何がはじまるんでしょう」
「そろそろ選挙だ。仕掛けて来るとすればこのあたりじゃないのかな。好きな野球で言えば、ツーアウト、ランナーなし。バッターカウント、ワン、ツーといったところだろう。それでもいまのところ、多少リードされている」
「相当、町のあちこちを締め付けて廻っているらしいですね」
 金井はうなずいた。
「狙うとすれば、ホームランしかない。しかも、絶対に打ってもらわなければならん」
「候補者である太一が狙われる可能性があるってことですか」
「本人を遊説中に狙うのは、いくら町でも難しい。しかも普段は島にいる。島で狙うのはもっと難しい。だが、候補者自身を狙わなくても、その候補者がかなり堪えるような相手を物色して仕掛けてくる可能性はある。--ところで」
 金井は煙草を銜え、私に火を催促すると、
深谷に破門状が出た」
「そうらしいですね」
「と、なると、町の深谷の組は誰がーー」
「まさか、敵対組織である川藤、ですか」
「川藤、が」
 それまで無言を通していた太一もさすがに愕いたようだった。
「魑魅魍魎だよ、ヤクザの世界は。しかし、事実だ。上層部で手打ちがあり、どういう経緯かまだ掴みきれていないが、町のふたつの組織が統合され、高村が死に、深谷が破門になったいま、川藤だということだ」
「ヤクザも流行の合併に乗り遅れないようにするってことか」
「こうなってみると、最初から仕組まれた絵図だとも思える」
 太一が腕を組む。
「そうかも知れん。いまわしら中央が調査している。ふたつが一つになったということは、深谷の上の組織が、川藤の親筋に吸収されることを意味する。この町の小さな組織が目的ではない。わしらの最終標的は、仙台の総本家でもあり、東京の広域だよ」
「もちろん、大和田も絡んでいるんだろうな」
 私が言うと、
「わしの懸念もそこにある」
 朴訥とした口調だったが、眼は耀いていた。有事が好物のような眼をしている。
深谷が危ないな」
 時計を見た。電話から一時間が過ぎている。金井が太一を見据えた。太一は掻い摘み、深谷が島に来ることを説明した。
「診療所の藪医者に、まだ寝るなと言っておこう」
 金井はポケットから携帯を出した。金井と携帯電話。不似合いだった。私は不謹慎にもそんなことを思っていた。相手が出たようだ。金井は手短に用件を伝えた。
「殺されないかぎりあの藪医者が何とかしてくれるはずだ。風邪や腹痛と年寄りの患者ばかりで、退屈な島だと嘆いているから、怪我人を運ぶとやたらとはしゃぐ変な医者だ」
 金井はすでに、深谷は襲われていると確信しているようだった。それでいて、動こうともしない。水面下では動いている、ということなのだろうか。太一が携帯を出し、番号をプッシュする。出ない。顔を見合わせた。
「行こう」
 私は立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
 金井ものっそりと立ち上がる。
「河口まで。ウチの若いのも行っている」
 太一が応えた。
「貞夫くんか。わかった。それで、島の人たちにはどうするんだ」
「まだ、いいでしょう」
 金井はうなずいた。
「生きていればしめたものだ。踏み込める。どれ、わしもそろそろ動くか」
 三人が同時に家を出た。金井はやはり、自転車で来ていた。再び犬が吼えはじめる。金井は一瞬迷い、自転車を庭に置くと、太一のクルマに乗り込んで来た。気をつけて、と送り出す綾は落ち着いていた。車中。三人がそれぞれに思案していた。港に着いた。
「感心出来ない成り行きだな」
 吐き棄てるように金井は言った。私たちは無言だった。
「わしはこれでもれっきとした現職の警官だ。知っていながら見て見ぬフリをして来た」
「泳がせておき、タイミングを狙っていただけでしょう。いっぺんに投網しようと思って」
「そうだとしても、公になれば立場がない」
 そう言いながら、金井は気にもしていないようだった。
「馘になったら島でゆっくり爺いで過ごし、毎日釣りでもしていればいい」
「そんな余生も悪くない」
 私たちが苦笑すると、
「まぁ、これまでとは多少は違うことをしよう。最初で最後のチャンスかも知れん。深谷だけならまだしも、今回は貞夫という堅気が被害を受けているかも知れん。だから、二人とも無事でいてほしい。そうでないと証言も得られない。生きている。それが突破口になる。欲深い悪党どもの首っ玉を掴むことが出来る」
 私たちは尚も黙ったままだった。
「島での平和な生活に浸りきり、腑抜けになっているのかと思えば、なかなか喰えん爺さんだ」
 太一の棘にも金井は怯まなかった。
「いまは島の人間ではないってことだな。腕のたつ警察官の顔になっている」
 私ははじめて口を開いた。
「そうかな。しかし、いまは島の人間云々に拘っている場合ではない。わしはこれでも、一人の善良な市民でもあるのだよ。平和を希むことにかけては誰にも負けん」
「それにしちゃ、見て見ぬフリが多すぎた。もっとも、そのお陰でこっちも救われているんだが」
 金井が私を見据える。
「大和田たちのような奴らに対して、あんたたちのように島の人間の力は、大きな抑止力になる」
「だから、見ないことにしていたんですね」
 太一が言うと、
「間違っていたかも知れん。最初から根こそぎ捕まえておけば、もう片付いていたかも知れない」
「法の目を巧みにすり抜けて力を蓄えて来た奴らだ。楯突く俺たちのような者がいなければ警察に捕まるように尻尾は出さない。正しかったですよ。金井さんは」
 金井は唇だけで笑い、
「中央が本気になっている。町で一つに統合された組も、仙台が本家だが、その総本家というのが東京にある広域暴力団だ。滅多にないチャンスだからな。県警と協力して一網打尽にしようとしている。むろん、腐ったこの町の署もその対象だ。しかし、ということは、これからは俺一人が見て見ぬフリしたってどうしようもないということだ。あんたたちに対しても、だからこれまでのようにはいかん。法に触れれば逮捕もあり得る」
 私たちはうなずくだけだった。金井とは港でわかれた。車を降りると、太一の連絡により、若い者たちが、モーターボートをスタンバイさせていた。バートラム。古い型だが金力のない者には持てない代物だ。太一は私を促し、自転車にでも乗るように、ボートに飛び乗った。
「さて、連絡はしたし、わしは診療所にいる」
 金井が戻って来て叫んだ。
「何かがあったと決まったわけじゃない」
「たしかにそうだ。しかし、万が一ということもある。わしは診療所に行く。車を貸してくれ」
「勝手な爺さんだ」
 太一が車のキィを渡した。離岸する。直後、バートラムはバウを町に向け、一気に加速した。

 見えた。高速船外機をスターンにつけたボート。サーチライトで照らした。光線の中に浮かび上がる。二人。一人が坐り込み、横たわる1人を抱いているように見えた。貞夫。太一が短く叫んだ。急げ。太一は叫んだ。疵を負っているのは貞夫のようだ。私の眼では確認出来なかった。ずっと島にいる太一の眼だからこそ捉えられる。近づいた。横たわっているのは貞夫だった。抱いている深谷が振り向いた。眼がライトを反射した。気力は衰えていないようだった。貞夫に動きがない。深谷が二、三度、首を振る。
 死んだのか。殺されたのか。太一はつぶやくように言った。携帯は毀れて連絡出来なかった。深谷は言った。金井に電話を入れた。ボートから二人をバートラムに引き上げた。全速で島の港に向かった。金井はすでに来ていて、投げたロープを受け取り舫った。深谷も自力では動けないようだった。腹部に血が染みている。深谷はそれを気にする様子もなかった。貞夫を抱いたまま、その貞夫の顔を見つめたままだった。私たちは無言のま、二人を島に上げ、診療所に向かった。
 
「話を聴きたい」
 金井は言った。医師による応急処置はした。深谷は腹部を刺されていたが、命に別状はない、とのことだった。大丈夫だ。深谷は言った。疵よりも、貞夫の死が深谷の疵となり、膿んでいるようだった。
 金井が質問をはじめた。私と太一は場を動かなかった。金井も場を外せ、とは言わなかった。
「殺ったのは誰だ」
「破門になったとはいえ、俺は極道だ」
「問われたことに応えろ」
「決着は俺自身がつける」
「極道同士ならそれもいい。しかし、善良な市民が死んでるんだ。それもおまえを迎えに行っただけなのに。巻き添えだ。おまえには応える義務がある。極道と言うなら尚、応えなければならない」
 痛いところを突いている。気性を熟知しているということだ。深谷は唇を咬んでいた。
「殺人事件だ。本部に連絡しなければならない」
「町の署か」
 太一が口を挟んだ。
「何かが起こったとき、町の警察に一切をあずける。早くそうありたいものだ。そうしなければならないと思い、わしたちが特命をあずかり、動いている」
 深谷は私と太一の顔を見た。うなずいた。決心したようだった。
「川藤だ。他に十人はいた」
「一つになったようだが」
「俺のところの若い者は一人もいない。一つになったとはいっても、川藤のところだけになったということだ。俺のところのは俺が育てた者ばかりだ。本家とは関係ない」
「解散したということか」
「ああ。俺が持っている金の殆んどは奴らに分けた」
「おまえらしい」
「俺が不甲斐なかった。そのため若い者を路頭に迷わせることになった」
「わかった。川藤だな。必ず挙げてやる。根絶やしにしてやる」
「逃げてほしいぜ」
「余計なことは考えるな。報復など時代遅れも甚だしい。まかせろ」
「金井さんよぅ、俺ぁ、もうとことんキレてんだよ。貞夫が殺されたんだぜ。堅気の貞夫がよぅ」
 深谷が泣いていた。
「わしはキレっ放しだ。早坂も太一も同じだろう。歳取って薄汚く変わったものがはっきり見えて、それをきれいにしようと思えば自然にキレる。キレるってことは、時には周囲を浄化するものだ。だが、仕返しでキレてはいかん。それでは益々、この島周辺が汚れるばかりだ」
「俺には難しいことはわからねぇ」
「疵を治すことだ。おまえは被害者なんだ。はじめてだろう、被害者は」
「俺は堅気を被害者にしたことはねえ」
「だから、わしはおまえを嫌いじゃない」
「旦那に好かれちゃ、極道としてはお仕舞いだな」
「そうあってもらいたいものだ」
 深谷は眼を瞑り、済まない、と言った。貞夫に向けたものだろう。太一は一点を見つめたままだった。横顔が厳しかった。
「何としても勝たなければならない。貞夫の弔い合戦だ。勝たなきゃ、貞夫が浮かばれない」
 太一は震える声で、そう言った。

 金井たちが川藤の組事務所を包囲し、札を持って入ったのは、翌日の早朝だった。と同時に、五十人ほどの別働隊が町の警察署を囲み、町は騒然とした。川藤の棲むマンションにも警官隊が押し寄せた。しかし、川藤は忽然と消えていた。
 理由は簡単だ。私がリークしたからだ。私は再び、静かに、だが、完璧にキレていた。もとはといえば、私が発端だった。ここで島に隠れていたのでは、私ではなくなる。大掛かりな捜査の陰に隠れて、私は自由に動けた。川藤は消えたが、事務所や町に散る殆んどの組員が逮捕された。金井はこれを機に、一気に仙台の本家はもとより、東京の総本家まで捜査の手をのぱそうとしているようだった。
 唯、すべてを知る川藤が消えている。私は動きはじめた。町近郊にはいるはずだった。勘でしかない。川藤にとって安全な場所を考えた。敵に近く、誰もが考えないところ。それは島しかなかった。潜り込めば、胃を満たすことが出来さえすれば、最高の隠れ家となる。狙うべき相手もいる。
 私と太一。それに深谷。勘が確信に変わった。電話した。ホテルにだ。仕事は順調だった。引き抜いた四人は力を発揮していた。そのぶん、大和田のホテルの凋落が著しい。過当競争なのだ。一方が上がれば一方が落ちる。小さな市場の宿命だった。
 しばらくは任せる。綾に告げた。愉しいわ、と綾は応じた。
 ここまで来たんだもの。全うするのね。
 ああ。
 付き合うわよ。腐れ縁だもの。
 そんなつもりではなかった。
 変なこと言わないで。私をメチャクチャにしたんだから、責任だけは取ってもらうわよ。だから、地獄へ行くつもりなら誘いなさい。どこまでも付き合ってあげるから。
 やはり、おまえが最後の女だ。
 そうよ。もうおまえには役不足だなんて言わせない。
 受話器を通して、二人で笑った。電話を切り、私は島を歩くことにした。診療所に深谷を見舞う目的もある。
 
 葉山に訪ね、剣崎近くのホテルで逢って以来、繭子と逢うのははじめてだった。繭子の資金でホテルを買収し、そこの全権支配人になっても、私はまだ、繭子とは会っていなかった。気にはしていた。その繭子の実家がもうすぐの距離だった。島を一回りしようと、車で南に向かった。途中、とてもよく似た後姿を見て、私は追い越してすぐ、車を停めた。やはり繭子だった。顔を認め、繭子は照れ臭そうに笑った。そこには妖艶さなどなかった。島という背景が、繭子の汚れのようなものを払拭したかのようだった。
「送るよ」
 乗って来る。繭子の家までは二、三分の距離だった。実家の近くに家を建てた。そう聴いていた。近づくと、なるほど、余り大きくはないが、瀟洒な家がある。私はそこを通り過ぎ、繭子の実家の庭に車で入って行った。
「少し、寄って」
 従うことにした。邪な気持ちは生まれなかった。実家にも昔の面影はなかった。建て替えられていた。庭に源蔵がいた。植木をいじっている。意外に似合う。近づいて来る。
「喧嘩、しないでね」
 繭子が微笑んだ。
「野蛮な噂が聴こえてくる。もっとも、時には必要な荒っぽさというものもあるにはあるが」
 源蔵は誰に言うともなくそう言った。コスモスが咲いていた。源蔵と花の組み合わせがおかしかった。私が無言でいると、源蔵は下唇を突き出し、
「繭子を攫いにでも来たのか」と言った。
 吹き出しそうになる。
「私が本当の始まりだと悟った瞬間、この人は私を終わったらしいの」
 本当の始まり。そんなことはない。私の中では三十年、継続していたことだった。引き摺っていた。棄てられた、とは感じても、私には別れた、という意識は微塵もなかった。三十年間、私は繭子にとって、路傍の石だったのだ。いまになり、石を手のひらの中に包もうとする。しかし、私ははじめて、繭子との決着をつけられたのだ。
「中に入って」
 うなずいた。源蔵以外、家族の姿は見えなかった。
「もう、邪魔はせんよ」
 源蔵は言う。邪魔をしてほしかった。いまはあの夏の日ではないのだ。何時間二人きりでいようと、私はもう、繭子に燃えない。単に女としてなら滾るだろう。それが、三十年を費やして、繭子が創り上げた、いまの、私なのだ。
 お茶を呑む。ホテルのことは話題にしなかった。葉山では見えないものが見えた。微かに老いも見た。この季節のように、繭子もいま、秋の終わりにいるのだろうか。
 寂しかったのだ。そこにおまえがいた。それだけだ。三十年前、仲間の一人だった男からの手紙に、繭子の心情を書いた記述があった。いまもそうなのか。富を得て、しかし、人としての終わりに差し掛かり、その寂寥感が私を再び求めている。そうも考えられた。けれど、いまの私は昔とは違う。逢い、一度抱き、吹っ切れたのだ。秋の終わりごろかも知れないとは知りつつ、最早、繭子には仲間としての姿しか思い描くことが出来なかった。繭子はまだ、いい。綾はずっと、冬だった。
「昨日、行って来たわ」
 意味が理解出来なかった。
「忘れているのかしら。命日でしょう。昨日」
 忘れていた。都会を出て田舎に戻り、いまは島に棲みながら、私は母親の命日を忘れていた。
「そうか」
「お墓、綺麗になってた」
 不意に母親の死んだ日が蘇る。快晴だった。土葬。坐らせて納棺する。ボキッ、ボキッ。母の膝を折り、棺の中に坐らせる音が、空にまで響き渡るような気がした。その光景が鮮烈だった。
「よく、覚えていたな」
「あなたの顔よりもずっと鮮明に」
「剣崎では俺のことを忘れたことはなかったと言っていた」
「だって、ムードってそうやってつくるものでしょう」
 思わず苦笑した。
「嬉しいよ。ありがとう」
「厭だわ。言ったでしょう。私はいま、始まったばかりだと」
「困らせないでほしい。俺はいま、重いのを一人背負っている」
「綾さんのことね」
 愕いた。知らないはずだった。
「情報って、入るものなのよ」
 言葉を探した。
「私も一緒に背負ってもいい」
「再び、苦しめることになる」
「そうか……、そうよね」
 繭子は遠くを見るような眼差しになる。
「私、これからどうすればいいのかしら」
「葉山に戻って男を漁って優雅に暮らしていればいい」
「会社は子供たちに譲ったの。それに、この島に家も建てたのよ」
「それならのんびりと島で余生を過ごすことだ。もっとも、ホテルはおまえの手腕にかかるかも知れないが」
「綾さんが優秀だから、私は単に、出資者でいい。余生か……。私のことだから、普通の余生というわけにもいかないわね」
「そこまでは立ち入らないよ。太一も何か考えているかも知れない。みんな、おまえの力は認めているからな。もし太一が市長になったら、おまえを民間人起用ってことで、活用しようとするかも知れない」
「面白そう。でも、私は私なりには考えているの」
 私は立ち上がった。これ以上は堪えられなかった。比重を綾に置く。決めたことだった。繭子は庭まで見送った。源蔵は消えていた。
 
 ホテルに顔を出したのは、一週間ぶりだった。支配人室に入り、書類に眼を通す。業績は悪くなかった。
 四人、大和田のホテルから営業マンを引き抜いてから、急激にグラフがのびていた。受け入れに回り、館内を仕切っている綾の功績も見逃せなかった。その綾が入って来た。トレンチにコーヒーを乗せていた。
「一昨日、あなたが出かけて留守のとき、1人で墓参りに行って来たのよ」
 貞夫の葬式やら何やらと、ずっと飛び回っていた。
「そうか。忘れていたよ」
 綾は微笑み、
「綺麗な女の人が手を合わせていたわよ」
 繭子に違いない。綾は平然としていた。辛うじて平静でいられた。
「ほう……、誰だろう。墓でも間違えたかな」
「馬鹿ね。繭子さんでしょう」
「三十年も前のことだ」
「ムキになってる」
「そんなことはない。からかうな」
「私たち、名乗りあったの」
 繭子はそのことについては、一言も触れなかった。
「直感ね。お互いに理解した」
 私は煙草に火を点けた。
「ごめんなさいって言ってた」
「それで」
「私、どうぞ、って言った」
 ちぐはぐな会話のよう気がする。が、二人には通じたのだろう。
「あなた、眼が高いわね」
「そんなことはない。そのせいでおまえにも苦労をかけた」
「あら、あなたらしくないこと言うのね。もっと威張っててもいいのに」
「変わったことはなかったか」
 私は話題を変えた。終わったのだ。少なくとも、私には終わった。綾もそれ以上は言わなかった。
「二つ三つーー」
「何だ」
「単なる嫌がらせ。柄の悪いのがロビーをうろついてた」
「それでどうした」
「その都度追い返す。当然でしょう」
「大したものだ」
「川崎にいたのよ、私は。あの程度なら屁でもないわよ」
 私は心底から笑った。川崎では大衆磯料理店に働いていた。毎日が修羅場だった。店主は闇屋あがりのオヤジだった。背中に刺し疵が三つある。街には無数に極道の組織があった。それらが店に押し寄せる。毎晩、蜂の巣を突っ突いたように混み合っていた。客も様々だった。議員もいれば医者もいる。弁護士、ホワイトカラー、それに名物のホームレスもいて、その合間にキャバレーのホステスたちが出勤前に下地をつくっていた。店の一角を極道たちが占めていた。金バッジもいればチンピラもいる。彼ら全員がオヤジに怯えていた。いや、畏敬していたのだ。奴らが若いころ、面倒をみた。それらが極道としてのし上がってきた。店主はそう言っていた。
 だが、トラブルは絶えなかった。酒のせいだ。ビール瓶が割られる。破片が飛び散る。怒号。店主の声だった。双方の胸ぐらを掴む。てめぇら、どこで呑んでそんなことしてるんだ。一喝に極道たちがたじろぐ。私はいつも、真っ只中にいた。店主はオヤジだった。ガードする。堅気もヤクザもなかった。世話になっているオヤジを護る。当然だった。大和田のようなオヤジではなかった。怪我をする。おまえはどいてろ。オヤジが私を見据える。怯まなかった。その繰り返しの中で一年が過ぎ、私には店内での極道同士の喧嘩は、見馴れた光景になっていた。綾もそこにいた。平然としていた。オヤジが留守のとき、すべてを女将と私と綾とで対処した。手に負えない暴れん坊を静かにさせるのは私の仕事だった。何度も客を撲った。時代がそれを赦した。仕事と割り切った。キレていたのではない。それが仕事だったのだ。もう、だいぶ前の過去だった。私は煙草を消した。
「太一さんたちの集まりがあるわ」
 知っていた。選挙はもうすぐなのだ。町は色分けされていた。太一陣営は私のホテルを使った。敵は大和田のホテルだ。町は相変わらず閑散としていた。少し前の川藤の組事務所のガサ入れ。金井たちに囲まれた町の警察署。そして選挙。町全体が憂慮し、一部が浮き足立っていた。その中で、大和田だけは健在だった。さらに息のかかった者たちに対し、締め付けを厳しくしているようだった。
 力は依然、巨大だ。色分けされ、明日からの生活に響くことを嫌う人々の数は多かった。片田舎の特色だった。長いものには逆らわない。田舎なりの処世術なのだ。
 電話があった。深谷からだった。退院した。太一の家に世話になる。そう言った。島で会おう。私は言った。
「私も島へ行こうかな」
 綾は言う。二、三日、ホテルに泊まりこんでいた。断った。いまが大事なときなのだ。
 ホテルを見ていてほしい。そう言った。大事なのは集客ではない。訪れた客をいかにリピーターにするかだった。ソフト面が重要なのだ。綾そのものがソフトだった。綾はうなずきながらも、
「何もないときはいいの。でも、何かが勃ったときにはすぐに、必ず私にだけは報せてほしいの。もし報せなければ、あなたはまた、この私を裏切るってことなのよ」
 それには敢えて応えなかった。裏切ることになる。抉られた。私は振り向かなかった。
 支配人室を出る。タクシーを呼んで町に出た。夕暮れていた。穏やかな光景が拡がっている。景色が静止していた。船に乗る。島に向かった。着き、太一の家に寄る。深谷がいた。二人を誘って、家に向かった。
「迷惑をかけた」
 卓上にはビールとホヤがあるだけだった。ホヤは夏が旬だが、年中喰うためにつねに冷凍してある。まだ完全には溶けず、表面がシャリシャリしていた。深谷が詫びた。まだ疵は完治してはいないだろう。
「貞夫を死なせてしまった」
 深谷の口調が重かった。
「迷惑かけついでに、俺も島で暮らすことにした。町ではいまのところ無理だし、悪いがこの島を拠点にして、俺なりの決着をつけようと思う」
 異論はない。止せ、と言ってもじっとしている相手ではない。私も太一もそうだった。
「何をする気だ」
 私は言った。
「多少の金はある。まずは釣り船でもするか。漁をする腕はない。しかし、それはあくまでも表向き。のうのうと暮らしていたのでは、貞夫に顔向けが出来ない」
「何とかなるさ」
 貞夫云々には触れなかった。ビールを勧めた。深谷は呑もうとしなかった。
「釣り船をするにもすぐには出来ないな」
 深谷はうなずいた。
「太一の選挙でも手伝うか」
「馬鹿言うな。俺がそんなことしたら、間違いなく落ちる。町の奴らは俺のことを知っている。ヤクザが市長選を手伝ったら、それだけで週刊誌やテレビが飛びつく」
「冗談だよ」
「真面目な顔で冗談なんか言うな」
 深谷だけが笑わなかった。
「ヤクザだな、おまえ」
「そうだ。一朝一夕に抜けるものか」
 見えてくる。深谷も川藤を狙うつもりなのだ。
「焦るな」
 私の一言に、深谷はうなずいた。
「大丈夫だ。まずは疵を癒す」
「俺だけのけ者にするな」
 私と深谷だけの会話に、太一が気色ばむ。
「候補者らしくないことを言う奴だ。おまえは選挙のことだけ考えてりゃいいんだ」
「笑わせるな。俺はたとえ受かっても、大和田のような奴はこの手でぶっ飛ばす」
 私も深谷も笑った。久しぶりに声を出して笑ったような気がした。三人とも、ビールは余り呑まなかった。
「勝つ。勝たなきゃならない」
 太一の眼が一点を見据えた。
深谷じゃないが、貞夫の死に報いるためにも勝たなきゃならない」
 それにはうなずいた。由梨絵、裕美。二人とも殺された。優子は輪姦され、ボロボロになった。
 平然としているようには見えたが、あれで優子のどこかが毀された。川崎に戻ってからだいぶ経つ。連絡は一度もない。事が済んだら、真っ先に会わなければ、とは思っていた。高村も殺された。敵ではあるが、深谷と共通した魅力があった。犠牲者が多すぎた。選挙や水族館建設に係わったからではない。すべて、私に係わったからだ。潮騒が聴こえた。海まで二キロある。音はいつもより大きかった。風向きのせいだろう。家の周囲は静かなものだった。犬が哭く。ヘッドライトが窓を照らした。車が停まり、姿をあらわしたのは、金井だった。金井がパトカーで来たのははじめてだった。
「悪党たちが三人集まって、何か企んでいるようだな」
 私は金井のスペースをつくった。上がってくる。
「逮捕した下っ端は何も知らないようだ。川藤の指示通りに動いているの一点張りだ」
 下っ端が何も知らない、というのは嘘であり、本当だろう。川藤は潜ったままなのだ。
深谷が島で暮らすことになった」太一が言う。
「いいことだ。足を洗ったとは思っていないが、きっかけにはなるかも知れん」
「こいつが堅気になろうとなるまいと、俺には大した問題ではない」
 金井はそう言う太一に苦笑し、
「とんでもないことを言う市長候補だ。いいのかい、そんなこと言って。選挙まであと少しだ。是非勝ってもらわなければ困るんだ」
「負けようとは思っていませんよ」
「妨害はあるか」
「普通には。想定内というところかな」
「ま、仕返しもきちっとしてることだし」
「そうはっきりと、してるとは言えないね」
「多少のことは眼を瞑る」
「何て警官だ」
「町の警察はもう、手出しは出来ん」
「囲んでいましたね」
「トップの首を挿げ替えた。臭い奴らは全員、あちこちに飛ばした」
 金井は愉しそうだった。私は愉しくはなかった。赦せない。その気持ちは不変だった。目的は一つだ。
 悪を追放する。そんな高尚なものではない。私に係わった者たちを葬った奴らを赦せない。それだけだった。大きな仕事は太一たちに任せればいい。私はもう、報復することに夢中なのだ。キレた、とも違う。そこは超越していた。葬られるべきはこの私だったのだ。それが私だけ生きている。それが怒りの源だった。金井が私を見つめ、
「怖い眼をしている」と言った。
「中年が思いつめた顔をすると怖い」
 そう続けた金井に、誰も笑おうとはしなかった。私の気持ちは深谷と近いかも知れない。金井が立ち上がり、
「早く落着して、この島で平和な朝を迎えたいものだ」そう言った。独りごちに近かった。見送らなかった。

 涼しい、というよりは、だいぶ肌寒くなってきた。選挙が二日後に迫っていた。町に向かう。ナイフを懐にしのばせていた。拳銃は家に置いてある。ホテルに顔を出し、綾に会う。そろそろ島に行くか。綾は嬉しそうな顔をした。
 一晩か二晩、一緒に過ごす。すでに覚悟は決めていた。その晩、私は別れてからはじめて、綾を抱いた。綾の眼に浮いた泪を舌で掬った。睫が震えていた。三十年。私につくられた顔が真下にある。堪え抜いた顔だった。
 いまが青春。綾がつぶやいた。ずっと張り詰めたままだったのだ。それはいまも変わらない。
 だが、違う。同じように張り詰めていても、充実感がある。綾はそう言う。さらに言う。一緒に歩いているから。それを実感出来るから。いまは私を拒絶しようとしないから。
 沈黙する。安らぎが訪れる。肩を抱いた。やわらかく、温かい。触れているだけで、眠りそうになる。夢の中に浮遊しているように感じる。
 眼を開けた。由梨絵、裕美、そして毀れた優子の顔が蘇る。仇を討つ。それが終えないかぎり、消えそうもなかった。いや、たとえ遂行しても、生きているかぎり、背負うのだろう。係わりが招いたことなのだ。キレた私の不始末だ。余りにも重い。文字を消しゴムで消すようにはいかない。
「しばらく、家から出るな」
 私は言った。
「厭。私はホテルに行って仕事する。もう年齢的にも最後の仕事場だもの。私なりにいまを全うしたい。仕事が出来なくなる、その時まで」
 --その時ーー
 一言が私を刺す。近いのだ。川藤の顔が浮かぶ。島に潜伏している。情報も得た。山狩りはしなかった。1人で対峙する。そう決めていた。
 翌朝、綾はホテルに向かった。私は浜に出た。釣りも最後になるだろう。砂浜に立ち、沖を見る。凪ぎていた。竿を担ぎ、岩伝いに移動した。ふのりや岩海苔に、何度も足を取られた。子供のころ、毎日のように行き来していたところだった。はじめてでは絶対に渡れない。何十年も経つのに、足先が岩肌を覚えていた。昔足場にした箇所を、足が探っていた。
 蘇る。群れて岩を渡った。ガキ大将だった。砂に塗れて遊んだ。鳴り砂の浜だった。眼を瞑り、当時に立つ。二百メートルぐらいの三日月状の浜だった。歩いた。繭子の父、源蔵と遇った場所に行くつもりだった。浜の真ん中まで進んだ。人が見えた。浜の向こう端に立っていた。一人だ。近づいた。三十メートル。川藤だった。人相が変わっていた。オールバックに撫でつけていた髪が、崩れていた。荒んでいた。さらに近づく。何かが光った。見つめた。川藤はすでに、匕首を手にしていた。
「待ってたぜ」
 声が震えているようだった。この浜の近くに潜んでいたのだろうか。狡猾な眼をしていたが、高村と向き合ったときのような威圧感はなかった。拳で勝負するようなタイプではない。計算と強かさでのし上がって来ただけだ。負ける気はしなかった。匕首だけが厄介だった。私も持っている。だが、使おうとは思わなかった。お守りみたいなもの、でしかない。
「よく、ここがわかったな」
「おまえのことは調べ尽くした。行動範囲やその癖もな。家か仲間のところかホテルか、あとはたまに釣りをしにこの浜に来る。馬鹿みたいに単純な動きしかしていない」
「それで、今日はここに来ると思っていたのか」
「偶然だよ。家がこの浜に近いのは知っていた。俺は高村のように山越えするほど馬鹿ではない。この浜は人が寄りつかないところだし、上陸するには楽なところだ」
「探す手間が省けたな。そっちから出て来るとは」
 宿命だろう。ふと釣りでもしようと思った。そこで遇う。宿命が偶然をつくり上げたのだ。まずはじめに報復しなければならない相手だった。直接手を下した張本人なのだ。刃が上に向けられていた。陽を照り返す。周囲が見えた。川藤から眼を逸らしたのではない。それでも周囲がよく見えた。小さな岬の陰から、船が尻を押されたようにポンと飛び出し、沖へ向かっていく。浜から然程遠くない海面に、小舟が浮かび、漁師が海中に顔を突っ込んで漁をしていた。見ながら、私は釣竿のリールストッパーを外した。近づいてくる。走る。猪のように突進してくる。私の足先が砂に潜る。川藤の動きが止まった。以前、土を喰っている。記憶しているようだ。川藤が少しずつ退りはじめた。その姿が魚に見えた。瞬間、私は川藤をめがけて竿を撓らせた。鉛が一直線に飛ぶ。川藤が左へ避けた。と同時に私はストッパーをかけた。釣針が川藤の首の後ろに突き刺さり、肉にめり込んでいた。引く。リールを巻く。ためらわなかった。川藤がたまらず前に倒れる。焦っている。匕首で糸を切ることにも頭が回っていない。私はさらにリールを巻く。川藤が藻掻いていた。はじめて手に持つ刃物に気づいたように、川藤は糸に刃先を当てようとした。私の足のほうが速かった。手首を蹴る。匕首が跳び、砂に突き刺さる。竿を棄て、左手で糸を手繰り、近づいた。遊ぶつもりはなかった。見ると、釣針は首の真後ろに深く喰い込み、川藤はそれだけで闘争心を失っているようだった。蹴る。凄まじい憎悪が湧いた。この程度の男に、二人の大事な命を奪われた。殺されはしなくても、優子は毀された。蹴る。狙いは定めない。どこでもよかった。渾身の力をこめた。股間を踏み潰し、釣針の刺さった箇所も何度も蹴り続けた。失禁していた。口からは涎のようなものが流れ落ちていた。糸を切る。川藤の両手を後ろに回し、糸が皮膚を千切るほどきつく縛りあげた。虫の息だった。私は夢中だった。ゾクゾクする。
 川藤を砂に転がし、靴先で顔面を蹴り上げる・歯が数本飛び散った。藻掻いている。殺す。私は他人事のようにそう思うと同時に、川藤の開いたままの口の中に両手で掬った砂を押し入れた。全身が震えていた。鼻にも砂を入れた。川藤は最早、死の淵を彷徨っていた。
「島に入り、この浜で俺とやり合う気になったとは……。おまえ、傲慢すぎる」
 川藤には聴こえないようだった。私は釣竿と残りの糸を纏め、歩きはじめた。足跡は一時間もすれば波が洗ってくれる。そして、川藤は確実に死ぬ。
 釣針が上手くヒットしていなければ、展開は違うものになっていたかも知れない。幸運は、係わりを持ったがために死んでいった、由梨絵や裕美の力のような気がしてならなかった。そう思うのははじめてのことだった。
 
 手を血に染めた。夜、私は一言言っただけだった。綾は黙ってビールを注いだ。二日経つ。さすがに眠りは浅かった。明けて、市長選挙当日だった。川藤を殺したことは太一にも深谷にも言わなかった。鳴り砂の浜を訪れる人は少ない。シーズンオフだけに尚更だった。私は普通に過ごした。投票には行く。綾は朝早くホテルに出かけた。綾の教育のもと、ホテルスタッフは充実していた。自然に客が増えている。逆に大和田のホテルの凋落ぶりは甚大だった。昼ごろまで家にいた。じっとしてはいられなかった。島の投票所に出かけた。一票を投じて外に出る。パトカーが停まっていた。金井が出て来た。私は煙草を銜え、近づいた。
「川藤が死んだよ」
 私は表情を消していた。
「死んだというよりは、殺されたということだ。容赦のないやり方で」
「それは残念だ。俺が殺したかった」
「散々いたぶり、口と鼻に砂を詰め込んで窒息死させた。相手は極道だ。襲われてやむを得ず抵抗し、行き過ぎて相手が死んだってこともあるが、あれは正当防衛もくそもない。あそまで残忍には、普通の神経じゃ出来ないものだ」
「町も島も、いまは、普通じゃないのばかり出入りしている」
「早坂」
 金井は私を見据えた。
「一昨日はどこにいた」
 眼光が鋭い。
「家ですね。久しぶりに綾と過ごしていた」
 私は尚も表情を殺し、
「俺にはプロを殺すほどの腕はない」そう言った。
「プロも様々だ。高村のような猛者でも殺される。川藤は狡賢さで生き延びてきた薄っぺらな極道だ。堅気でも胆の据わった者なら造作もないレベルの男だ。それに場所だ。奴の首の後ろに大きな釣針が喰いこんでいた。殺り方がえげつない」
「今後の参考になりますね」
「早坂」
 金井が見据えてくる。
「過去は知らん。だが、十代のころに、複数と喧嘩し、海に引き摺り込み、口に砂を喰わせたことがあると、若いころのおまえを教えてくれた人もいる。いまのところ、証拠はないが、しかし、殺しだけは赦さんぞ」
「あんたらしくもない。俺はれっきとした堅気ですよ。これから仕事に行くサラリーマンです」
「悪いことは言わん。わしは現役の警官なんだ。殺しがあれば、ましてやこの島でのことなら、厭でも捜査しなければならん。たとえ島の人間であるおまえでも挙げなきゃならんのだ」
「仕事に行っていいですか」
 金井は応えず、
「いまのおまえの眼は血を吸った刃物のように不気味に耀いている。ヤクザ以上に極道らしい眼をしている。何故そう急ぐ。法律で葬ればいいことだ」
 応えず、私は歩きはじめた。法律で葬る。響きのいい説得だった。優子は輪姦されても訴えないと言った。由梨絵と裕美は殺された。法律は事後のためだけにある。優子の場合、たとえ訴えて犯人が捕えられても、何年かで釈放される。だから、私に報復して、と言ったのだ。法には限界がある。法は殺された者を生き返らせはしない。法は人が受けた疵までは癒せない。加害者を最小限度に罰し、救うだけなのだ。私刑は瞬時には過ぎないけれど、充実を伴う。
 私は連絡船に向かった。金井が港で、私を見送る形となった。

 私は支配人室の窓から、町を見下ろしていた。普段と変わらない光景だった。窓を開けた。距離はあるが、車の騒音の合間を縫うように、投票を促す市の広報の声が流れていた。窓を閉めた。午後三時。宿泊客が二百人ほどある。綾はフロントにいるはずだった。
 もう、チェックインの時間が近づきつつある。受話器を取り上げた。外線ボタンを押した。優子に電話するつもりだった。しかし、携帯もマンションの電話も、留守電になっていた。仕事に復帰したのだろうか。多少の金は持たせて帰した。だが、仕事を持たなければ不安なはずだった。俺なりにおまえの仇は討った。留守電に吹き込んだ。
 川藤が死んだところで、受けて刻み込まれた記憶は消えるはずもない。私の自己満足に過ぎないことではあった。あなたが決着をつけてほしい。優子は言っていた。だから、告訴もしなかったのだ。メッセージを聴き、優子はどう思うだろう。私との係わりを忘れる。それがもっとも幸せな選択だろう。
 受話器を戻し、ソファに腰を降ろす。眼を瞑る。単純に大和田にキレ、これまでの自分にキレたことが発端だった。老いに向かう焦燥感と言えなくもない。私は自分に残されている時間を怖れていたのかも知れない。肉体的なそれよりも、気力が衰えて、これからもずっと、長いものに巻かれて暮らす自分を怖れていたのだ。係わりを持った女が二人、死んだ。もう一人は毀された。拘泥は当然のことだった。
 川藤は葬った。一人ずつ、報復していく。太一が市長になり、大和田を私が仕留めれば、死んだ者への供養になる。と言うよりは、それは私個人の、強い欲求でもあった。私と太一が町にいる。町の住人であるはずの、深谷だけが島にいる。
 
 午後九時には開票速報が流れるだろう。十時を回れば、当確が打たれる。まだ、六時だった。私は綾を誘い、町に出た。危険は感じなかった。川藤関係はほぼ、壊滅状態にある。金井がそう言っていた。町に出てすぐだった。携帯に金井から電話が入った。
「たったいま、大和田を任意で呼んだ」
 金井はいつもの口調だった。
「どんな理由をくっつけたんですか」
 希まない成り行きだった。大和田は最終標的なのだ。
「選挙違反。投票が締め切られてすぐ、一斉に動いた」
 投票はこの町では七時までだった。
「町の警察を使ったんですか」
「そうだ。あの中も、全部が腐っていたわけじゃない。上層部の首は挿げ替え、使えないのは飛ばしたが、活きのいいのは残した」
 ふと、金井が連れて来た、若い刑事を思い出した。私を被疑者のような眼で見ていた。あの刑事はどうしたのだろう。そう思ったが訊かなかった。
「騒然としているでしょうね」
「明日か明後日には全容があきらかになる」
 意図を量り兼ねた。
「何故、そんなことをこの俺に」
「謹んでもらおうと思ってな」
「まさか。俺は何も。今日はこれから、綾と飯でも喰おうとしているところですよ」
「賛成だな。もう町に不審な動きはないだろう。川藤の残党たちも仙台に引き上げた」
 軽い眩暈を覚えた。大和田が身柄を拘束され、川藤の配下は仙台に引き上げたと告げられて、私を襲ったのは、どうしようもない虚脱感だった。金井のすることだ。市長にも的を絞っているはずだった。私は電話を切り、ため息をついた。
「行こう」私は言った。
 腕組んでもいいでしょう。
 ああ。
 綾は子供のように嬉々として腕を組み、スキップするような足取りだった。町は暗かった。街路灯が二つ毀れていて、一層寒く感じた。
 太一さん、どうなるかしら。
 勝つさ。
 そうよね。さっきの電話。難しい顔してたわね。
 大和田が任意で呼ばれた。パクられるのも時間の問題だろう。
 うわぁ、いいことばかりじゃないの。これで、もう、終わりね。いや。まだだ。
 私は否定した。綾は私の顔を見つめてきた。それでも組んだ腕に力をこめ、いまを愉しもうとしているようだった。
「早坂さん」
 不意に後ろから声がかかり、振り向いた。幸一だった。
「久しぶりだな」
「もう、終わりです」
 顔が悄然としていた。眼が濁っている。
「何のことだ」
「親父がたったいま、逮捕されました」
 愕かなかった。任意同行を求められ、署内で逮捕。よくあることだった。金井のことだ。確証を得てのはずだった。
「それで」
「崩壊します」
「おまえ次第だ」
「もう、どうしようもないところまで来ています」
「弱気だな。俺には言う言葉もない」
「あんたが係わらなかったら、すべてが上手くいっていた。あんたが全部狂わせたんだ」
 刃物のような光に見えた。近すぎた。避けられなかった。止せ。脇腹に火傷のような熱を感じた。綾を見た。幸一に立ち向かおうとしていた。蒼褪めた幸一の顔。切っ先が綾に向けられていた。止せ。私は叫んだ。声になっていたかどうかはわからない。倒れる綾の姿を見たような気がした。意識が薄れた。終わるのか。こんなにも簡単に。冗談じゃない。私は呻きながら、キレていた。しかし、身体は動かなかった。遠ざかる靴音だけが、路面にいつまでも響いていた。呼ぶ声がした。綾だろうか。違う。男の声だった。意識はまだあった。朦朧としていた。
「龍介」
 太一の声だ。眼を開くことは出来なかった。
「ここはどこだ」
「島だ」
「家、か」
「そうだ」
「選挙はどうだった」
「勝った。圧勝だ。町は変わる。変えてやる」
 私はうなずこうと努めた。
「綾はどうなった」
 沈黙した。
「綾は」
 私は繰り返す。
「逝った。酷だが、胸を抉られていた。大和田の息子は自首した」 深谷の声だった。
「急がなければーー」
「綾さんが言ってた。ゆっくりして来てって」
「それは無理だ。あいつ一人では可哀想すぎる。決めたんだ。ずっと一緒にいてやるって」
 意識が再び、遠退いていく。
「しっかりしろ。極道の俺が残り、堅気のおまえが先に逝っちゃ恰好がつかないだろう」
「キレたんだ。極道さ、俺も」
 苦しさも痛さも消えた。記憶さえ薄れていくようだった。これがあの藪医者の腕なのか。無疵のときよりも楽だった。
 すべてが朦朧として遠退いていく。浮かんだ綾の顔が笑っていた。
 笑うな。何もしてやれなかった。綾はうなずいた。私はまだ、生きている。だが、確実に死に近づいている。それがわかった。不思議だ。死がすぐそこまで迫っているのに、ゾクゾクする。
 駄目だ。綾に悪い。ゾクゾクしたまま死ぬなんて。綾に悪い。綾が私を見つめている。私もゾクゾクしているの。綾が言う。私は笑った。近づく。綾は逃げなかった。両手を目一杯に拡げて、私を待っていた。走って跳んだ。
 綾の胸に飛び込んだ。瞬間、私の五感が、光も声も遮った。
                                                       (了)